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【無料記事】おやすみ、獏たち(『千夜曳獏』千種創一 歌集 によせて)

 獏という生き物を見たことがない。

 Google に尋ねたところ、それはつぶらな目と、丸い耳と、やや長い鼻と、穏やかな性格を持つらしい。
 そしてこの生き物は、種類にもよるが、白と黒の毛皮をまとうそうだ。

『千夜曳獏』も白と黒だ。
 少し砂のようなくすんだ色合いの白と、ややつやのある黒。毛足の短いやわらかな表紙。

 ページをめくり、読む。そして本が終わりに差しかかる頃、ぽつんと歌が現れる。
 タイトルはない。一章のまるごとすべてを捧げられた一首だ。

千夜も一夜も越えていくから、砂漠から獏を曳き連れあなたの川へ

 三十一文字の、モノクロームの足跡を辿って、疲れた背中とつぶらな目にやっと追いついた。そんな風に見えた。

「千夜も一夜も越えていくから」とひと息に告げる苦しさに、この巡礼の過酷さを垣間見る。
 長いアラビアンナイトだ。シェヘラザードも匙を投げ、稲垣足穂も舌を巻くような短く奇妙な夢が旅人を待っている。

 視点の人(造語。主体という言葉はどうにも舌触りが悪い)は、おそらく何度も夢を見るだろう。「あなた」の夢を。
 どんなにうつくしくあまい夢であっても、目覚めて隣に「あなた」がいなければそれはすぐさま悪夢に変わる。
 夢の吉凶を定めるのは常に現実に目を覚ますときで、旅人は繰り返し野宿の砂のうえを苦痛に転げ回るのだろう。

 記憶は夢の種だというが、記憶はいつも人にやさしいわけではない。

 そのような千夜と一夜をくぐって、旅人は進み続ける。
 頬は削げて、目ばかりを大きく見張って、獏の手綱を握って。
 獏は旅人に付き従い歩く。
 悪夢に膨れた腹に息を切らして。

 夜を越える。何度も夜を越える。何度も夜を越えて空が白む。
 そのとき、耳鳴りの向こうに水の音を確かに捉えるだろう。

「あなた」が、どちらの岸にいるかはわからない。
 それは旅人だけが知りえることだ。

 だから、読者という偉大なる多数のなかの、砂のひと粒でしかない私はただ祈る。

 旅人が、「あなた」を確かに感じられる岸で、ゆっくりと眠れることを。
 もう悪夢を見ず、ただ河の流れる音だけを頼りに、深く、憂いなく。
 そして、同じくくたくたに疲れているだろう獏にも、ひとしく安らかな眠りがあることを。


千夜曳獏 - 青磁社 seijisya
https://seijisya.com/book/seijisha-178/


BGM
Lowlands - Taylor Deupree · Marcus Fischer


 所詮は幸福な誤読である。
 それでも、失望と思い上がりに負けないでいたい。
 読むことでしか進めない道があるはずだから。


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Nikola BelopitovによるPixabayからの画像


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