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【読書メモ】世界は贈与でできている

ギフトに関する事業(AnyGift)をやっている者として、
色々と世の中のギフトを贈ってみたり、書籍や歴史も見たりしています。

そんな中、ギフト = 贈与 として目についた本。
実は以前読んだことがありましたが、今この事業をやりながら、
ギフトに対して深く深く入り込んでいるタイミングで読むと、また違った示唆があったので、メモとしてまとめてみます。
(めちゃくちゃおすすめなので、ぜひ買ってください↓📕)


この資本主義社会で「お金で買えないもの=贈与」が果たしている役割とは何か。 「人間」と「社会」の意外な本質について書かれた、哲学者・近内悠太さんの本。
贈与の概念や、人との繋がりの再考、隠された無数の贈与、色々な世界の見方、生きる意味について。
物事の見方を大きく変えてくれる一冊です。


贈与は、お金では買えないもの

経済学的な視点にて、「人は一般に好みを最もよく知っている」という前提、そして「ギフトの目的はその受取人を幸せにすること」という前提に立つと、ギフトを購入して渡した場合は、支払った金額と同額の物を受取人自身が購入した場合よりも必ず効用が小さくなる。なのでギフトは買ってはならない、使うはずだった現金を渡すべきだ、という点がある。
確かに不要なギフトは渡したくないが、「正しいギフト = 現金」という論拠は直感に反してくる。贈与には市場価値には回収できない何らかの"余剰"があるはず。
例えばノーベル賞がお金で買える場合、その賞をもらう喜びも名誉もなくなる。それは授与されるもの、贈られるもの。
お金で買えないものは、誰かから手渡されることによって、贈与として目の前にやってくる。


贈与とは人が生まれ持った能力

人間の赤ちゃんは、生まれた瞬間から立ち上がることが出来ない。物を食べることも出来ない。親の助けが無ければ生きていけない。私達は、人間として生まれて、その瞬間から「他者からの贈与」「他者への贈与」を前提として生きていくことを運命付けられている。脳の未熟な乳児の出産という「弱さ」が、贈与という人間特有の能力を生み出した。全ての人々が贈与を通して成長し、贈与という本能が刻まれている。


本当に大切なものは贈与からしか手に出来ない

自分で買ったモノは、あくまでもそのモノを超えない。
誰かからギフトとして手渡された瞬間に「モノ」がモノでなくなる。無意識的な余剰分がある。余剰分は自分自身では買うことはできない。余剰分は誰かから贈られた瞬間に初めて、「この世界にたった一つしかない特別な存在」としてこの世界に立ち現れる。
贈与とは、モノを「モノではないもの」へと変換させる創造的行為であり、
他者から贈与されることでしか、本当に大切なものを手にすることができない。


ギフトは贈る側になる方が喜びが大きい

自分の誕生日を誰にも祝ってもらえなかったら寂しい。
でもそれ以上に、自分に「誕生日を祝ってあげる大切な人」「お祝いをさせてくれる人」がいなかったとしたら、もっと寂しい。
誰かにギフトを贈ると、そのお礼に、またそのお礼に、と返礼が後続し、最終的には「贈与の応酬」に変貌する。
つまりギフトを受け取ってくれる人がいるということは、その相手が自分との何らかの関係性、「つながり」を持つことを受け入れてくれたことを意味する。
だからギフトを受け取ってくれたり、こちらの祝福を受け入れてくれたりすると、僕たちは嬉しく感じる。


ギフトに対価を求めるならば、それは「交換」

お金では買えないものが贈与である以上、与えた側はそこに見返りを求めることはできない。
もし何らかの対価を求めるのであれば、それは「交換」となる。
未来の利益の回収を予定している贈与は贈与ではなく、「渡す」「受け取る」の間に時間差があるただの交換であり、偽善であり、自己欺瞞となる。


返礼でない贈与には恐れがある

見返りを求めない贈与は、多くの人々は恐れている。
ボランティア等のように、見返りを求めず、誰かのために尽くしたり献身的になることは美徳かもしれないが、それは自分が疲弊してしまうのではないか?というもの。
だが、自分がすでに受け取ったものに対する返礼なら、それは自己犠牲にならない。それが過去の負い目に対するものなら、正しく贈与になる。
贈与は受け取ることなく開始することができない。贈与の構造、贈与の力学は返礼から始まる。


贈与は繋がりを作り出す

親友や信頼できる人たちには、贈与分と等価で見返りを求めたり、ギブアンドテイクの関係だったり、ウィンウィンにならないと行動しない、と言ったことはない。
困っていたら親身に助けて、相談に乗って、なんとかしてあげたいと素直に思える。人間的なつながりは、本質的には贈与的なつながり。贈与を通して他者と繋がっている。


贈与は時として呪いになる

贈与には人と人を結びつける力があるがゆえに、その力は時として自分、そして他者を縛り付ける力「呪い」として機能する。
例えば、届いてしまった年賀状。贈与は差出人の意図にかかわらず、受取人に一方的な負い目を与える行為となる。そしてその負い目がふたたび贈与を引き起こす。
もしこちらにお返しをする心づもりが無かったり、返礼をする用意や準備が出来ていなかったり、あるいは返礼が原理的に不可能な場合、善意や好意を押し付けられると私達は呪いにかかる。


