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窓際のおっさん24 人材育成に昔の価値観が上手く通じない背景(2/4) 愛情のない単に厳しいだけの誤った教育

 前回は、単に苦労を正当化するのではなく、成功体験(失敗体験)を伴う良質な苦労でなければ、成長できないこと。故に下の世代が昨今の徒労でしかない苦労を嫌う考え方になって、教育が通用しなくなっている状況を述べた。
 今回はその続きとして、事務処理はスキル養成的側面では、苦労ではなく徒労でしかないこと、そして次の項目、厳しい指導の困難さについて、まずはおっさんの体験談まで述べたい。

<前回の続き>


 事務処理でも成功体験、失敗体験になると言うかもしれないが、事務作業には成功の概念が薄い。そして事務処理ミスはトラウマにこそなれ、成長には繋がりにくいと断言する。なぜならば、

① 事務処理は通常複数人のチェックを経るため、責任が曖昧
② 慣れれば結局、単純作業の繰り返しでしかない
②  形式が多く「意識」に頼るしかない仕事で、失敗しても「次は気をつける」「何度もチェックする」と言った解決策に終始する他なく、これは歳をとれば取るほど衰えるばかりで、役立つスキルにならない。
③ ルールどおりのようで、上役の主観や意向による例外処理が多く、ルールを覚える甲斐がない。

 言うなれば、事務処理は単なる労力の消耗でしかなく、スキルやノウハウの蓄積があまりないのである。そんなことはないと一部の事務屋からはクレームが来そうだが、明日隣の会社の同様の事務をやれと言われても、十分に慣れるまでは通用しないのだから、有用スキル認定としては疑わしいものだと、おっさんは思う

 苦労とは、思考し、提案し、説得し、責任を負い、失敗あるいは成功し、改善して蓄積されるという一連の経験であると思う。

 しかし近年は、ただ処理量が増えただけの徒労を「私は苦労した」「苦労したから成長した」なとど正当化し続けており、「お前ももっと苦労しろ、もっとミスなく効率良くこなせ、それが成長だ」と本気で徒労を押し付けるばかりのズレた人が幅を利かせている。

 そんな形式的な苦労信者ばかりを相手に仕事をせざるを得ないから、「苦労しなくてもいい」「苦労は馬鹿馬鹿しい」と考える人が増えて、価値観の違いから、教育がうまくいかないのではないだろうか。

<厳しい教育:単純に厳しく接すればいいというものではない>


 氷河期前の人に多い価値観だが「叱られて成長する」「厳しいノルマや要求で成長する」という考えがある。

 おっさんも20代の頃は「厳しいご指摘で成長することができました」などと美辞麗句を言って切り抜けたことは何度もあるし、より若い時は、厳しさの先に成長があると信じてすらおり、繰り返し自分に厳しい試練を課したこともある。だが色々経て一つ言えるのは。。。

 自分で自分に厳しくするならともかく、誰かに厳しくされたことで成長できたことはほとんどない。

 ということだ。

 これは、自分にとって成長となり得る最適な厳しさについて、自分自身は良くわかっているが、赤の他人で、それも付き合いの短い輩が簡単に分かるわけがないという単純な理屈によるものだと思う。

 厳しく接するにはそれだけその人への理解と考察、そして深い愛情が不可欠なのは言うまでもない。そうでなければ、厳しい態度は単なる形式的で野蛮な支配ツールでしかなくなる。

 おっさんの体験を話す。

 役所でのある部署での仕事の時、昇進試験を受けて「主査」という立場に昇進した途端に「主査なのだから」と、急に怒ったり厳しい言い方を上役がしてきたことがある。

 しかも、部下後輩の信頼を得られない、外部との調整が下手くそという、管理職に必要とされる人間力についての叱責ならともかく、初めて体験する単純事務処理の効率と精度に対する叱責であった。

 事務処理に慣れることも大事だが、たかだか1ヶ月で周囲も毎日サービス残業や休日出勤をするほどの業務量について、頭ひとつ抜けて優れるのは酷である。

 加えて知り合って1か月未満なのに「主査」であるだけの理由で、突然おっさんにだけ厳しく出た挙句、その後の半年で周囲と比べて残業時間を半分に短縮したのに、おっさんの成果を一切見ず、「効率が悪い」と叱り続けるという。。。


次回に続く

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