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物書きの自信、小説への確信

 タイムラインに流れてきたあるツイートが今回の発端になる。

「物書きの皆さんの自信はどこから湧いてくるのか。」
「投稿して人に見てもらうということは、絶対的な自信の上に必ず成り立つものであるはず。」

https://twitter.com/eris_z33/status/1612707206658654208

 最初に無駄話をする。
 自分語りが嫌われるのではなく、人が話しているところに割り込んで自分語りをする不躾さが嫌われるのだと思う。
 自分語りは隙ではなく機を見てやるのが良い。たとえばこの文章のように、割り込む/割り込まれる余地のない note に書くとか。

 本題に入る。

 小説を書くこと自体は年齢がひと桁の頃からやってきた。インターネットが使えるようになってからはそこでも公開してきた。小説を本にして発表するというのも、始めてから今年で五年になる。
 書くことも誰かに読んでもらうことも、それなりの期間でやってきている。でも一度だって、自分の小説に自信があった試しなんてない。

 自分の小説に自信があった試しなんてない。
 
大事なことなので二回書いたし太字にもする。

 私にとって書くことは生きることと同義だ。一字一句一文一節一章一篇一冊が、呼吸や拍動と等しい。自分の呼吸や拍動に自信がある人なんていないと思うし、生きるために当たり前にやることに自信も何もないはずだ。
 自信がなければ息を吸ってはいけないし心臓を動かしてはいけない?
 そんな馬鹿な話があるものか。

 上記のツイートに自己リプライする形で、投稿者は話を続けている。

「最近は絶対的な自信がないと不安になるし、物事を決められなくなってきた。」
「小説でも確実に読まれる、書いてる知識が確実で間違いない、キャラもストーリーもこれで確実に行ける。
全てが保証されないと怖くなってる。」

https://twitter.com/eris_z33/status/1612709111493439488

 小説を書くこと自体が曖昧な行為だと私は思う。
 村上春樹だったと思うけれど、小説を書くというのは自分のなかの深く暗い場所に潜っていくものであるらしい(出典を完全に失念した、申し訳ない)。ひどく曖昧で、恐ろしく、不安定な行為だ。自分の輪郭が消し飛ぶほどの恐怖を覚えたりもするだろう。事実、私もそのような体験の前兆のようなものには出くわした。
 そうして書き上げた小説に、正しさという物差しを当てることに私は意味を見出せない。自分の奥底から拾い上げてきたものは、正しさや確実さといった価値観からかけ離れているからだ。

 このツイートの投稿者にもしひとつだけ尋ねられるなら、「あなたの本当の望みは何ですか」と問いかけたい。

 正しくありたいのなら、小説以外の手段を探したほうが良い。
 作品を万人に読まれたいのなら、そのための技術はたくさんある。片っ端から試せば良い。
 ただひたすら書き続けたい、どんな困難にあっても書きたいと望むのなら、あなたは私の友達だ。
 どんな誓いよりも願いは人を駆り立てる。何をしたいか、どうありたいか、それに従うほかはないと私は思う。

 最後に、この問いに応える。

「投稿している皆さんの自信は、どこにあるのか。作品に間違いは無いと確実に言えるのか。
全て無いとするなら、何故書き続けられるのか。」

https://twitter.com/eris_z33/status/1612710753483784193

 自信はどこにもない。作品に間違いはあるかもしれない。というか、ほぼ確実にあるだろう。
 それでも書き続けるのは、生きているからだ。
 私が書いた小説は、私が生きている証、私が生きた証だからだ。
 他に理由などいらない。

 追伸。
 間違っても「超ド底辺駄文書き」などと名乗ってはいけない。

 そう名乗った瞬間に本当に「超ド底辺駄文書き」になり、書いた作品はすべからく「駄文」になり、そこから一歩も動けなくなる。言葉に縛られて他の何にもなれなくなる。

 読者に失礼であるからではない。あなたに失礼だからだ。自分の存在を、自分の分身たる作品を、自分自身で害する行為だからだ。血の流れない自傷行為に他ならないからだ。
 だから、どうか、やめてほしい。