|偽満洲《ウェイマンチュウ》/禁じられた子守唄が聴きたくて




まえがき 仲三なかぞうという名の迷路

  そのときあらためて、母方の祖父・仲三なかぞうが、かつて中国にあった満鉄で働いていたことを耳にした。小学校四年生の十月、不意打ちのようだった仲三の葬儀と火葬が終わった直後のことだ。

 参列していた仲三方の親戚らしき中年の男が、仲三の弟で既に死んでいた自分の伯父に聞かされた話として、仲三は、満鉄沿線の何とかいう小さな駅の駅長だったと話す声が、長い〈箸〉を使ってお骨を〈あの世〉におくる〈骨拾い〉が終了し、散り散りになった人の列を掻いくぐって入ったタイル張りの男子トイレで、頭越しに聞こえてきたのだった。

 「伯父貴は、ずっと内地にいた人だったから、人づてに聞いた話だったんろうが、――仲三も国を離れて、ずいぶん遠くで出世したもんだ――と、早くから付き合いが途絶えていたせいか、自分の弟のこととも思えない、皮肉っぽくて情が感じられない、かなり冷たい口ぶりだったよ」。

 その後、わたしは、母や祖母が懐かしげに語る、満洲で自分たちの家族が暮らした奉天ほうてん撫順ぶじゅん哈爾浜はるぴんといった、子ども心にエキゾチックな地名を聴かされて育ったが、祖父がそれらの名を冠した駅に勤務していたとすれば、母や祖母を通して当然わたしの耳にも入っていただろうから、祖父が働いたのは、その近辺の支線か何かの、小さな駅だったのだろうと思う。

 父が死んでしばらくした中学生のときに、ほぼ三年間、同居していた母方の伯父の慎二しんじに、仲三についてこんな話を聞かされたことがある。

 「親父は若い頃に東京の鉄道学校を出て大宮の鉄道管理局で働き、その後、ある人の伝手で大陸に渡ると、満鉄で働きながら、大宮時代に縁のあった「日本基督教団」*1系の団体で、黒いガウンを羽織はおって牧師の真似事をしていた時期があったらしい。そのときは『召命しょうめい*2を受けた』とかいう親父の話に、お袋は『やだよ、夜更けのからすみたいな恰好でさ。その手の話はもう沢山、とっくに願い下げだ』と啖呵を切ってみせ、親父の教会話には耳を貸そうともしなかったらしい。

 それで、五人いた子どもたちのなかで、伝え聞いた若き日の親父の姿に影響を受けたのは、たぶん、俺独りだけだ。学校をサボって『カンタータ(声楽)の泉』と呼んだ手風琴を持って、キタイスカヤ通り(哈爾濱一の繁華街)のロシアン・カフェで演奏したことがあるんだが、それも実は親父の黒ガウンの影響があっての事だったんだ」と、それとなく自分の自慢話をしたのだった。

 「キッ、キタイスカヤに、楽器を弾かせてくれる、ロッ、ロシア人のやっている日本人相手のカフェーがあってな、親父にはナッ、内緒で通ったんだけど、正直に言うと、親父のせいで、俺はロシア人たちのキリスト信仰、ギリシャ正教なんかに興味を持つようになってたんだ」と。

 伯父の吃音どもりについては、戦後に夫を亡くし、姉とわたしの二人を連れて、実兄である彼の一家と同居した母・綾の言うところでは、「慎ちゃんは、小学校に入ったばかりの頃に、吃る女の子の真似をしているうちに自分まで吃るようになって、元に戻らなくなったの。それを理由に学校ではいじめられるし、真似をした子への言葉にならない気掛かりなんかが渦を巻いて、不安定なままで大きくなったのね」ということになる。その証拠に、「あの出来事の後で、次々に始めた手風琴や縦笛、ソプラノ・サックスといった楽器のうち、長続きしたものは、手風琴を除けばただの一つもなかったもの」と。

 「でも、続かなかったのは、飽きたんじゃなくて、兵隊にとられたからだったかもしれないわね」――呟くような柔らかいその口調には、いずれも優等生だった長兄と長女、それに「ばっち子」*3の三男とに挟まれて、五人いた兄弟姉妹きょうだいしまいの中で、ともすると学業は早々はやばやと切り上げて、その時々の気に入ったことに興じるという夢見がちなところが同じだった、次男・次女の慎二と綾とで共有した、「はぐれ者同士の親しみ」と、それ故の「微かな自尊心のようなもの」があったという含みが感じられた。

