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鶏が象徴する非日常と他者/リンダ・エレガント『鶏』ナショナルストーリープロジェクトより

こんにちは!
此島このもです。

先日『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』のまえがきを紹介しました。

この本は1999年アメリカに生きる市井の人の声が聞ける大変面白い短編集です。アメリカの作家ポール・オースターがラジオで現実に起きた物語を募集しまとめました(この本の面白さについては上記の記事をご覧くださいませませ🙏)。

一般の人々の紡ぐ物語は読みやすい話ばかりではなかったようです。しかしそれでも「ほとんどすべての物語に忘れがたい力がみなぎっている」とオースターはまえがきに書いています。 

私もこの本の忘れがたい力に心を動かされたひとりです。

心を動かされた物語全てについて感想を載せたいと思っているのですが、なにしろこの本には180もの物語があり、いっぺんに書き切ることができません。

ですので今回は「動物」の章のなかから『鶏』だけを抜粋して感想を書きます!


『鶏』

これは通りを行く鶏を目撃した筆者のごく短い物語です。その長さはたった6文。5行しかありません。

内容は簡単。通りを歩いていたら前を鶏が歩いていたよ。鶏は人の家のドアをくちばしで叩いたよ。そしたらドアが開いて鶏は入っていったよ。そんな物語です。筆者の感想は一切無し。いったいその鶏はなんだったのか想像が膨らみます。

あまりの短さに困惑される方もいらっしゃるかもしれませんが、私はこの物語が好きだし、始まりの一編としてふさわしいと思っています。

この物語を読んだときの不思議な感覚……(この感覚については是非読んでご自身で味わって頂きたいです)何か不思議なことが始まりそうだぞという期待感とか、筆者と鶏(鶏が象徴する非日常)との距離感とかが絶妙だからです。まるでこの物語が『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』そのものを表している気がする。それって短編集のはじまりとしてふさわしくないですか?

結局最後まで読んでも、急に人家に入って行ったその鶏がなんだったのか全くわかりません。でも人生ってそういうものだよなと思うんです。

スッキリ結末がわかるのはフィクションだけのことで、世の中を生きて他者と交われば納得できないよくわからない話などごまんとあります。(外側は同じ人間のように見えたとしても、内面は鶏のように理解しがたいものだというのが私の他人についての見解なんですけれど、それは人を信じなさすぎでしょうか※)

だから鶏が何だったのかわからない方が、かえって「人生を表している」とか考えが膨らんで良いと私は思うんですよ。

また、この話の「非日常との一瞬の邂逅……しかし非日常が結局何だったのかわからない」というところはこの本『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』そのものを表しているような気もします。
読者はこの本を読むことで鶏のように不可解な他人の内面や、他人の経験した非日常を一瞬目撃するんです。けれども結局一度見たところで表面的なこと以外がわかるわけでもなく、また読者は各々の日常に帰っていく……そういう比喩表現のように見えます。この本を読んだとしてもそれぞれの書き手の人生について書いてある以上のことは何もわかりませんから、それは他者が鶏の外見を見て「鶏だな」と思うことと変わらないように思えるのです。

そうそう、それから鶏はトキの声で朝(一日のはじまり)を告げる生き物ですよね。そんなところも、まさにこれがはじまりにふさわしい物語だと感じるんです。


※一応断っておきますが私は「他人なんてチキン野郎だ!」などと悪口をいいたいわけじゃありませんよ。言葉が通じるので忘れそうになりますが、自分の常識と他人の常識は違っていて、人間とは分かり合えないものだと思っているんです。まるで動物のように。

ペットなど動物と日常的に関わっている方はご存知だと思いますが、動物が相手でも声色や仕草は伝わります。だから動物と人間は言葉が通じないだけで、そこまで遠い存在じゃないと思うんですよね。けれども動物には動物の理屈がある。本人の意思や好みもある。それって人間みたいだなって思います。


↓『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』次回の記事はこちら

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