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どんな世の中であろうと人生をどう歩むかを決めるのは自分

今目の前にある現実世界は、自分の心がつくりだした世界が投影されている

今週に入って、やたらと交通機関が乱れています。
交通情報から「人身事故の影響で」という言葉が幾度も聴かれました。
人身事故と聞けば飛び込み自殺だと思わざるを得ません。うっかり線路に落ちてしまた・・ということもあるかもしれませんが、恐らく大半は自ら命を絶ってしまったものと思われます。
今、この社会が平穏無事だと思える人はいないでしょう。
誰もが不安や苦悩を抱えながら生きているのです。

けれど、平穏無事な社会というものが、いったい、過去にあったのでしょうか。そして、未来にそれが実現できるのでしょうか。
私には、そうは思えないのです。
経済が安定し戦争勃発の心配もなく、大半の人が安心と満足を得て生きている時代と、そうではない時代があるのは事実ですが、たとえば豊かで満ち足りているはずの時代であっても、個々人は幸せな人もいれば深い悩みを抱えている人もいます。
また、周囲から悲劇的な境遇だと思われようとも本人は「それでも幸せ」と思っているかも知れないし、逆もまたしかりで、誰がどう見ても幸せいっぱいなはずなのに、本人は空虚な思いを抱えて死んだように生きていることもあるでしょう。

こうしたことを鑑みるとき、やはりどんな時代でも自分の心ひとつだというところに到達するのです。
このことは、仏教の教えにもありますし、イエス様も教えています。
天国や地獄は外にあるものではなく内的世界にあるもの。
この世を地獄とみるのであれば、それは内的世界にみずからつくりだした地獄が出現しているのであり、天国とみるのであれば、心の平安がそれを現実世界に見ている。
目の前にある現実世界は、突き詰めていけば自分の心がつくりだした世界が投影され顕れているといえるのです。

そんなことを思いながら何気なく『女子の武士道』を開くと、まさにそれを示唆する内容が書かれていました。

真の世の乱れを我と我が身に受けるのは、自分が非道を選んだとき。

当時の時代背景なども把握していただくために、少し長く引用します。

 景気悪化とそれに対応しきれない明治政府のもと、各地で労働運動や暴動が相次ぎました。なかでも明治四十年の足尾銅山での暴動は軍隊が出動して鎮圧したほど。言論弾圧もすさまじく、民衆の心は徐々に荒んでいきました。
 世の中全体が不満と閉塞感にさいなまれていると、時に倫理道徳が護られなくなり、妬みや怒りが先立ってしまいがちです。祖母の暮らす小さな村でも、たびたびつまらない争いが生じました。

「(中略)父は言ったものです。でたらめが通る世の中で義を守り徳の道を選び取ることはさぞかし辛かろう。しかし、おのれがその道を捨てたその時が、ほんとうの世の乱れが始まるのだと思え、と。どんな世の中であろうとも、まっとうな人生を歩むかどうかは自分で決めることですからね。真の世の乱れを我とわが身に受けるのは、結局のところ父の言うとおり、自分が非道を選んだときからでしょう」(『女子の武士道』P55~56)

心の平安を保つのは秩序ある行動。行動が心の平安を築いていく

明治四十年頃のことですが、まるで現在にも通じるところがあるのではないでしょうか。
どんな時代も世が乱れれば人心は荒廃するのです。けれど、そうした中でも心の平安を保つ努力をした人は、それなり人生を切り開き、それなり幸福を得ることが出来る。「それなりの幸福」を「たいへんな幸福」と受け止めるかどうかも自分で決めることでしょう。

では、心の平安はどのようにして築き、保てばいいのでしょうか。
心のことは、行動が解決してくれます。それも、できれば「形」のある行動、つまり秩序が求められる行動です。

 世の中が騒然となるほど、祖母は所を行うために机に向かうことが多くなりました。また、あまりできない贅沢ではありましたが、茶の湯を何より楽しみにしていました。
「いずれも没頭していると知らず知らずのうちに心が落ち着いての。書も茶の湯も心の乱れがそのまま文字や振る舞いに表れる。そうならないように自分の意志で自分の心に言うことを聞かせる。それはおのれの弱い心に打ち勝つよい訓練になりました。それに、湖面のように静かな心であれば、おのれのことがよく見える。おのれの心がわかればどのように対処するかはおのずとわかってくるものです」(『女子の武士道』P56)

勘のいい人はおわかりでしょう。
禅と同じですね。坐禅や瞑想は己と向き合い、真の我を把握し、その心模様を正しく見つめて、そっとコントロールしていくものです。
昨今は、マインドフルネスともいわれるようになりましたが、そのようにカタカナになったものを外国から取り入れるまでもなく、日本人は日常生活の中で禅的な行動をとってきたのです。

ここではたまたま書や茶の湯ですが、坐禅をしたり歩いたりすることでも良いのです。
ただ、私の経験からすると、やはり書や茶の湯、武道などは違います。
身近でない人は、写経をされると良いと思います。
字がどれほど乱れるか実際に経験して、それでもなお一字一字ていねいに写していくと次第に心が静まって、写経を終える頃には、しーんと心が静まりかえっているのを実感するはずです。
心が静まった状態こそが、精神の自由を得た瞬間です。がんじがらめになっていた精神が解き放たれて、爽快な気分になることでしょう。

不安が先行する時代に生きているということは、少なくともちゃんとわかっているのです。
あとは、そのような時代にあっても平安な心で自分らしく人生を歩むための行いを身につけていけば大丈夫。

そして、あまりにも思い詰めてしまった時は、「助けて」と素直にすがる。
「助けて」と言うことは、恥でも何でもない、非常に勇気ある行動であるということを憶えておきたいものです。

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