 ちなみに、哈爾浜で女学校時代を過ごした母は、「演劇」と「ダンス」に興じる乙女で、同級生たちには、当時で云うエス的*4な人気があったという。本人から聞かされたこの話は、その残党と思しい、生涯を独身で貫いた「トクちゃん」という、母にS的な思いを募らせていたらしい小太りのご婦人が、八〇年代の半ばに、すでに還暦が近い寡婦として、癌のせいで、わたしたち息子夫婦とやむなく同居していた母を、多くの伝手を辿って探りあて(彼女は当時、厚生省のベテラン官僚だった)、当日の電話一本の前触れだけで、ほぼ半世紀ぶりに会いに訪れ、二人で一しきり歓声を挙げた後に、たっぷり半日も話し込んでいったことからも、彼女たちのエスには、青春の一時期を彩る、それなりの実質があったことがうかがえた(そのときに垣間見た母は、困ったようでいてこみ上げる懐かしさで胸が一杯になった、少女のような表情だった)。

 早くも話がそれてしまった。それて途切れた話は別の機会にもう一度ぶり返すとして、以上のような話に大きな記憶違いがなく、誰も意識的な嘘をついていないならば、少なくとも大枠では、仮に次のようなストーリーを育んで、次章で述べる<額縁のなかの死んだ親族たち>に関する考察を試みてみても、別に罰は当たるまいと考える。

 何についての考察か?――少なくとも今のところは、まだ悔やしいとも、悩ましいとも、晴れがましいとも判断がつかない、わたしたちの足元と地下で繋がっている、見えざる過去についての考察だ。

 ならば、この語りは、もっと工夫を凝らして、たとえばこんな風に始めてもよかったのかもしれない。 

 ――林業を営む比較的裕福な、東北の兼業農家の三男として育った祖父・仲三は、地元で中等教育まで終えたのち、幼い頃から温めてきた夢を果たすべく、渋る父親を説得、一念発起して白河の関を逆さまに越え、東京・上野の岩倉鉄道学校を出た後に、国鉄*5の大宮鉄道区の土木課で働きながら、かねて憧れていたキリスト教教会に通った。

 そこで出会った鉄道学校時代から懇意にしていた或る人物の手引きによって、「召命しょうめい」と呼ぶに足ると自分でも大いにたのんだ神秘体験を経て、満洲に渡る。現地では南満洲鉄道土木科の社員として予定通り引き立てられる一方、時間外には、牧師の見習いとしても活動していたが、暫く後に思うところあって信仰を離れ、恐らく密かな破戒僧を気取って満鉄で働いていた。

 戦後は元憲兵だったいわお(綾の夫)の後押しを得て、老後を菊作りと山歩きに託して過ごし、巌が脳卒中に襲われて、ある事情で預かっていた実兄の息子を含めた家族六名を残して死んだ一年余り後、一九六三(昭和三十八)年十月八日に、好きだった山歩きを装って一人で出向いた山の中で、濃い茶色の薬用瓶に入った白濁した農薬を飲んで服毒自殺、降り続く雨のなか、誰にも姿を見せることなく、後半生に響き合っていたと思しい娘婿・巌の後を追いかけてみせた……。

 そんな彼とはいったい、どんな時代を生きた、どんな人間だったのだろうか。

序章 五枚の写真―響き合うそれぞれのカンタータ 

 長引くCOVID-19(コロナウィルス感染症2019)のせいで、あの頃から良くも悪くも、ほぼ一日の大半を、その画面と睨めっこしながら過ごしたデスクトップ・パソコンの右脇のサッシの窓際に、それ以前には長いこと先の住まいの仏壇に無造作に並べてあった、死んだわたしの家族五人それぞれの、モノクロ4枚、カラー1枚、合わせて5枚のスナップ写真が置いてある。

 古いものは七十年以上も前から、めいめいの死に際して、その度ごとに生き残った家族が調達してきた、木製或いは金属製の枠で囲まれた、小さくて大きさの不揃いな額縁に納められていたのだが、そのころは、当初の役割を終えたそれぞれの額縁から解放されて、われわれ夫婦が息子一家との同居に際して購入した、B5版大のアクリル板二枚で挟む体裁の透明なフォトフレームに、まとめて収まっていた。

 一歳と八か月の幼女だった長女の紘子ひろこが、哈爾濱からの引き揚げ港・葫蘆島ころとうの近くにあった、遼寧省りょうねいしょう錦州きんしゅうの収容所の土間に敷いた、母親の綾が首に巻いて持ってきた座布団の上で、寒さに震え栄養失調に蝕まれて、あるかなきかのか弱い息を引き取ったのは、一九四六(昭和二十一)年の九月十六日。このときは、志願憲兵だった父の鵜飼いわおがソ連軍に連れ去られ、生死どころか行方さえも知る手立てがなく、引き揚げに同行していた巌の双子の兄で、警察官をしていた勘四郎かんしろうが手を尽くし、何とかドラム缶による火葬で葬ることができた。そして、その遺影が入っていた小さな額は、満洲で生まれ育ってまだ二十一歳に過ぎなかった母親のあやが、引き揚げの目的地だった父母や夫や義兄たちの実家のある、ことあるごとに聞かされていながら、自身はついぞ見知らぬ内地の仙台に行き着いてから、勘四郎に伴われて、彼と夫・巌の実家を取り仕切る鵜飼家の惣領・勘太郎を訪ねた際に、娘の遺影を見せた礼として、納戸にしまってあった黒檀こくたん製の小さな額を分けてもらい、その二年後にシベリアから帰還した巌が、自身で買い替えるまで使用した。

