〈「罪のゆるし」のあお草〉より

一昨日、ひとつの曖昧な記憶を手掛かりにして、以前から考えていたことを書き出してみた。きっかけになった大江健三郎の文章を見つけられないまま書いてしまったが、再度、本の箱(文字通り、本棚に入りきらない本を入れた箱)を探って、ついに発見した。以下、引用する。

〈――ヒカリさんのことが書かれておるというので、松山に出られる学校の先生に頼んで、買うてきてもろうたが、と切り出した母親は、妻と長女、次男に対して、あの人たちは本当に御苦労でした、立派に力をつくしてくださった!といってから、僕への批判に移った。ヒカリさんが、イーヨーと呼ばれるのを好んでおられぬとわかったことはけっこうでしたな。けれども、実際に気がついたのはサクちゃんだったそうな。あなたはヒカリさんの気持を考えて、小説を書いておりますのかな?このようなことは書かれたくないと、自分からはいえぬのじゃから、もしもヒカリさんが本を読むのならば、不都合なことが沢山書かれておるのではなかろうか?自分の子供のことならばなにを書いても許されると思うのなら、ヒカリさんのようなお子の場合、それはちがうのではないじゃろうか?〉

(『いかに木を殺すか』235ページ 「罪のゆるし」のあお草 より)

探しものをようやく見つけ出せてうれしかった。あらためて読み返してみても、やはりこのことばは自分にとって大切なメッセージだということがよくわかった。小説の全体ではなく一部だけ切り出して云々するのは、読み方としてはよくないのだろうけれども……。

本の中のことばに助けられたり、励まされたりして生きてきたなと思う。話してはいけないことをたくさん抱え、自分を表現することばを少なくしか持てなかった家族のことを思う。

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