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社交の場としてのカフェ、この世界観は好きだなぁ

今日の営業は、経営的には調子がよかったとはいえない。

お客さんの入りが8月平日平均の半分くらいだったことを鑑みると、むしろよくない。

でも、今日の世界観はとてもよかった。

この雰囲気感を作れたことには、自分自身に90点台をあげたい。

残りの10点くらいは、今後の伸び代に期待だ。


今日は朝からお客さんの入りがよくなかった。

開店時間の10時台のお客さんは1組だけで、閑古鳥が鳴いていた。

天気がよくなかったのもある。

その1組は会議利用の5人で、小一時間ほどコーヒー片手に話し合いをして帰っていった。

その後、旅人らしき1人を挟んで、食事と喫茶利用で常連の女性2人組。

そして、また子ども連れのお母さんが食事利用。

1人利用の女性が2人、そのような感じで午前中の時間は流れていった。


ふらっと入ってきた女性が、先に入っていたお母さんと知り合いで立ち話をしていった。

その間に、僕は1人で利用の女性と糸魚川(僕の店がある市の名前)の魅力話で盛り上がっていた。

そして、2人組の女性は昼食のスパイスカレーを食べながら、笑顔で談笑をしていた。

この光景、すごくいい世界観だなと思った。

この空間の全ての人が笑顔で、コミュニケートしていた。

そして、その会話にドリンクやスイーツ、フードが花を添えていた。

この空間が、笑顔のバックグラウンドとしてとても似つかわしかった。

カフェとはそもそも社交の場だったなと思い出す。

明治時代に西洋文化として日本に入ってきたカフェー文化。

カフェの本場パリの文化をモデルとして、社交の場として日本で広がった。

当時は文化人を中心とした、少しお高い感じの社交場であったが、のちに一般大衆にも広がる。

そんな歴史があるカフェ文化。

その文化はどこか脈々と、そして細々と現代にも受け継がれて、僕の店にもその血が流れているのだなとあらためて感じる。


SNSでは度々、「勉強や仕事をする人がテーブルを占領していて、カフェに入れない」といった話が散見される。

そして、逆にそういったニーズを狙い、勉強や仕事利用をメインとしたカフェも広がっている。

それももちろん悪くない。

僕の店でもそういった利用は大歓迎だし、むしろありがたいなと思っている。

ただ、僕のメインの世界観はそこではないなと、今日の風景を見て思う。

お客さん同士。

お客さんと店員。

通りかがりの人。

笑顔や会話が店の中を飛び交い、フロア全体として穏やかなハーモニーを生んでいる。

そういった世界観を僕は目指している。


活気のあるところに人は集まり、そしてまた更なる活気を生む。

店に活気が生まれれば、その通りに活気は伝播し、やがて町全体が活気付く。

僕はそう信じている。

そして、その活気の始まりは、ごくごく小さな火種でしかない。

店員とお客さんの会計時のたわいもない会話かもしれないし、お客さんが料理を見たときに喜びの感想かもしれない。

あるいは、お母さんと子どもの「おいしいね」という笑顔かもしれない。

その会話と笑顔が重なり合い重なり合い、ドミソの和音のように調和しハーモニーになる。

活気とは、そのようにして生まれていくと思う。


ちょっと話が飛躍するけれど、地域活性化と言ったりするが、それは役所の力だけでは成し遂げられない。

国や自治体が声を上げるだけでは、前に進んでいかない。

いつも時代を変えるのは、強力な "個" である。

ある一つの店、ある一つの工場、ある一つの事務所、それらが個々にムーブメントを起こし、その総和として地域が活性化する。

結局のところ、それでしかない。

だからこそ、個々がそれぞれの持ち場で、それぞれ出来ることを全力でやることが重要だ。

全体がどうとか、地域がどうとか、国がどうとかそういうことではなく。

目の前の店、そしてお客さんに全力で取り組むことが全体にとっても一番影響がある。

僕はそう思っている。


今日の営業は、経営(数字)的にはイマイチだったかもしれない。

ただ、店の世界観としてはとても良かった。

この店での活気が通りの活気に繋がり、町の活気に繋がり、地域全体の活気に繋がる。

その火種が生まれていたなと思う。


たぶん、自分が儲けることを最優先の目的にしていたら、今日の営業はダメダメだ。

でと、僕の最優先の目的は違う。

僕の目的はいつだって自分がこの営みをずっと続けていくこと。

そのためには、うちが儲けるだけでは先がない。

関係する生産者さんが潤い、町に活気ができることで初めてサステナブルな営みとなる。


理屈や論理、数字ではない。

それを一番に考えてしまうと、売上や利益といった話になってしまいがちだ。

そうではなく、直感的に自分にとっていいなと思えるものを信じる。

その直感の裏には、今までの膨大な経験と記憶とイメージが積み重なっている。

いつだって直感を信じる。

理屈や論理は、表面的で安易である。

そんなものは、今まで生きてきた中で蓄積されてきた無限に等しいインプットの前では比較にもならないほど無力である。


世界観、価値観、直感。

あいまいで形が掴めないものほど、多くのマテリアルからできている。

だからこそ輪郭が不明確になるし、形が定義できないのである。

僕は、そういったものを信じる。

目に見えないが大事なものを僕は信じる。

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