 その後十六年が経った戦後の一九六二(昭和三十七)年の二月、終戦後の出直しに成功し、戦後日本の高度経済成長期の入り口にあって、保険会社の営業職として順調に巻き返していた四十二歳の巌が、綾と義父母の仲三とコマ、それに義姉の絹代きぬよが結核で肺を切除したために預かっていた兄・勘四郎の五男でまだ乳飲み子だった林太郎りんたろう、つまり自分の実の甥を含めて、姉の蓉子ようこ九歳と、わたし・弟の光矢こうや五歳を合わせて子どもが三人という、都合六人の扶養家族を伴って赴任した新潟で、極寒の二月に、六年前の出張先で一度患い、今度は早朝の自宅トイレで襲った二度目の脳溢血で急死した。そのときには、何もかも会社持ちの社葬だったにもかかわらず、生来の我儘気質が抜け切っていなかった綾が、外務担当副支社長の若き未亡人として支社長と渡り合い、喪主に加えて、社名の隣に施主としても名を連ね、ポートレート用の地味で上品な、これも黒檀製の額を、業者として出入りしていた葬儀会社に声をかけて作らせた。

 綾のこのやり方は、巌の死によって再び仙台に戻ってから二年に満たない翌一九六三(昭和三十八)年の十月、きのこ狩りの独り歩きで行きつけていた近くの山で、三人の実の息子をよそに、巌の後を追うようにして遺書も残さずに自らの命を絶った、仲三の七十二歳の死にあたっても変わらなかった。

 仲三の自死から十五年が経った一九七八(昭和五三)年、妻のコマが八十四歳で天寿を全うした。彼女はその暫く前まで、娘の綾と孫の蓉子、わたし・光矢という長年住み慣れた三人と共に、次男の慎二宅で、彼の一人息子・郁郎いくろうの世話をしながら同居していた。

 慎二は戦後にシベリアから帰還してほどなく、単身で自身のソウルフードだった満洲由来の「餃子」を焼く屋台を曳き始め、当初は赤い提灯に書いた「餃子」の文字を「さめこ」と読む客がいると苦笑いする時代に、遠縁の佐川静子さがわしずこと見合い結婚して、夫婦で切り盛りするようになってからは商売を徐々に軌道に乗せ、その頃には仙台一の繁華街にある、敗戦以来続いてきたマーケットに、小さいながら少しは名の知れた店を構えるようになっていた。戦争が終わって八年目の一九五三(昭和二十八)年に実現したその店の開店にあたっては、慎二より一足先に戦後の混乱を抜け出しかけていた義弟だが年上だった巌が、金銭を含めて何かと世話をしたことがあったことから、コマは慎二夫婦に誘われて、慎二が郊外に建てた新居に、それまで一緒に暮らして来たわたしたち三人とともに、慎二の一家三人と暮らすことになったのだった。

 夫・巌の死後も自分と離れずに暮らしていた父の仲三を、遺書もしたためない無残な自死で亡くした妹の綾を、慎二が他人事として放ってはおけないと考えたことは間違いないが、慎二夫妻の間には巌に受けた恩義のほかに、商売で夜が遅い自分たちには郁郎の十分な世話が出来ないので、食事はコマに、一人っ子でどこか落ち着かず、その当時から多動症的な不安があった息子を姉とわたし、とくに年齢が近く絵やスポーツが得意で学校の成績も良く、郁郎本人もよく懐いていたわたしの側に置き、できれば勉強を見てもらって、実の弟のように育ってほしいという希望があることは明らかだった。

 七人の同居は三年間続き、その間に蓉子は、高校を出て市内ではよく知られた画材店に就職した。その頃は、蓉子が職場の同僚からもらって来た生まれたてのオスの子猫に皆で名をつけたり、慎二がわたしの中学の入学祝いに、かねてから欲しがっていた流行のドロップハンドルの自転車を買ってくれたり、工作や大工仕事が好きだった彼が本人のわたしを差し置いて、中学の夏休みの課題に、不器用なわたしが作ったにしては立派過ぎる木製の本格的なヨットを作ってみせたり、休みの日の夜には七人揃って堀り炬燵を囲み、皆でお茶を呑みながら、近い将来に増築する際の部屋割りを相談したりした。中学の二、三年生になると、夜遅くまで受験勉強をするわたしに、商売中に焼き置いた、大好物の焼餃子の折詰めを持って帰って来たりもした。

