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#1. 英語のテキストにBye-Bye

そうだ、英会話スクールに通おう。そう決めたのは失恋がきっかけだった。

予定のなくなった土曜日。どこでもいいから、どこかに出かける口実が欲しかった。毎週土曜日の同じ時間に「行く場所」ができただけで、そのときのわたしは思いのほか救われたのだった。

社会人になってから、英語に触れる機会はほとんどなくなってはいたけれど、学生時代は英語が比較的得意だったはず。しかし、意気揚々とスタートしたわたしの前に「会話の壁」が立ちはだかったのは言うまでもない。多くの日本人が陥るように、わたしもまた、机上の勉強と実践の勉強の違いに打ちのめされたのだった。

学生時代に学んだ文法や英作文が、まったく役に立たなかった、というわけではない。いくつかの単語と、いくつかの表現方法を知っている、という意味では、ほんの少し役に立った。しかしそれだけでは、伝えたいことがまったく伝わらない。「自分の気持ち」を伝える手段としての英語には、それらはただの「お飾り」にすぎないのだった。

ショックだった。

そしてそれが荒療治になったのか。失恋して落ち込んでいた気持ちがもの凄い勢いで過去のことになり、今はただ、猛烈に英語をマスターしたいという気持ちがマグマのように湧き上がってきた。

「土曜日に行く場所」だったはずのスクールが、本当の意味での「学ぶ場所」になるまで、そう時間はかからなかった。わたしは土曜日のほかに平日夜のクラスを加え、週2回スクールに通い始めた。

ゼロからのスタートは失うものが無い。恥をかきながらも1から2へ、2から3へと、少しずつ英語が身についていくのが実感できた。記憶の隅に追いやられていた「学校で習った文法」たちが、血の通った会話になっていくのがおもしろくてたまらなかった。あんなに夢中で勉強したのは、生まれて初めてだったかもしれない。

たいして会話もできないのに、その気になったわたしは、調子に乗って生まれて初めてひとりで海外に行く決意をした。行き先はニューヨーク。案の定、会話よりもボディランゲージのほうが通じたけれど、あんな無謀な旅はもう一生ないかもしれない。楽しかった。ものすごく、楽しかった。

語学はマスターするまでに、いくつかの山があるという。スイスイ登れる時もあれば、しばらく停滞して先が見えなくなる時もある。そこで挫けず歩き続ければ、またひとつ山を越えられると。

わたしはたぶん、2つ目くらいの山で、下山を決めることになった。

仕事が変わり、生活サイクルも変わり、なにより英会話スクールにお金がかかり過ぎて、もうこれ以上出費はできなくなったのだった。

スクールに通わなくても勉強はできる。お金をかけなくても英語をマスターする方法はいくらでもある。しかしわたしは、ひとりで勉強を続けるほど意思が強くはなかった。

あれから長い月日が経った。あのころ使っていた英語の教材が、まるで記念碑のように本棚の片隅に並んでいる。いつかこれで勉強を再開しよう。これさえあれば、いつでもあの頃みたいに…。そんな気持ちを抱きながらも、テキストを再び開く日は、これまで一度も来なかった。

だから、もうさよならしよう。

さようなら、英語のテキスト。わたしをニューヨークに連れて行ってくれて、ありがとう。

夢中で覚えたはずの英語は、すでに記憶の彼方に消えてしまったけれど。あの土曜日の教室の朗らかな笑い声と、スクールの帰りに必ず寄った、いまはもうない大好きだったカフェと、はじめてひとりで歩いたNYの街の空気は、たぶん、一生忘れない。


読んでいただきまして、どうもありがとうございました。


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