見出し画像

最期の寝顔は希望に満ちる




バタバタとしていた部屋も静かになった。

医者は寝ている彼女の横で立ち尽くしていたが、
しばらくして小さなチェアーを
側に置き直し座った。

こんな小さな村では、
これ以上この女性を
楽にしてあげる方法も無かった。


「せめて娘さんが間に合えば良いんだが…」


医者は腕時計と女性を交互に見た。


止めどなく雪が降り続いている。


夜になってしまってからは
白い地面に真っ暗な夜空が相まって
その中を歩くと吸い込まれてしまうような
奇妙さを持っていた。



「もうすぐ娘さんが来てくれるっちゃよ。
それまでは頑張らんかい?春江さん」


まるで普段と違うことを察したように
雪が降り続けるものだから、
そのせいで春江の娘は到着が遅れていた。

「春江さんには、随分お世話になったものだ」



今や生活を共にする仲間は30人。
小さな村に住む住民同士、
最早顔の知らない者など居る筈が無かった。


医者は学生時代、
都会で医学の勉強をする為のお金を
春江に支援して貰った過去があったのだ。


その恩を返すべく、
長年独りで住む春江が息を引き取る瞬間まで
面倒を見ようと心に決めていた。


春江の手を握ると、
僅かながら指が動くのが分かった。



春江の苦しそうな息と
パチパチと弾ける暖炉の火だけが
小さな家の中で聞こえるだけだった。


春江は一瞬呼吸が穏やかになり、
何かを思い出したように
ゆっくりと口を開いた。


亡くなる寸前、
最期に意識が戻ってくる人は少なくない。


医者は懸命に言葉を読み取ろうとした。


しかし、声を出す元気もなく
医者の耳にまで届くことはない。


医者はせめてもの気持ちを込めて、
そうですね、とにこやかに呟いた。


春江は納得したのか諦めたのか
再び荒い息づかいだけが部屋の中に響いた。


時計の針が丁度1時を差したとき、
しんしんと降る雪の中から、
僅かな足音が聞こえてきた。


その足音はだんだん大きくなり、
確かに家の前で止まったのだった。


扉を叩く音もなく、
ゆっくりと開かれると
見覚えのある女性が顔を出した。


「遅くなりました」


娘の幸江だった。


肩にまで雪が積もっており、
長時間歩いてきたことが伺える。


分厚いコートも長靴も、
全く意味を成していない。

幸江は身体中の雪をぽんぽんと叩いた。


「あぁ、間に合いましたよ。幸江さん」


「車が止まったので、
歩いた方が早いと思って此処まで来たのです。
やっぱり歩いて正解でした」


幸江は春江の側まで寄ると、
そっと額の汗を拭ってやった。


「お願いがあるのですが、
どうか最期の瞬間を私1人で
看取らせてくれませんか。

これまで散々お願いばかりしておいて、
我が儘だとは思っておりますが」


医者は少しの間考えて、
それからそっと席を立った。


「僕も医者として恥ずかしい限りですが、
これ以上春江さんを
楽にしてやることが出来ません。
是非この時間を家族で過ごしてください」


医者は一礼すると
何かあったときにはすぐ、
と電話番号を渡した。

茶色いコートと黒のハットを手に取ると、
そのまま雪の中へと遠く消えていった。


幸江は医者の姿が
見えなくなるのを確認すると、
そっと扉を閉めて、
再び春江の元へ寄った。


春江の心臓に手を置いて、
まだ心臓が動いていることを確認したのだった。



「お母さん、久し振りね」


幸江はそっと母親に話しかけた。


「あらあら、貴方は私を
『母さん』と呼んだ筈だわ」


見ると、春江は静かな息づかいで
此方を見つめている。


春江は安らかな顔をして笑っていた。



「貴方は誰なの?」



幸江はクスクスと笑った。


「死神ですよ」


春江は別に驚いた様子も無かった。


「お迎えが来たのね」


それから続けて語り掛けた。


「お願いだからその格好は辞めて頂戴」


幸江はクスクスと笑い声を上げた。


「そうですね。
貴方は死ぬ瞬間を誰にも
見られたくないと、
散々言ってましたもんね」


幸江はすぐに姿を変えた。



背丈が3分の1程縮み、
無邪気な顔をした少年の姿になった。

毛布のように分厚い
真っ黒なフードを上から被っている。


「ではこの格好で失礼致します」


春江は幾らか安心をした。

