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小松美羽と瞑想と「密教」とヨハネの黙示録と。 明王(忿怒尊)の起源?

アート系は完全に門外漢なのですが、今回も例のインスピレーションがあり、、、。
ちょっとオカルト、スピ系の与太話が入っているので、そういったのが苦手な方はbackして下さい。長駄文です。

瞑想からみでネットを徘徊してたら、たまたまアーティストの小松美羽さんについて知り関心を持つようになりました。

アートの才能だけではなくて「スピリチュアル」な素質、体験もあるようでそのことを公言もしています。
タイで「聖者」から瞑想を習ったことがあり、今でも習慣にされているようです。何年か前の「情熱大陸」に出演したそうです↓↓。

参考サイト記事↓↓

小松美羽さんの作品をパッと見て、、、。

スマホの画像でチラッと小松美羽さんの作品を見た時に、アートの素質も知識も平均以下で酷い有様の私には「サイケデリック系」なのかな?という思いが生じました。
チラッと一見した最初はよくわかんない印象がありました。


私はサイケデリック系、もしくはサイケデリック系を連想させるようなアート(美術用語を知らないので、このようにしか言えない)には偏見があります。

 まず、、、幻覚を体験するような「違法な成分」を摂取して、それから感性を得ているんじゃないのか?というか、間違いなくやってるだろ?というものが多い印象があります。

まぁ、そもそも、サイケデリック・アート自体が、そういった体験によって生じたのでしょうが、。

これはツイッターの、日本国内の人によるものであろうアカウントでもけっこう見かけます。

どきつい色彩、構図が特徴なのですが、それ以外にも不気味さというかダーク調というか、何というか、、人間性が崩壊し混濁したような意識領域とつながっているというか、そういった印象を受けることが しばしばあります。

そういった印象を受けるものを載せているアカウントにある文章も、日本語で主語、述語があって文章にはなっていて、なんとなくポエム調のものもあったりするのですが、意味が分からないというか、混乱した意識状態が文面に出ているというか、不気味なものに憑依されていそうというか、むしろ何か大切なものが欠落しているというか、そういったのが印象です。

隠語が多用されていたり、「闇バイト」「受け子」の募集に使われるような機密性の高い通信アプリが連絡先だったりして、まぁ、「瘴気」が発生しているツイッターのアカウントが多い印象です。
こわいです。かかわりたくないです。

 上記の以外だと、持って生まれた才能系の人たちによるものです。
脳の発達・機能・構造的にマイノリティに属する人達が多い印象で、天才的な科学者、芸術家などにも多いと言われています。

そういった脳の特徴ゆえに、社会的に生きづらさを感じて、困難な状態になることもあるようです。

こういった人達によるものは、素質の全くない私にも「アートだな」とか「きっとアートなんだろうな」と感じられるものが多い印象です。


 そしてスピリチュアル系があります。
スピリチュアル系では例えばアレックス・グレイが有名なのでしょう。この人は幻覚成分をやってますが、笑。
 (まぁ、日本以外だと、こういった成分との距離が近かったりするのもあるだろうし、サイケデリック・アート系の人達には特に共通することなのかもしれませんが。)


一見してスピリチュアルだと分かるような作品が多いです。霊的な存在、宇宙、神聖な愛、ヨガ、瞑想、「チャクラ」、「気」「プラーナ」「クンダリニー(クンダリーニ)」といった生命エネルギーなどがよく題材にされています。

いまあげた傾向は厳密には分けられないことも多いようです。
アレックス・グレイのように、もともとアートの素質があり、スピリチュアルな指向と実践もあり、幻覚成分からもインスピレーションを得るのように。

小松美羽さんとスピリチュアル

小松美羽さんの作品はパッと見は、よくあるサイケデリック系なのかと思ったのですが、画像検索でさらに作品を見てみると、「んっ?」と気にかかるようになりました。

それで調べてみたら、瞑想が習慣とか、幼少の頃からスピリチュアルな体験があるとか、輪廻転生・前世を信じるとか、アーティストとして成功する予知夢を見たとか、いろいろと出てきます。

こういったことを言うスピ系の人達がたむろする巣窟といったら「アメーバブログ」だよなぁ、とか思っていたら、実際に小松さんのオフィシャルブログがアメブロにありました、笑。

とにかくスピ系の感性に従って作品を制作されているのでしょう。

魂が抜ける瞬間が見えて……(9:20~)。不思議なもの、スピリットが見えるというのは、自分の今世の役割にかかわることなのか……(17:10~)。スピリット、神獣が見えて、それを描いている……(26:40~)。第三の目を開く……(27:30~)。神獣は尊い存在(33:20~)。

神獣は飲み屋が多いと来ない(33:50~)。

作品はむしろ「密教」系?