名乗らない贈与者サンタクロース

差出人がそもそも存在しない贈与もある。
贈与は「受取人」がこの世界に出現した時にはじめて贈与となる。
贈与者は名乗ってはならず、贈与は手渡す瞬間には気づかれてはならない。名乗ってしまったら返礼が可能になり、交換に終わってしまう。
あるいは返礼ができない場合、呪いにかかり自由を奪われてしまう。
サンタクロースという概念であり装置は、「これら親からの贈与だ」というメッセージが消去され、子供や親に対する負い目を持つ必要がないまま、無邪気にそのギフトを受け取ることができる。
見返りを求めない純粋贈与という、不合理性を合理性へと回収するために要請される装置、機能に与えられた名前がサンタクロースであり、贈与の困難を切り抜ける方法。


礼儀の本質は「冗長性」にある

贈与にはある種の「過剰さ」や「冗長さ」が含まれている。わざわざ手紙を書いてくれたり、丁寧にラッピングをしてくれたり、ある行為から合理性を差し引いた時にそこに残るものに対して、私たちは「これはわたし宛の贈与なのではないか」と感じる。
他者からの敬意や礼節もそのようにして僕らに伝わる。帽子をかぶっている男性は、誰かと会った時には脱帽するのがマナーであり、それが何の合理性も持たないからこそ、こちらへ向けた敬意の表れだと気づく。
冗長とは、言い換えれば「無駄」であり、無駄が多ければ多いほど、つまりコストがかかっていればかかっているほど、「より多くの敬意」というメタメッセージが込められているように感じられる。
ギフトも、「これAmazonで買ったんだ」と言われるより、「これ見つけるのが大変だったんだ」と言われる方が嬉しい。
贈与は合理的であってはならない。不合理なものだけが、受取人の目に贈与として映る。


純粋な自然の贈与を受け取るとシェアしたくなる

僕らは美しい景色を見たり感動したりすると、誰かに教えずにはいられない。その光景をいまここで誰かと共有したくなる。純粋な自然の贈与を受け取ると、すぐにでも誰かにシェアしたくなる。
それは、美しいものや大切なものをシェアすることが親愛の証だから。僕らはつい、大切な誰かに共有してしまう


贈与は市場経済の「すきま」にある

現代社会が採用している市場経済は等価交換を前提としている。資本主義はあらゆるものを「商品」へと変えようとする志向性を持つ。
僕らの目の前には、購入された「商品」と対価を支払ったことで得られた「サービス」が溢れている。
しかし、だからこそ、その中にぽつんと存在している「商品ではないもの」に気づくことができる。
他者から贈与されることによって「商品としての履歴が消去されたもの」も、サービスではない「他者からの無償の援助」も、市場における交換を逸脱している。
だから贈与は市場経済の「すきま」に存在すると言える。市場経済のシステムの中に存在する無数の「すきま」そのものが贈与。


あなたが存在するだけで「贈与」である

贈与は、それが贈与であるならば、宛先から逆向きに、差出人自身にも与えられる。それは等価ではない。まったく質の異なるものが、両者の間を行き来する。その使命感とは「生命力」そのもの。
「受け取ってくれてありがとう」「困った時にわたしを頼ってくれてありがとう」。差出人の側が何かを与えられたと感じたからこそ発することのできる言葉。宛先を持つことのできた偶然性。
贈与の受取人は、その存在自体が贈与の差出人に生命力を与える。
私達は、ただ存在するだけで他者に贈与することができる。
受け取っているということを自覚していなくても、その存在自体がそこを宛先とする差出人の存在を、強力に、全面的に肯定する。


最後に感想

ギフトを贈りたいという思いは誰にでも備わっていて、
贈りやすくするためのフリクションをなくしていくこと、より思いが届くようなサービスの形にしていくことは大事だなと感じた。

不合理であればあるほど、ギフトは嬉しい形で届くという話は、
これまでAnyGiftを導入いただくと、デジタルメッセージカードの選択や、ギフトメッセージの入力、贈り主名の入力、あえて手間がかかるような設計にしてきた立場として、良かったなと思う。

実際、このメッセージ欄には100文字も200文字も想いを書いてくれる人がいるし、それを受け取った側の反応もすごく良い。


自分も毎週5~10人ぐらいにギフトを贈っているが、そのように贈れる相手がいるということ、繋がりを創り・継続させてもらえる人がいるというのは、とても嬉しいことだなと思ったし、今後も繋がり続けたいと思っている(呪わない形で)。

振り返ると、人生いろんなところで助けてもらって、いろんな人から贈られてきたものがあるんだなあと感じるので、だからこそ誰かに自分も贈る側にまわろうと思えるし、そうやってギフトの返礼が続いていくと良いなと。

自分たちのサービス・システムを通して、そして顧客の商品を通してギフトが飛び交い、人と人が繋がる機会を創り続けられたら良いなと、思った。


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