 慎二としては当分の間は(ことによると、それ以上に)同居が続くものと考えていたのだろうし、高校生になっていた蓉子はともかく、分け隔てなく暮らしている実感があったわたしも、当然そう思っていた。

 だが、わたしが志望していた進学高校に合格すると、夫を亡くして七年が過ぎた綾が、かねてから密かに温めていたらしい計画を実現しようと発心し、蓉子と二人でカウンター席だけの「せんり」という小さな定食屋を開いて独立することになり、わたしを含めた三人は、コマを残して慎二の家を出ることになった。一九六九(昭和四十四)年のことで、詳しい事情は知らされなかったものの、以降はそれまでの兄妹の関係が幾分か淡いものになったことは否めなかった。

 コマのスナップは、慎二宅庭先での記念写真風のモノクロ写真で、自分では関西風に「アッパッパ」と言っていた、お気に入りのゆったりしたオフホワイトのワンピース姿で立っている。額は、幼時からお婆ちゃん子として育った蓉子が、千里が丘の大阪万博にちなんで名付けた「せんり」を始めるために画材店を退職した際に、新たな生活の記念にと職場の先輩・同僚から贈られて慎二宅に置いたままにしてあった、文房具仕様の小洒落た色つきの木製フォトフレームを使用した。

 そして、秋にコマが亡くなった一九七八年の春、満洲に比べて真実味が薄い故郷だった仙台の、綾の言い草によれば、「粘りつく親族たちの視線」を振り払うようにして、大学で東京に出たまま、演劇に興じて卒業もせず仙台にも戻らないわたし・光矢をあるかなきかの頼りに、綾は九年間続けた挙句、路上駐車の取り締まりが厳しくなって客が減り、徐々に背負い切れなくなった「せんり」に見切りをつけ、蓉子と二人で、「こういうのを都落ちとは言わないわよね。もちろん都上りではないけどさ」と笑えぬ冗談を言って、「没法子メイファーズ*1」とばかりに、果敢な東京移転を果たした。

 そして見知らぬ土地で、それぞれの職をそれぞれに見つけて(綾は小さなインテリア会社の社長家族の食事の世話役、蓉子は或る中小企業の電話交換手)、江戸川沿いの、その頃はまだ十分に鄙びていた下町*2で母娘二人のアパート暮らしを始めた。それからほぼ二年が過ぎた一九八〇(昭和五十五)年の初夏、後に連れ添うことになる恋人ができた蓉子がアパートを出てほどなく、一人で暮らし始めた五十五歳の綾を病魔が襲い、秋口には、それまで興じていた演劇ととりあえず手を切ったわたしたち長男夫婦との、否応のない同居生活が始まった。

 同居後に生まれた初孫・涼介の世話に心慰められることがあったとはいうものの、わたしたちに対しては「やむなき同居」という強気な風情を崩さずに終えた四年余りの生活中に、二度の手術と三度の入院を経験し、最後は人工肛門と人工膀胱をつけて「わたしはいまや二丁拳銃よ」と強がってみせた闘病の傍ら、自分の生活の足しにするためと言って、近くの中小企業の食事の 世話をする仕事をあらたに見つける一方で、わたしが演劇を休止した後も、小中学生向けの補修塾の講師に甘んじているのを、本来のシニカルさや批判めいた視線を失くした目で見ることもあるようだった。

 ただ、その一方では、練馬にあった住まいから、慣れぬ都心の電車を乗り継いで、若者に混じって都心のシナリオ作家養成講座に通うという、巌がいた時代を彷彿とさせる、兄の慎二がその死後に呟いた言葉で言えば、「綾ちゃんは、最期まで『夢見る人』だったよ」的な満洲娘振りを最期まで残してもいた。

 半覚醒の状態が続く臨終間近の病室で、蓉子に促されてぎこちなく手を握るわたしに、その手を払いのけて言った一言は、「あなたの手は温かくて嫌」という、その場に居合わせた義兄(蓉子の夫)が思わず苦笑いするような、身も蓋もないものだった。

 綾は、寡婦になって以来、二十二年にわたる奮闘を経て、いよいよだと心待ちにしていた国民年金の給付が始まる還暦を目の前にして、五十九歳でこの世を去った。そのときの彼女に、もし、ものを思う余裕が残されていたならば、その死についてはもちろん、年金についても、やりきれない思いがあっただろうと、わたしが言うのは気が引けるとはいうものの、今にしてその悔しさを思う。

 だがその一方では、世間知らずだが根性の座ったところがあった彼女のことだから、この後に及んでも例の「没法子メイファーズ」精神を発揮して、好きだったドリス・ディの「ケセラセラ」*2でも口ずさみながら、気に入った誰かに向けて粋がる一瞬があったのかもしれないと、肩をすくめながら思いもするのだが。

