〈アカリさんのような反省はありますか?〉

どの本に書いてあったのか探し出せなくてもどかしく思っている文章の一節がある。それが今とても気になって仕方がないので、原典に当たれないまま、曖昧な記憶に従ってここに書き出してみる。

それは、大江健三郎の小説で、主人公(ほぼ作者)が四国のお母さんと話をしている場面。お母さんが主人公に向かって、以下のような発言をする。
「あなたは(障害をもって生まれた)孫のことをあれこれ書くけれども、孫は(その内容がもし「違う」と感じたとしても)それに対して異議申し立てをすることができない。そのことについてどう思うのか。」
わたしはこのくだりを読んで、胸のあたりがじんと痺れるように熱くなるのを感じた。それまで、彼の小説を、飛び飛びにではあるけれど読み続けてきて、ずっと気になっていた疑問がここに書かれてあったからだ。彼は二言目には「障害のある息子が」と書く。そしてその障害のある息子が何をした、こう話した、と書く。大江さんにとって息子さんがかけがえのない存在であり、同時に小説家にとって最も重要なテーマであることは重々承知、そして作者が常にvulnerableなものの側に立っていたことは明らか。でももし、うまく言い返せない息子さんが(そういうことは書かないでほしい)と思っていたとしたら?
その問題を、母親からの批判としてきちんと書き残したという点において、わたしは(ああ、この人は信頼できる人だ)とあらためて感じたのだった。

父母との関係を書き出している時、この四国のお母さんのことばが意識の表面に浮かんでくる。それはわたしに(あなたの書いているものは何か?それは何のために書くのか?)と問いをつきつける。
わたしの父母はともに自身をうまく表現できなくて苦しんでいた。その上今はもう、わたしに異議申し立てをすることもできない。
わたしが書くもののさかしらを両親はどう思うだろうか?また破かれて捨てられるだろうか?それでもわたしは、自分が生き延びるために書こうと思う。家族が互いを傷つけあう繰り返しから脱出できる出口を見つけるために。そのために、互いの尊厳をそこなわずに書く方法を探りたい。

『晩年様式集 イン・レイト・スタイル』より、アサさんのことばを、以下引用。(287ページ)

――そのように、自分ひとりでいつも考えていて、ともかくも人から知的障害者といわれてるのを知っているから、自分に間違ったところがあるのじゃないかと気にしているんです。兄さんは書いたりしゃべったり、御自分の台詞で生きて来た人ですが、それについてアカリさんのような反省はありますか?

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