必ず拓ける道がある
こんにちは、紺野うみです。
最近は、日常で「汚れたものや理不尽なものを見せられる」→「心が波立つ」→「振り回されてはいけないなと自分を立て直す」→「振り出しに戻る」、といった流れが多くてですね(苦笑)
それで、改めて出してみた結論というのを、書き残しておこうと思います。
よく人間は、嫌な人や嫌な場所に出会いその環境に身を置くようになると、自分の心を殺してでも「我慢する」か、その環境から「離れよう」「抜け出そう」と考えますよね。
私自身、これまでも「嫌なもの」には、さまざまなところで遭遇してきましたから、よく分かります。
でも、後でよくよく考えてみると、どれもその時の自分には「貴重」で「必要」な経験だったな……と思うわけです。
ただし、ここからが重要なところで……。
その「学び」には、必ず節目とともに「卒業」とも言うべき終わりが来ていました。
つまり、その環境から「離れてよいタイミング」「離れるべきタイミング」というものです。
さまざまな場所での、つらい経験や嫌だなと思うようなことによる「学び」。
これは、正直誰にでも、どこにでも何かしらあるものだと思っています。
それぞれの人に必要だからこそ、与えられている経験なのかもしれません。
問題は、自分の気持ちがそれを「どう捉える」か?
私もこれまで、場所や環境に自らの思い込みで「縛られる」ことの怖さや、「安定・安寧」から抜け出せない心理を実感してきました。
でも、思い切って外に出てみると、案外それは「できてしまうもの」で、「自分自身の心で選んでよいものなんだ!」という驚きがあったんですよね!
ある意味で「自由」になったというか……。
正直、人間は自らの覚悟をもってすれば、どこででもそれなりに生きていけると思うようになったんです。
ということは、本質的問題は……。
嫌な人や嫌な場所に出会ってその環境に身を置く時に、どこからどこまでを「学び」と捉えて受け止め、どこからが「卒業すべきタイミング」なのかを捉えることなんだろうなと。
嫌なものから「離れる」のは、実際は人が頭で思うよりも難しいことではありません。
しかし、すべての「嫌なもの」から即座に逃げていたのでは、人は強く優しくなれません。
ある程度まではしっかりと「経験」として享受してみると、不思議なことにある時、然るべきタイミングで「卒業」を促されることがあるんです。
これは、私の実体験(笑)
でも、そのタイミングを頑なに無視して突っ走って、自らを疲弊させたり腐らせてしまう人は、今の時代を生きる人にはとても多い気がしています。
そして追い詰められた人は、場合によっては、疲れ果てて絶望し「生きること」から離脱してしまうわけです。
その世界を「自分のすべて」だと、ここを出たら「上手くいかないに違いない」と、そんな風に思い込んでしまうんですよね。
でも、そんな人にもどこかで届けばいいなと思いつつ、私は今こういうことを書いています。
人はいつだって、自分の意志で行動し、時には居場所を変えてもいいんです。
そして、自分にとって「嫌なもの」は、貴重な「学び」である可能性が高いです。
「学び」には、必ず「卒業」があります。
それは、一度冷静になって、人の助言だとか自分の心の声を聞いてみると、必ず気づくことができるもの。
「卒業」のタイミングを、自分の「頭」だけで考えた狭い了見で逃さないようにだけ、気をつけてください。
「もう、十分学んだな」
「もう、ここで得るものはないだろうな」
そう思ったら、動くタイミングかもしれません。
それでも流れ的に動くことができなかったり、動く先が見つけられなかったら、まだそこになにか「得るもの」が残されているのかも。
そういうものをできるだけ正確に感じ取れるように、自分の心や感性は、いつだって自由にしておきたいものです。
大丈夫。
誰の人生の道も、あなた自身の「思い込み」を取り去れば、必ず拓けていきますよ!
世の中を少しでも明るくする言葉たちを、心を込めて多くの方に届けていきたいと思います。 紺野うみの活動を応援していただけますと、大変うれしく思います!