 綾が逝って、遅まきながらにわたしは、仙台の北東の小高い丘の上にある鵜飼家の菩提寺の墓地に綾が建立した、今は彼女のほかに巌と紘子が眠っている「鵜飼巌家の墓」と、前述の五つの顔写真の入った五つの額を引き受けることになった。彼女はこの墓を、鵜飼巌の未亡人として夫の死の直後に造った。義兄・勘四郎が建てた、戦後の混乱で亡くした自分の五人の子どもが眠る「鵜飼家の墓」と隣り合わせで、同時建立したのだった。

 綾の写真だけはカラーだ。仙台を去って東京に出る一年ほど前に、店の厨房の裏にあった四畳半の小さな座敷で炬燵に入ってくつろいでいるもので、お昼の「準備中」に、お茶を呑みながら蓉子がシャッターを押したと思しいが、力まない自然な笑顔で映ってはいるものの、いまになって見るとさすがに疲れの色が隠せない。

 そして、わたしがいま、息子一家と住んでいるマンションの仕事場に置いたアクリルのフォトフレームには、以上五人のポートレートに加え、巌の赴任に伴って七人家族が仙台から新潟に赴く直前に、仙台の鄙びた二軒長屋の庭に面した廊下で撮ったと思われる、誰がシャッターを押したものか、一枚の集合写真が納まっている。

 その一枚に肩を寄せ合うように写っているのは、まだ乳飲み子だった丸々とした従弟の林太郎と、林太郎の母で撮影時には結核の手術を終えて小康状態にあったのだろう義理の伯母にあたる勘四郎の妻・絹代、林太郎を膝に乗せているのは病弱な絹代と満洲からの引き揚げを共にした着物姿のコマ、同じく哈爾賓からの道程を共にし、その過程で絹代と同じく我が子を亡くした、まだ三十を過ぎて間もない綾、そして大きな涎掛けをつけた四歳のわたし・光矢の五人である。

 以上、わたしたち夫婦が、息子・涼介一家との三世代同居をきっかけに購入したフォトフレームには、バラバラながら、それぞれに引っかかりや思い入れが絡み合う五つ(絹代を入れると六つ)の顔が、それぞれがそれぞれに対して、ときに反発もあっただろうが、触手を伸ばし合ってきた、当人たちにとっては決して軽くはない様々な歴史的な触れ合いの凹凸おうとつを、無機質な津波のような力でならしていったんは見えなくする、当時のわたしにとっては打ってつけの、さながら「弔い上げ」の効果があるかのようだった。

 仕事用に使っている机の、向かって右側に穿たれた、北東向きの窓から室内に入り込む、二年前までは訪れたことさえなかった大きな霊園*3があることで知られるこの町の朝の光には、微かながらもしたたかな、家族にまつわる情緒の蓄積を、日常のリズムのなかに難なく埋め込んでしまう、まるで通信販売のサプリメントのような効力でもあるのだろうか、そしてそれが、われわれの同居後に生まれてきた、一歳を過ぎたばかりの孫娘にはわかるのだろうか、朝の保育園通いの前などに、彼女を抱いたわたしの妻・奈緒美なおみが、アクリル板に挟まれた写真を見せて声をかけると、あたかも自分の血の中にある何かの力が動き出しでもするかのように、あたりも驚く甲高い嬌声に小さなからだを弾ませるのだ。

 「これがジイジ(わたし・光矢)のお父さん(巌)」、「これはジイジのジイジ(仲三)で」、「これがジイジのバアバ(コマ)」、「それからぁ、おかあさん(綾)……」「……と、もう一人のネエネ(紘子)」と、孫と暮らすようになって、姑の綾を除けばまみえることがなかった死んだわたしの血族を、こだわりなく呼ぶようになった奈緒美の誘い声に、「キャッ、キャ! キャッ、キャ!」と、けたたましくさえずりながら……。

 ふっくらとして暖かそうな一歳の誕生日用にあつらえた晴れ着と、引っ繰り返した猫用のエリザベスカラーのような真白く大きな涎かけをかけて、「昭和貮拾年八月拾参日 於奉天」と裏書きされたモノクロ写真に納まった長姉の紘子は、敗戦直前に訪れた父の赴任地・奉天で包まれた、おそらく彼女の人生最後の華やぎのなか、写真屋の温かい空気に眠気を誘われたのか、つぶらな眼をことさら見開くようにして、こちらを見返している。

 父・巌は、死ぬ前年(一九六一/昭和三十六年)の秋、自ら音頭をとって、我が子二人が通う新潟の小学校の校庭を借り切って行った、同業他社の野球倶楽部との対抗試合で、プレイボールの前に打席に立って、ユニフォーム姿で前方を睨みつける、いささか芝居がかったバッティング・ポーズで記念写真風に納まっている。これもモノクロで、このときには、父が特注した胸に会社のロゴ・マークが入った、社員たちと同じデザインの子ども用ユニフォームを着せられて、若い男女社員に混じって応援に駆り出された小学二年生のわたしもいた。

