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「公園の木々」(『このあいだ』第4号 2021/1)

「どんぐりちゃん」 が一昨年の待降説から我が家にやってくるようになった。

 フェルト地のカレンダーの日付ごとにポケットがついていて、どんぐりちゃんは毎朝、 ポケットにひとつのどんぐりと小さな手紙を届けてくれる。 そのたびぼくら夫婦は大げさに騒いで子どもたちを起こし、 カレンダーのところへ誘って、どんぐりちゃんの贈り物を取り出し、手紙を読んで聞かせる。 子らはどちらも眠そうにしていて、上の子は目をこすり、 下の子はぽかんと口を開けている。 ぼくはどう見ても自分がさっき書いたばかりの筆跡にしか見えない字を読みながら、 子どもたちがあまりノッていない空気をトーストの焼けた匂いのように吸い込む。

 11月の中頃、 近くにある川沿いの公園へどんぐりを拾いに出かけた。 10月にはまだたくさん落ちていたかに思えたどんぐりが、 その頃にはなかなか見当たらなくなっていた。 クヌギの帽子ばかり落ちている。 足元に少しも転がっていないどんぐりを見つめながら、 家の近くにはどんぐりの木が一本もない、とすねていた子ども時代のことを思い出した。 足元から、 あの頃の味気なさ、 情けなさがエレベーターに乗って胸元まで上がってきて、 目の前がアスファルト色になったような気がした。 どんぐりも落ちず、雪もふらず、 どこかへ遊びに出かける日曜もなかった子ども。 『ゆきのひ』 というキーツの絵本は表紙や絵ばかり覚えている。 たっぷり積もった雪の中で、男の子が遊ぶ。それくらいしか内容は思い出せない。 読み聞かせてもらっていたとしても、どこか白けていたのかもしれない。

「こんなことぼくにできるわけない。」

 しかし、いじけていてはいけない。 どんぐりちゃんの運ぶ贈り物を集めるのはその日の私にとって火急の用だった。

 まず、ランダムに木の下を歩き回っていたのでは話にならない。 あたりをつけなければ。そのためにはどの樹木がどんぐりを落とすのかを知らなければならない。 くぬぎの帽子が落ちているあたりに目星をつけてみるが、やはりどんぐり本体は落ちていない。 もう鳥が食べつくしてしまったのか。 しかも公園の隅には掃き集められた葉の山があって、 清掃後間もないようでもあった。 あとで調べたところによると、 最初に歩いていたのはトウカエデという木の下だった。 離れたところからクヌギが高く枝を交差させていて、 どうやらそこから実を落としたのだとわかった。 それはものすごく高いところだった。 手を伸ばせば、それだけ背筋が伸びただろう。 高い空へ、 心も上っていきそうだった。

 東側の公園にはあまり落ちていなさそうだったので、道路を挟んで向かい合う西側の公園へ渡った。 どの木を見ても、 何の木かわからなかった。 木の名前を教えてくれる人はこれまで身の回りにいなかったのだ。 自分の知っているのはサクラかウメかマツ、イチョウ、 そしてクスノキくらいだった。 そこでスマートフォンのアプリを使った。 そのアプリを使えば葉や花、 実の写真をとれば豊富な写真とともにその植物を名指してくれるのである。 この木は何だろうと思ってはじめに調べた木は、 知っていたつもりのクスノキだった。 クスノキの実がどんなものなのかも、 梢を見上げてはじめて学んだ。

 しばらくどんぐり拾いの仕事を忘れて、 木の名前を調べて歩いた。 ケヤキ、 トウネズミモチ、 クヌギ、 またクスノキ、そしてアオギリ。 木の一本ごとに、 樹皮や葉、実などを確かめる。 それぞれの個性に少し触れえたような気になる。 青桐あおぎりの、天狗のうちわのような葉には見覚えがあったが、青みがかった木の肌には心惹かれるものがあった。 同時に、 中学の修学旅行で立ち寄った湖の白樺の木々を鮮やかに思い出した。 公園の一角のたった1本の青桐の木から、ふだんどれほどものを見ずに暮らしているかを思い知った。

 アラカシの木の下で、比較的たくさんの細長のどんぐりを拾うことができて、 仕事が一気にはかどった。 腰を上げると、近くに黄色いさくらんぼのような実が落ちているのに気がついた。 調べてみるとセンダンの実だった。 アラカシの隣に、大きなセンダンの木が立っていた。

栴檀せんだんは双葉より芳し」 ということわざは母から聞いて知っていた。 まだ赤ん坊のぼくを指して、 当時通っていた教会の牧師夫人がそう言ったそうだ。 母は嬉しかっただろうし、その話を聞いた子どもの頃のぼくもまんざらでもなく、いまだに自分は栴檀だと思っているふしがある。 いま誰かがぼくの子らに同じことを言ってくれたら、親としてのぼくも喜びを隠せないと思う。 将来、 実際にはその子がどのようになるにせよ。

 ぼくはそのセンダンの大木の幹に手を回して抱くようにしてみた。 近くの川沿いの道に停車しているタクシーの運転手が居眠りをしているのが見えた。 木を抱くなど、 生まれてはじめてのことではないか。

 しかしふと気がついたのだが、 「芳し」 もなにも、 特殊な芳香が一切感じられない。常のごとく私の鼻が詰まっているのだろうと思った。 ねじれた縄のような見事な模様の樹皮を1枚めくって鼻に近づけてみた。 匂いはしない。 葉もちぎったし、実も拾って嗅いでみた。 実に芳しくない。

 センダンは長じてぼくと同じようなただの人になったようだった。 あとで調べてみてわかったのだが、 くだんのことわざにいう栴檀とは実際にはビャクダンのことらしい。

 しかし去りぎわ公園を振り返ったとき、幾分か木の知識を得た私には、そこがまるで別の風景のように美しく見えた。 そして時間がゆたかに長く感じられた。 木々の間に意識が埋没して、もう一度道路を渡って家に帰ろうとしたとき、 鹿のように車にはねられそうになったほどである。

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