小松さんの作品の画像を見ていて「んっ?何かに似ているよな……」と感じました。


「なんだっけかな?」と思っていたら、「おぉ!あれだ!」となりました。
こういったのです↓↓

画像1

つまり密教系のホトケ、明王(忿怒尊)です。特にチベット仏教(密教)です。(あくまで私の感想です)

「Pray for Prosperity -幸せに生まれ、幸せに栄える-」という作品です。↓↓

アートの才能が欠落した私には、この絵のどこらへんが「幸せに生まれて栄える」なのかよく分かりません。
でも、そのかわりに「これってチベット密教のヴァジュラバイラヴァじゃないの?」と思いました。(あくまで私の感想です)

ヴァジュラバイラヴァ(vajrabhairava、ヤマーンタカ、大威徳明王)↓↓

関連note:ヴァジュラバイラヴァの詩

下の動画の4:04~の作品を見て下さい。六道輪廻という作品です。

他にも似たような構図の作品があります。

・夜光神獣

・だれしも龍となる

六道輪廻という作品は、さすがにこれは偶然でなくて、チベット密教の絵画を見てインスピレーションを受けたのではと思うのが普通なのでしょうが、凄く似てるのがあります。

その名もズバリ「六道輪廻図(シーペイコルロ)」です。英語では「tibet Wheel of Life(life death cycle)」などで検索すると画像が出てきます。

小松美羽さんは、スピリチュアルな感性をもとに、各宗教の神獣、守護獣をキメラ化して描いているようです。
なので、チベット密教からも影響を受けているのかもしれません。

しかし一方で、キメラ化して、つまりいろんなものを融合して描いているだけというよりも、小松さん自身が言うように、内から、つまり小松さん自身の内部の(いわば)霊性(スピリチュアリティ)からやってくる衝動に突き動かされて描いているというのも十分にあり得るのではと、私は思うのです。

というのもこういったイメージは、しばしば、瞑想、特に密教的な、「生命エネルギー」的な体験での「ヴィジョン」で生じることがあるのではと私は考えているからです。

上例の小松さんの作品に描かれている存在も、チベット密教の絵に登場する忿怒尊も、様相が激烈です。カッ!と見開いた目にしろ、口から出る牙にしろ、吹き出る炎にしろ。

神聖な感じというよりも、恐ろしさや凶暴さを感じてしまいます。

そして興味深いと思うのですが、神聖で宗教的でありながらも、凶暴さを感じられるような描写の存在が、他の宗教の聖典にもあるのです。

それはズバリ、キリスト教の聖書の中の「ヨハネの黙示録」です。

ヨハネの黙示録に明王(忿怒尊)!?

キリスト教の聖書は、キリスト教徒に言わせると「聖書は真理なのです!なぜなら聖書にそう書いてあるからです!」となるのですが、今となってはこれは単なる宗教文学、神話です。

聖書がいかに手垢が沢山ついた人の手による創作物かといことについては『捏造された聖書  バート・D.アーマン 著 松田和也 訳 柏書房』などが読みやすいです。
HP『佐倉哲ホームページ 佐倉哲エッセイ集』の「キリスト教について」もおすすめです。

聖書の中に「ヨハネの黙示録」というのがあります。終末予言の書などとして結構有名です。オカルト系の人は大好きな書です。

“「ヨハネの手紙」がマリファナをやっているときのものなら、「黙示録」はLSDをやっているときのもの ”(『神は妄想である―宗教との決別』(リチャード・ドーキンス著 垂水 雄二 訳 早川書房 2007 p.376)なんていうコメントもあります、笑。

でもこのLSDというのは、まぁ、言い得ているのかなぁ?、笑。、、、というのは、この黙示録は、誰が書いたのかはよく分かっていないのですが、幻覚・幻視の記述だからです。

そしてこの「ヨハネの黙示録」に明王(忿怒尊)が登場するのです。(あくまで私の感想です)
それは「人の子のような者」です。

......わたし(ヨハネ)は、主の日に御霊に感じ、うしろでラッパの音のような大きな声を聞いた。
......そこでわたしは振り向いた。

振り向くと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の真ん中には、足まで垂れた衣を着て、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。
その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、雪のように真っ白で、目は燃える炎のようであった。

その足は炉で精錬されて光り輝く真鍮のようであり、声は大水のとどろきのようであった。
右手には七つの星を持ち、口からは鋭い諸刃のつるぎがつき出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

わたしはこの方を見たとき、その足元に倒れて死人のようになった。......

この「人の子のような者」はもう十分に忿怒尊の様相ではないでしょうか?

つまりこの自称ヨハネは、大きな音がして振り向いたら、そこにヴァジュラバイラヴァみたいなのがいて、驚愕卒倒したというわけです。
まぁ、ヴァジュラバイラヴァはやり過ぎですが、笑。

ヨハネの黙示録の瞑想(密教)的な解釈?

