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9 和は日本人の行動原理

 聖徳太子は「和」を宣言したものの、その実現が着分けて困難なことを理解していました。「達(悟)れる者少なし」という言葉からは、真に賢い者は極めて少ないという人間の性質を、冷静に見ていることがわかります。
 その背景には、聖徳太子自身が少年時代から偽善と欺瞞に彩られた人間社会を目の当たりにしてきたことがあるのでしょう。
 それでも失望していないのです。
 仏教を深く学ばれた聖徳太子は、「極悪人でさえその本質は善である」と考えていました。

 ともかく和の実現など簡単なことではなく、ほとんど理想でしかありません。それは当時から今に至って、隣近所や親戚同士の争いから国家間の戦争まで、常に人間同士が対抗し争っているのを見ればわかることです。

 それでも、あきらめずに心を和らげ、睦み合うことを目指していく。

 この、「目指していく」という姿勢こそが重要なのではないでしょうか。
 どうせ無理だと努力をやめてしまっては、争いはますます頻繁になり、あとに残るのは空しさばかりでしょう。
 たとえ一時的に争いになったとしても、どうにかして和合しようという気持ちがあれば、いずれはなんとかなるかもしれません。そう思える方がずっと希望が持てるというものです。

「和」という言葉は日本独自のものというイメージがあるかもしれません。
 けれどその実、儒教書でも、仏典でも用いられています。
 よく知られるのが『論語』にある「和するを貴しと為す」でしょう。
 一見して同じことを説いているようですが、中村元氏は、「この句の主題はあくまで礼であって、和が主題となっているのではない」と指摘したうえで、聖徳太子の場合は礼とは無関係に、「人間の行動原理」として和を唱えており、そこには「仏教の慈悲の実践が表れている」という見解を示しています。
 つまり人間の行動原理として「和」を説いたのは世界で日本のみということなのです。

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