 しかし、ユニフォームを着た少年などいない時代に、自分が好きだった長嶋茂雄の「3」ならともかく、いかに常勝巨人のヒーローとは言え、父の世代の川上哲治の背番号「16」を背負わされては、そのオヤジ臭さが耐えられず、得意げな風情の父のそばにいるのも腹立たしくてならず、撮影班の若い社員からは距離をとっていた。そんな次第だから、当日のわたしは、ほとんど写真に写っておらず、ただ彼らを避けて校庭を逃げ回りながら目にした、毎朝通って上履きに履き替えていた木造校舎の、その日も開かれていた間口の大きな通用口が、秋晴れの眩い光の中で、いつもと違って、ただヒンヤリと青黒い、妙によそよそしいガランとした暗がりに見えたことが記憶に残っている。

 祖父の仲三は、コマや綾をさておいて、女婿じょせいの巌だけは本気で背を押してくれた、自慢の鉢植えが並んだ手作りの木棚に囲まれて、種から育んだ花が庭一杯に咲き誇っていることに、満足そうに後ろ手を組んで映っている。裏書きに「34.6.5 菊や朝顔の棚に挟まれて」とメモされた新潟でのモノクロ写真だ。

 おそらく白山浦はくさんうらという場所にあった新潟で最初に住んだ平屋の社宅の狭い庭先でのもので、その直後に、巌が会社に新築させて移転した金衛町きんえいちょうという住宅地にあった二階建ての社宅では、庭が格段に広くなり、趣味の花々も「菊」の鉢植えと「朝顔」に加えて、盆栽の「松」やその他の花々が加わり、その数も桁違いになったのだった。

 以上の三枚に、先に述べたコマの立ち姿と、ただ一人だけカラーで収まっている綾の、炬燵に座ったスナップという、五人五様で計五枚の写真が、それぞれ無造作に、同じ一枚のアクリル板の小ぶりな空間に挟まっているというわけだ。

 仕事場で五人を一望できるのは、五人を何気なく一つにまとめてしまったわたしの「怪我の功名」で、孫娘の歓声はその期待しなかった効用の一つだと言えようが、反面で、一枚一枚が写真として持っていた、大袈裟に言えば、死んだ彼らと、生きているわたしたちとの関係や因縁にまつわる、小さいながらも歴史が絡む、血族としての懐かしさやこだわりを、型通りに懐かしんでみせたにせよ、後悔することもなく消し去って(薄くして)しまったようにも感じる。

 そうするとわたしは、こう思うのだ――自分は、もう役に立つこともあるまいからここらで打ち止めにしようと、ほとんど機械的に写真を整理し、彼らとの間にある不可視の壁、あるいは藪に覆われた自分の足元を、見ずに忘れようと図らった。

 しかし、結果的には、只今この場所でのアパシー(「無関心」)という或る種の茫洋とした心地よさと引き換えに、藪を払ってでも見つけるべき意外な大蛇、あるいは毒蛇かも知れぬが、ともかくも何らかの記憶すべきものと言って差支えないものを、追わずして取り逃すという愚を犯したのではなかったか。

 そんな具合に、図らずもとはいえ、自ら手にかけたものを、いまさら取り戻せるものかどうかはわからない。今ごろになって、よくもまあ、そんな悠長なことをと人は言うかもしれない。もしくはその動機を、何が悔しく、あるいは何が面白いのだと、訝る向きも少なくないに違いない。

 だが、見ずにやり過ごしてきたものが、見てはならないものだとしたら、見ないわけにはいかなくなるのも、また人情だ。いや、遠目であれば、なおさら見たくなるのが、この厄介な人間というものなのではないか。  

 その意味ではこれは、少なくともわたしは誰にもほとんど聞かされず、おそらくは多くの血族が黙ってやり過ごしてきたことを、迂闊にもこちらからも聞かず、ただすこともなしに生きてきたことへの、良くも悪くも簡単にはほどけない思いのために、せめて後追いの想像の中にだけでも、それらを拉致・生け捕りしておきたくて目論んだ、我ながら怪しげな、一介の果たせなかった悔悟の物語なのだ。

 高校に入ってそろそろ大人の世界を覗き始めたわたしに向かって、当時四十四、五になっていた綾が、早くに死んだ巌を評して、突然思い出したように「あの人は、亥年いのししでもないのに猪首いくびの猪突猛進、清濁併せ呑む人だったのよ」と得意そうに述懐したことがあった。それがいつの彼について、何を念頭に出てきた言葉なのか、それ以上は、聞かず話さずのままに過ぎたのだが、おそらく戦後の彼の、彼女にすれば思いもしなかった出世ぶりを、身近に見て感じてきた実感だったことには違いない。そのときの、夫を語っていつになく人間臭く、若いときからの自分の思い込みを裏切って進んだ事態に対する密かに悦に入った表情が、彼女の表向きの意図を超えたところで、良くも悪くも何ものかに届いていたのを感じる。