さて根拠のないオカルトの与太話になりますが、はしょって話しますと、聖書は人の手による神話の寄せ集め、宗教文学とはいえ、この元になった資料、文献の創作には、ひょっとすると「宗教的な修行グループ」があり、そういったグループの思想が反映されたのでは、と私個人としては妄想してます。

というのはユダヤ教(旧約、モーセ五書、他)と新約(福音書、特にイエスの発言とされるもの)には思想的にも大きな隔たりが感じられるからです。
(学術的研究ではイエスのモデルとなった人物、もしかすると政治指導者や宗教・社会改革者、思想家の若い世代の人くらいは いたのではという意見があるようですが。)

ひょっとすると、そういったグループでは瞑想などもしていたのかもしれません。

そしてこの「ヨハネの黙示録」に関してですが、「終末予言の書」などと言われていますが、一方でヨーガや瞑想、オカルト、神秘系の人達の中には、これは「瞑想体験の書である」という見解もあるのです。

そういった見解においては、黙示録の中の「七つの燭台、星、教会」というのは、これは人体における生命エネルギーの中枢である「七つのチャクラ」のことであるとしているようです。

「大きなラッパの音がして振り向いた」の「大きな音」は密教的な、つまり生命エネルギーを扱うような実践で実際に体験される、としているようです。
つまり生命エネルギーが覚醒やら上昇やらのときに、実際に(幻覚として)大きな音を経験するか、「バイブレーション」を経験する、としているようです。

自称ヨハネは、、「主の日に御霊に感じ、うしろでラッパの音のような大きな声を聞き、人の子のような者を見て死人のようになった」、、つまり瞑想中に、密教的な、生命エネルギーの体験をして、まさに忿怒尊のようなヴィジョンを見て圧倒されたという解釈です。

なぜ忿怒尊なのか?

仏教(密教)の明王(忿怒尊)の起源については、いろいろな説があるようです。
ヒンドゥー教やイスラム教との勢力争いの中で、ヒンドゥー教や土着の神々、呪術信仰までも取り入れたなど言われています。

仏教の教義的には「穏やかな方法では救いがたい衆生を、慈悲に発する怒りをもって力ずくでも救おうとするホトケの決意をあらわしている」などとされているようです。

でも私は以前から違和感があったのです。
「いくらなんでもやり過ぎだろ。なんで不動明王とかヴァジュラバイラヴァみたいになるんだ?こんなものに街なかで出会ったら、普通は殺されると思うだろ?
他の宗教の神々、天使とか見ても、ここまで酷いのは なかなかいないぞ。釈迦も見たら開いた口が塞がらないんじゃないか?」、笑。


私個人の妄想なわけですが、忿怒尊の凶暴な様相の起源は、ヒンドゥー教やイスラム教との勢力争いの影響ももちろんあったと思うのですが(ヴァジュラバイラヴァのバイラヴァとは、シヴァ神の凶暴な側面、恐るべき者。ヴァジュラとは金剛、密教を意味する。つまり金剛怖畏)、瞑想中に体験したヴィジョンにもあるのではないかと思うのです。

実際に忿怒尊のようなイメージを瞑想中(など)の(サイケデリックな)体験で見たのも起源の一つなのではということです。

ではなぜ忿怒尊のような激しいイメージなのか、ですが、、、
おそらくは瞑想の体験の中には個我を超えたような(トランスパーソナルな)ものが、しばしばあって、そういった体験に密教的な、「生命エネルギー」的な要素が強く重なると、激しい生命力生命の躍動強大な創造力、といったような体験があるのかもしれません。

それがヴィジョンに反映して、忿怒尊(黙示録の「人の子のような者」)のような強烈なイメージが出来上がったのかもしれません。

小松美羽さんの作品

さて小松美羽さんに戻ります。

私はアートの素質が欠落しているので、小松さんの作品の芸術性については評論のしようがありません。

また小松さんの言うように、神獣などの「意識―生命を持ったスピリット」なるものが実在するのか私には分かりません。

しかし小松さんには独特な内的な世界、心象風景があり、それを通して実際に「なにものか」に出会っているのかもしれません。
「内なる霊性」からやってくる、イマジネーション、生命力、創造力を芸術制作に活かしているのかもしれません。

そしてこれは、過去の瞑想者や神秘家らによっても体験されてきたヴィジョンと通じるものがあり、まだ人間自身の内部に普遍的にある意識領域に関わっているのかもしれません。
ひょっとするとユングの言う「集合的無意識」、「元型」などにも関わるのかもしれません。

私としては、芸術的にというよりは「内なる意識」的に、小松美羽さんとその作品が今後どのように成長していくのか関心を持っています。