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人間というのはどうしたって形にはまらないもの。

十四歳の頃でした。
絶対に形になど、はまるものか。
そう、強く心に思いました。そして、絶対に形にはまらない生き方をしようと決意したのです。
どうも私は反骨精神をしっかりと抱いて生まれてきたようなのです。
伝統だとか風習だとかしきたりだとかしがらみだとか
そういったものを前にすると、ちゃぶ台をひっくり返したいような衝動にかられました。もちろん実際にちゃぶ台をひっくり返すわけではないのですが・・・。だいたい、ちゃぶ台はうちにありませんでした。

多くの人がそうであるように、私にも自由への強烈な憧れがありました。
幼い頃から自分を駕篭の鳥のように感じていた私は、どこまでも広がる大空を心の奥底で求め続けていたのです。
だからやみくもにやりたい放題をしたつもりです。
もっとも、「私にしては」というレベルで、自分で言うのも何ですが、ささやかな抵抗で、今想い出してもかわいいものでした。
ただし、心の中の葛藤は益々激しいものとなっていきました。

そうこうするうち三十代を迎え、自由というのはそんなものではないということを思い知ったのです。
十代からヨガや坐禅をしていたせいもあるのかもしれません
ともあれ、真の自由とは形を徹底的に自分に押しつけ、染みこませるくらいになってこそ得られるものだと気づいたのです。

日本文化は形(かた)の文化です。
剣術にも弓術にも、茶の湯にも生け花にも、すべてに形があります。
その形を徹底的に自分に押しつけ、染みこむまで身につけようとすると、何が起きるか。
否応なしに、その人の個性が際立ってくるのです。
つまり心や魂、精神というものは、どんなにしても縛り付けることは出来ない。それが形を身につけることによって溢れ出てくる。
ここに真の自由とは何かという問いについての答えがある。

私が切望していた大空は、形を身につけることによって思いがけず得ることになりました。

そしてつくづく思います。
人間というのは、決して完全に形にはめることなどできないのだと。そもそも形にはまるようなものではない。そこをあえて形を押しつけることによって、その人の本来の個性がいきいきと光を放ち始める。

数十年、弓道を極めた人が弓を構えたとき、どんなに遠くからでも「あの人だ」とわかりました。

それくらい、徹底して形を自分に課した人ほど、限りない自由を得るのでしょう。








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