 そして、あれは子どもではどう背伸びしてもわからない、どうしようもなく遠い一言だったなと、今さらながらに思い知らされているのだ。


第一章  見えない昨日との対話

  

1.いわおの屈辱 

 鵜飼巌うかいいわおは、一九一九(大正八)年に、今で言う宮城県仙台市の宮城野区・岩郷に生まれた。苗字は代々、遠く西方の美濃みのの国で鵜飼いを生業とする集団に属したことに由来すると聞かされて育ったが、その一族が、自分らが捕獲した鮎などを、仕来りゆかしい作法に則って皇室にうやうやしく献納する宗教行事としての、いわゆる「御料鵜飼」にどの程度関わっていたのかは、残念だがはっきりした記録がない。

 仙台で徴兵検査を受け、型通りに招集された後に、一九四〇(昭和一五)年に志願していた満洲の関東軍に配属され、兵舎で同室だった前川仲三の長男・前川壮一そういちと親しくなった。壮一は、奉天で生まれ、中学校の進学のために内地・仙台に赴いた経験を持つ、現地で召集された同年兵で、親がともに仙台の人間だったことと、共に旧制中学の出身者だったことなどがきっかけになり、ほどなく打ち解けて話し込むようになった。

 巌は、小さな頃から「岩郷いわごう岩男いわおとこ」と言ういかつい綽名を持つ、背が低く饒舌な男だった。殻を剥きたての茹で卵のごとくツルツルした顔に、薄く柔らかくなった、自分では子どもの時分は束子たわしのように太く堅く黒かったという猫毛の髪を撫でつけ、たくまざる愛嬌と、誰の前でも力を惜しまずに働く肯定的な一面が目立つものの、黙ったときに見開いてみせる大きな目には、内側から滲む光が曖昧に浮かび、どこか不穏な力を感じさせるところがあった。陸士を出た若い尉官の中には、容姿が「ニコポン宰相」と言われた元首相の桂太郎*1に似ていると遠慮がちに言う者がいたほどだが、本人はそんなことに付け込んで上官の機嫌を窺うわけでもなく、名を知らない人ではなかったのに、「自分が生まれる前の方でありますか」などと、旧制中学卒とも思えぬ白々しい無知を装って、敢えて取り合おうとしなかった。そういう点が、果たして世慣れしていない不器用な性格のせいなのか、それとも生来人を食ったところがあったのかは、判然としない。

 前川壮一に、問わず語りで詳しく披露したところによれば、彼の詳しい出自はこうだった。

 「俺は岩郷の在の農家の八人兄弟姉妹きょうだいしまいの五男坊だ。鵜飼は代々庄屋をつとめた地元の名家だというが、当主の勘兵衛かんべいという俺の親父が偏屈な男でな、本家を継がせる自分の長男を含めて、上から男四人までには財産分けし、その他の援助も厚くして在の鵜飼一族として一致協力させる。しかし、五番目の俺より下の男子は、学問がしたいのなら卒業するまでは面倒を見るが、あとは外に出て自力で生きていかせると決めていた。学問と言っても、実際は中卒(旧制)までがせいぜいで、次男を除けば高校(同)に行った奴は、いなかったんだがね」。

 「ふーん。で、自分はどうだったんだ。上に行く気はあったのか?」 

 「古川中学(同)に行ったきりで、それでお終いだった。一度は二高(同)を受けたが、もともと学問が好きではなかったし、俺の頭じゃ先が続かないと、薄々わかってもいた。だから、赤紙が来たときは、正直ほっとしたよ。志願して満洲にでも出ていけば、嫌な実家と手間なく離れられるからな」。

 「一度二高を落ちて、二度目がなくてそれきり召集、そして嫌な実家を蹴飛ばして、自分はいざ自由なる満洲へというわけか」。

 「まぁ、そうだ。そして、それでよかったと思ってる」。

 巌は、兄たちに兵舎で学歴の話は禁物だと聞かされていた。それで、次のような話で周囲を煙に巻いていた。

 「小学校のときには、和服を着て下穿きを穿いていない女先生が、『ご不浄』に入るのを見計らい、廊下にいる仲間と示し合わせた合図が出ると、外にあるこえツボの蓋を開けて大きな石を投げ入れたもんだ」などと言って皆を驚かせ、中学校や高等学校のことを大っぴらに話すことは控えていたのだ。その代わり、相手を選んで延々と繰り返していたのが、上のような類の話だったというわけだ。

