本当に自分が言いたいことは何か
本当に言いたいことは何か。
僕たちは常に自分の本心を言っているように思い込みがちだ。
でも、実際はその場面に合わせて、その場面の最適解を探していたり、誰かが言っていた言葉をそのまま借りていたりする。
それも無意識にやっている。
とくに焦っていたりすると、その傾向が強く出るように思う。
なぜなら、そのほうが言葉を返すのが早いし、楽だからだ。
その場での最適解は正解を当てる作業だし、誰かの言葉を借りるのは台詞を覚えるようなものだ。
早くて、楽で、上手い。
3拍子揃ったファストフードみたいなもんだ。
ただ、このやり方で言葉を紡いでいると、のちのち収集のつかない大変なことになる。
その話しているトピックについてもそうだし、もっと大きく捉えて自分の人生自体についてもそう言える。
ちょうど今さっき、後から振り返ってひやっとするやり取りが行われた。
事実が特定されてしまうので、詳細はぼやかす。
紙面の印刷についてメッセージのやり取りだ。
次工程のスケジュールの都合で早めに印刷発注をかけたのだが、その後で関係者からこういった文言を入れてほしいと連絡が来た。
ただ、もうデザインもFIXして印刷もしてしまったことを伝えると、上からシールを貼るとの回答だった。
それも、シール貼り作業はその関係者の方が請け負ってくれる、と。
それなら、こちらにはデメリットがない。
手間もかけなくて済むし、スケジュールにも遅れが出なくて済む。
いいですよ!と返信しようとしたときに、危ない危ないと立ち止まった。
これは、この場面での最適解を出そうとしているだけなのでは?と。
こちらにはデメリットがない。
そして、相手側も後出しじゃんけんであることは認めているので、作業を請け負ってもらうことはある意味その方にも負い目を感じさせずに、穏便に進める方向なのではないかと。
ここで両者の均衡は取れており、後味もよくスムーズに進められる。
でも、そこで気付いてしまったのだ。
これ、本当に僕が言いたいことではない。
あくまで場面や人間関係、プロジェクトを円滑に進めるための答えを出しているだけだ、と。
自分の価値観や世界観、考え方を考慮したときに、この返答は自分からは出てこないはずだ、と。
途中まで打ったメッセージをバックスペースで削除して、新たに作り直した。
といった回答だ。
スケジュールの遅れもあるし、費用も倍かかる、デザイン再調整の手間もある。
しかし、デザインへのこだわりと、その関係者の方への負担ということを考えると、僕の本心はこう言っていたのだ。
こういったときに、自分の価値観を把握できているかというのは非常に重要だ。
その場を取り繕うかのような返答をしてしまうと後戻りができず、プロジェクトはそのレールに乗って進み始めてしまう。
そうすると、自分の価値観や世界観のレールに戻ってくるのはとても難しい。
大抵の場合、どんどん離れていってしまい、ここどこだっけ?というくらい在らぬ方向に進んでしまう。
そうなるともう自分では収集がつけられない。
流れのままに身をまかせて、あとはなるようになるのを祈ることしかできない。
たとえスケジュールに遅れが出たとしても、一次的に負荷がかかったとしても、それを飲み込むことで自分の価値観を守り通すことができる。
そのほうが絶対にいい。
気持ちよくプロジェクトを進められるし、自分に嘘がないから、結果的に成果も出やすい。
僕はこういうときに弱い。
これまで自分の世界観や価値観を見失ってしまい、世間の正解や誰かの正解、その場の正解に身を委ねてしまうことが多々あった。
そして、そうなってしまったときに苦しい思いをたくさんしてきた。
小学校から高校まで続けた野球。
英語が好きだと思い込み続けてなった英語教師。
キャリアやスキルのために続けたWebの仕事。
どこかから借りてきた言葉によって、僕は間違った選択肢を踏み続けて、いつの間にか自分って何だっけ?とわからなくなるところまで行ってしまった。
だから本当に気をつけている。
一息ついて自分の世界観や価値観に立ち返り、石橋を叩くように慎重に慎重に言葉を紡いでいる。
それでもたまに踏み外しそうになる。
だから、こうやってnoteに書き記し、二度と同じ危険は冒さないようにお守りにしているのだ。
このnoteたちを見返せば、自分がどんな価値観でどんな人生を、暮らしを、生き方を選択してきたのか追体験できる。
だから今日もnoteを書く。
誰のためでもなく、未来の自分のために。
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