知り合いである医者に
息絶える瞬間を見られないよう、
届かない声を必死に震わせていたのだ。


「私は変かしら」


「いえいえ、時々同じような人が居ますよ。
必死に看病していても
ふと目を離した瞬間亡くなってしまう。
そういう人は大抵貴方と同じような方なのです」


死神は春江の額に
濡れたタオルを置いた。


「幸江には申し訳ないと思うのだけど、
愛している娘だからこそ
元気な姿を思い出に残していて欲しいの」


死神は春江の声に耳を傾けていた。


肯定も否定もしなかった。


「死神の仕事は、
死者に寄り添うことですから」

少し大きすぎるフードは、
俯くと殆ど表情が隠れて見えない。


「折角なので、
最期の瞬間まで貴方のお話を聞かせてください。
静かに迎えるより良いでしょう」


そうね、と春江は微笑んだ。


それから「何の話が良いかしら」と語り掛けた。


「貴方が人生で1番幸せだった
瞬間を教えてください」

死神はまた、クスクスと笑う。


「それは決まってますよ。
おじいさんに出会った日のことです。

私は毎日ヒマワリ畑から女学院に通っていて、
おじいさんはヒマワリ畑を通って
お店の配達をしていたのよ。

あの日出会って、
私が落としたリボンを拾ってくれなければ
幸江にも出会えなかったし、
こんな幸せな人生を辿ることは
出来なかったもの」


春江はその頃を思い出して、
すっかり乙女の顔に戻っていた。

その表情はこれまでの人生と恋愛が
とても幸せであったことを物語っている。


「では、貴方はもう1度
そのお方に会いたいですか」


「勿論よ。
私はそれを楽しみに死ぬのですからね」


死神はそれを聞いて、
幾らか安心したようだった。


「どんなときも、
楽しみを持つのは良いことです」


死神は枕元に置いてある時計を
ぼんやり見つめていたが、
一定の速さで動き続ける秒針に目が回り掛け、
慌てて時計を裏返した。


「貴方は魂を貰いにここまで来たの?」


若々しさを取り戻した瞳が、
死神に語り掛けていた。

「そんなことはしません。
私は悪魔じゃないですからね」


死神はクスクス笑う。


「それは大変。
冥土に送って貰うのに、
何もあげるものが無いわ」


「死んでまで何かあげる必要なんてありません。
貴方はこれまでに
沢山のものを配って来たでしょう」


死神はそれから
春江を灯していた蝋燭の火を消した。

部屋を暖め続けている暖炉だけが
2人の存在をぼんやりと映す。


「死ぬのは怖いですか?」


死神は春江の手を握った。

最早、春江の顔もぼんやりとしか認識出来ない。

それでも時々、
潤った瞳が死神の目に反射した。

春江は死神の手を握り返した。

「いいえ。
貴方が来てくれたので、
唯一不安だった寂しさも
すっかり無くなりました」


「それは良かったですよ。
死神冥利に尽きるってもんです。」


そうして死神は、
春江の手をそっとほどいた。


「では、そろそろ行きましょう。
私はずっと側に居ますからね」


死神は暖炉に近づくと、
小さく息を吹き掛けた。

今まで激しく燃えていた筈の暖炉は、
その小さな吐息で
すっかり静かになってしまった。


家中から、
静寂の音が聞こえる。


死神は春江の側まで寄ると、
肩にまで布団をかけ直してやった。


「もうすぐ娘さんが来ます。
その表情なら、
貴方がどんなに悔いなき人生を送ったか
娘さんにも伝わると思いますよ」


魂は同じ姿をしていても、とても軽い。


春江は未来に希望を持っているように
純粋な顔をして眠ったままである。


雪は相変わらず降り続いていた。


死神は軽くなった彼女を背負って、
足跡も付けぬまま
うっすらと暗闇へ消えて行った。



挿絵提供:みゃーむょん
https://instagram.com/wimwim_1616?igshid=1ggd76pe3w0k5

画像1


Another story

ここから先は

1,119字

¥ 100

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が参加している募集

#スキしてみて

527,285件

よろしければサポートをお願い致します!頂いたサポートに関しましては活動を続ける為の熱意と向上心に使わせて頂きます!