パンケーキみたいな国と言われるデンマーク
つくづくフラットな国だ。デンマークは。
山がない。一番高くて標高170メートル。
(通常1時間で標高300メートル登れる)
だからパンケーキみたいな国と言われている。
風力発電が盛んなのもこのおかげ。
でもわたしが好きなフラットさは、そこじゃない。
組織が、ひとが、フラットだと思うのだ。
ひとが、ひととして平等に扱われている。
日本でいつも
「いや。その前にまず一人の人間だろうよお!!」
と憤怒していたわたしは
それが当たり前にある日常を幸せに思っている。
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生徒の受け入れ準備をした。
たった数時間、言ったらただの単純作業なのに
「ひとをひととして扱うこと」
「差別を感じさせないようにすること」
を大切にしている場所だと感じた。
たとえば、わたしのようなインターナショナル組が
仲間外れだと感じないように、
グループを部屋の真ん中に配置しようとか
先生とインターンの差がないように
名前を同じサイズで書くとか
そこまで気にするんだ!!ってくらい気にしていて
わたしの無意識の中にも、たくさんの差別が
ひそんでいるかもしれないと身が引き締まった。
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校長先生に
「あなたは先生なのよ。忘れないでね」
と言われた。
わたしはインターンとして働いているので
頭のどこかで「先生ではない」と思っていた。
でもそれはプロに徹しないための
言い訳だったのかもしれないと感じた。
自分は先生じゃないです〜と思えば
生徒との関わりを友達のようにしてしまえる。
友達と言ったら聞こえがいいが、
プロではない。
もっというと、わたしはまだ、
先生と生徒を
上下関係としていたのかもしれない。
先生というと、
どうしても「上」な感じがしてしまうけれど
別にそういうわけじゃない。
わたしは、「先生じゃない」と思うことで、
横ばいでいたいと願っていて、それはつまり
「先生=上」とみなしていたのかもしれない。
先生だからといってわたしの価値が上がるわけじゃないし
インターンや生徒だからといって
価値が下がるのでもないのにね。
もちろん「先生」というプロとしての自覚は持つ。
でもそれがひとの価値に関わるわけじゃない。
見極めづらい小さな違いだけど、
間違えたらいけない大きな違いだと思った。
ちなみにデンマーク語で
「教える」と「習う」ってどちらも「at lære」。
教えることは教わること。
どちらかが教えるってわけじゃなくて
お互いが教わるということ。
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英語ができないわたしはなんてダメなんだ。
なぜひとと積極的に話せないんだろう。
それはあなたが英語を話せないだけで
あなたの価値がないってことじゃない。
ここに9年前は気づけなくて
信じられないほど、自信がなかった。
自分ダメだなあっておもうときほど
苦しいことはない。
デンマーク語ができなくたって
わたしの価値は変わらない。
先生になったからって
わたしの価値は変わらない。
誰かに心無いことを言われたって
わたしの価値は痛くもかゆくもない。
まだまだプライドがあって
「わたしの方ができるもん」って思ったり
「なんでそんなこと言われなきゃいけないの」
と傷ついたりするけれど
価値はかわらない、という大丈夫さもあるし
むしろ無価値であっても大丈夫ですらある。
ひとはみんな、生きているだけで価値があるし
その価値はひとによって変わるものでもないから、
逆にいえば高いわけではない。もちろん低くもない。
ひとはみんな、特別だし、
みんな、普通。
お返しの愛は無限大、一緒に幸せに貪欲になりましょうね!!