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矢形川は岸にいた舟で渡った。毎日誰かしらタケの豆腐を買いに来る。そのために舟がいるとも言える。船頭には豆腐を買いに来たことは明らかで、甘木側の岸へ着くと訊かれもしないのに、矢形側から枝分かれした支流の川に沿って八町歩いたところだと教えた。二人は礼を言い船賃を払って降りた。
この頃の家に天井はなく家の上部は柱がむき出しで屋根の裏が見えた状態であった。床に垂直に立てられた通し柱の上部を水平につなぐ横木、差鴨居に板を張り床にして寝泊まりや物置に有効活用したものが厨子二階である。低くて狭いが小さな窓を開けることで換気がなされ、寝るのはもちろん座っている分には十分な空間である。
マサが死にお滝は三日三晩泣き続けた。二階のマサが寝ていた場所に横になってマサのことを思い出している。
マサが旅立ち意気消沈するお滝。追い打ちをかけるように二日後に大嵐が肥後を襲った。強い風がこれでもかと大粒の雨を打ちつけて来る。そのすさまじさは二階が吹き飛ぶのではと思われるほどであった。お滝とお桐は一階の座敷で身を寄せ合い息を潜めて嵐が過ぎ去るのを待った。
マサの乗る船は島原や天草、時に長崎まで荷を運ぶが頻度はそれほど多くはなかった。半分は船に乗らない日だったので、そんな日は北東に位置する朝来山へ山菜を採りに行く。それをお桐がお孝の母親の真似をして塩漬けにした。
船乗りたちの食欲は目を見張るものがあった。一人五合も一度の食事で食べるのだ。四、五人づつ順番に食事を済ませていくのだが、炊いても炊いてもなくなる。追われるようにひたすらご飯を炊き続けた。
やって来たのはお孝だった。
タカベを見送ったお桐はお孝の家へ向かった。さよならを言うために。
うつむいて食べる娘二人に、 「握り飯が売れなかったのか?一日くらい気にすんな」 と何も知らないタカベはいつもと変わらない。お滝は咳払いで気持ちを整えると言葉をゆっくりと吐き出した。
マサにお桐も一緒にと言われたお滝であったが、お桐に九州の話をすることはためらわれた。雑賀の人間だと言ってもいいほどにお桐は雑賀に溶け込んでいる。そんなお桐が聞いたこともない西の果ての九州へ行きたいと思うだろうか。お桐に言い出せないまま数日が過ぎた時、三日後に出る船で九州へ行けることになったとマサから告げられた。
時は戦国。タカベの絶賛する「こんないいところはない」という雑賀にも激震の走ることが起こった。室町幕府の将軍、足利義昭が織田信長を見限って挙兵したのだ。根来の鉄砲隊は義昭の部隊であったから、当然反信長派へ転向、雑賀は混じり気なく信長の敵となった。
(三日に一度では物足りない。毎日マサに会いたい)
お滝が家へ戻るとお孝が遊びに来ていた。 「お孝ちゃん、久しぶり!」
待ちわびるお滝の前に、マサはいつにも増して顔を緩ませて現れた。 「おタキちゃん、会いたかったなあ」 お滝が言葉を返す間もなく、マサはお滝を抱きしめた。 マサの焼けた肌からは昔懐かしい父ちゃんの匂い、海の香りがする。お滝は浦賀にいた頃を思い出して、ここが私のいる場所なのだと雑賀に来て以来初めての安心感を感じた。