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7 梅すだれ 甲斐の村

 外部からの来訪者などめったに来ない山の中の小さな村、大泉おおいずみ。そこへふらりとやって来た坊さん、転法輪和尚てんぽうりんおしょう。感染病で亡くなった人たちの供養をしたいから、しばらく滞在させてほしいと申し出て来た。

 この村では、「誰かが来たらその者の望むモノを与えよ」という教えがある。年寄りたちは西のすみにある空き家を使わせた。そこは麻疹はしかで一家が全滅した家だった。

 村の者たちは冬への備えであわただしく働いていたから、一時滞在の新参者、転法輪を気にかける人はいなかった。

 転法輪は朝どこかの家の前に立ち、お経を読んだ。そうするとその家は転法輪のお椀にご飯をよそった。村人が転法輪の姿を見るのはそれだけだった。

 

 ある日の朝、転法輪がお千代の家の前で、お経を唱え始めた。何を言っているのかわからないが、お千代と松之助は珍しいからご飯を食べるのをやめて外へ出て読経どきょうする坊さんを見ていた。

 十五分ほどで終わり、幹助がお椀にご飯を入れて尋ねた。

「何を言ってただ?」

「阿弥陀経です。極楽への行き方を説いてくださる慈悲深い仏様ほとけさまの教えです。」

 大泉で信仰されているのは、村を囲う山や生活に欠かせない木だった。仏教なんて知らないものだから、お千代が尋ねた。

ほとけってだれだ?」

「仏様は生きながらに極楽へ行くことのできる尊いお方です。」

「どこにいるだ?」

「お亡くなりになって、極楽浄土においでになります。」

「死んだのか?じゃあ、母ちゃんや婆ちゃんと一緒にいるのか?」

「阿弥陀経を唱えれば、亡くなった方たちを極楽浄土へ導くことが出来ますよ。」

「極楽浄土って、なんだ?」

「苦しみも悲しみもない、幸せだけの世界です。」

「そこへ母ちゃんも婆ちゃんも豊代も行けるのか?」

 それはスゴイとお千代の目は輝いた。そして幹助の目も。

 その日、お千代と松之助が働きに出ると、幹助は転法輪の所へ杖をついて行った。

「その阿弥陀経を教えてくれ。わしは今腰が痛くて働けねえ。せめて紗代たちをその極楽へ行かせてやりてえだ。」

 幹助の願いは勿論聞き入れられた。その日から、幹助は転法輪から阿弥陀経を教わることになった。

 みんな忙しかったから、幹助がそんなことをしているなんて知らなかった。お千代だって知らなかった。

 やがて、冬支度は終わり秋も終わり、寒い冬が始まった。家で刺し子をして過ごすお千代は、幹助が毎日出かけるのが気になった。

「父ちゃん、どこへ行ってるだ?」

「お前たちも来い。転法輪様に阿弥陀経を教わるだ。」

 それで、親子三人で毎日転法輪のところへ通うようになった。そんな三人が歩いていると、ついてくる子どもたちがいた。家の中にも入りこみ、幹助たちが転法輪に続いて阿弥陀経を復唱しているのを聞いていたが、次第につまらなくなってゴロゴロうろうろ、寝転がったり歩き回ったりし出した。

「お前らじっとしてられないなら出てけ!」

 いつも陽気で冗談しか言わない幹助が怒鳴ったものだから、怖がってほとんどの子どもは出て行った。しかし、五郎平と数人の子どもが残った。

「お前らも一緒に言え。」

 幹助に促されて子どもたちも一緒になって復唱をした。しかし、次の日に来たのは五郎平だけだった。毎日通うようになった五郎平だったが、それに気づいた兄の次郎平が父親の長平に告げ口をした。

「あの坊さんのとこで、なにをしてるだ?」

 長平に問い詰められた五郎平は、転法輪和尚の言ったことをそのまま話した。

「阿弥陀経を唱えれば、母ちゃんも姉ちゃんも極楽へ行けるだ。苦しみのない幸せだけの世界だ。」

「なにを言ってるだ。極楽になんか行かねえでいい。ここにいるだよ。」

 死んだ者はこの村の中にいる。そして、いつかまたこの村に生まれてくるのだ。入ってくる者がいないように、出て行く者もいない。それがこの村の常識だ。

「ここが極楽だ。」

 祖父じいちゃんもあんちゃんも、「んだ!」と頷いた。村の誰もがそう思っている。ただし、幹助親子を除いては。

「そんなとこへは行くな。」

 五郎平は父親から転法輪和尚のところへ行くことを禁じられた。しかし、足繁く通う幹助親子を止める者はいなかった。

「酒で飲んだくれるよりましだ。」

と、笑って見ていたのだ。


 死んだ者にお経を唱える転法輪を、変わったことをする人だとしか、大泉の村の者たちは思っていなかった。珍しい声で鳴く鳥が飛んで来たのと同じように、好きなだけ唱えたら出て行くのだろうと。

 しかし、お千代は転法輪様が鳥だなんてとんでもない。転法輪和尚こそ阿弥陀様だと思い始めていた。と言うのも、遥か彼方西方にある極楽に阿弥陀様がいると言うからだ。この転法輪、甲斐の国より遥か西方の日向ひむかの国からやって来たのだ。


 転法輪の生まれ育った村は、日向ひむかの国の西側で肥後の国の近くだった。八家族が集まって暮らすその村は平地なんてものはなかった。山の斜面に住んでいたと言ってもいい。なだらかな山の斜面に家を建て畑を作って暮らしていた。

 この村の近くにはもう二つ同じように小さな村があった。転法輪の村よりも少し高いところに。そして、もっと高いところには広々とした高原と大きな池があり、田んぼもある十倍の規模の村があった。その村が、下の三つの村を統制していた。

 天野原あまのはらと呼ばれるその村は、神が降臨した場所だと言い伝えられていて、神様の住む場所だと信じられている。

 この神の住処すみか天野原あまのはらで、まさかあんな恐ろしいことが起こるとは。転法輪が村を出ることになった、痛ましい事件の始まりは、二十年前、転法輪が十二歳の時のことだった。


つづく


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