 で、壮一との話の続きはこうだった。

 「そもそも鵜飼の姓は由緒があやふやなんだ。四百年以上も前の十六世紀に、美野国や美乃国と呼ばれた岐阜・美濃の守護を務めていた或る豪族が、家臣の斎藤道三に追放されて没落したときに、その豪族に仕える地侍と見做されていた一族が、あるじと別れて、遠く陸奥みちのくまで落ち伸びて仙台の地に移り住んだ。織田信長が出るより前の話だ。そして、土地が貧しい岩郷の地に定住し、人の寄りつかないこの地を、僅かな地元民とともに長い時間をかけて開墾して、田が整い、互いに馴染み切ったころに、かつての主の仇だった斎藤道三が守護代として長井の姓を名乗った故事に対抗して、無茶な話だが、よい水がなく未開に近かった岩郷とはおよそ不釣り合いな、「鵜飼」という自分らの水っ気のある元の姓にこだわってみせた。

 すると、一族の長きにわたる荒れ地の開墾その他の働きぶりをよしとしたお上の伊達氏が、美濃への気遣いは無用と判断し、鷹揚にも一族の願いを黙って赦し、やがて本来ならせいぜい「岩」の一字でも賜って、あらたに名乗るべきだった一族は、在の名家として、図々しくも、鵜飼の旧名を無条件で復活させた上に、その後も庄屋としてやりおおせることになった……。

 「田舎のしがない百姓知識人だった親父は、かつては『古今集』を編纂した紀貫之が、国司・美濃介みののかみに任官したことがあった「美濃故郷びのくに」とも読める自分は行ったことがない美濃国みののくにを、一族の血が沁み込む神聖で格別な地と思い込んで、講義の前にはよく、鵜飼は、遡れば「美乃国の守護・土岐氏」の家臣だったと言っていた。家臣というより、さっきも言ったように、裏切りに近い過去を持つ、一介の地侍ぢざむらいみたいなものに過ぎなかったと思うんだが」。

 「何だ、その地侍というのは?」

 「百姓をまとめる百姓頭みたいなもんだよ。領主の意向にそって農民たちを束ねるかと思いきや、一方では百姓を代表して代官なんかと渡り合う一面もあるという、まあ時と場合によって変幻自在で、どっちつかずの蝙蝠こうもりみたいなもんだったんじゃないか」。

 「蝙蝠か……」少し間を取って、壮一が続けた。「……しかし、そりゃあ両方の立場に通じてないと、とてもやっていけない、苦労の多そうな稼業じゃないか」。

 「そう言える面は確かにあっただろうな」。

 待ちかねていたわけでもあるまいが、巌はゆっくりと、語尾を吊り上げ気味にそう応えた。

 「だがな、実は両方ではなく、限りなく領主寄りだったはずなんだ。何せ、後に岩郷に入ってからは、乞うてあらためて望んだ名字帯刀を許され、やがてご下命を受けて庄屋になりおおせているわけだし、両方の立場がわからないとやっていけないというより、両方がわかるだけでは何もできないのが実情だとわきまえていたんだろう。だから、根無し草と言うか、落ち武者になったときにも、敗者の五分の魂だけは大事に持ち続けていて、岩郷でも、人間臭く「鵜飼」の旧姓を望んだんだと思う」。

 壮一は、巌の言うことに、どこか作りごとめいた怪しい兆しが混じり込んでいるように思えたものの、力まずに悪びれる風でもなく、「立て板に水」のように述べたてる「ニコポン宰相」ばりの軽い口調と、奇抜な中身につい乗せられてしまい、むしろ自分から身を乗り出して、こう尋ねた。

 「なるほど。で、さっきの『講義の前』ってのはどういうことなんだ。親父さんは、どこかで教えていたのか」。

 「はっはっはーははは……」。

 邪気たっぷりに大声で笑いながら答えた巌によると、これは「下手の横好き」の延長で、独学した学問をあがめていた伝兵衛が、息子たちや親族のほかに、参加を希望する近所の農民やその子らも自宅の広間に集め、無料で週に一度開いていたという、『論語』の購読その他の講義のことらしかった。

 ご下命を受けたと言っても、元来が余所者だった鵜飼の一族が、在の農民たちを曲りなりにも束ねてきた裏には、代々このように効果の疑わしいスタンドプレイ気味なことであっても、決して手間を厭わない、巌に言わせれば、蝙蝠としての二正面的な「覚悟」と、胡散臭くて表立たない「狂乱の気」のようなものが、労の多い小作人たちにも、時間をかけて伝わっていたんじゃないかという。

 話は時間を飛ぶが、当主の最低限の心得として長い間受け継がれ、農民たちの間でも認知されてきたらしい、この無意識で異形なリーダーシップのような気質は、戦後の農地改革で小作農が解放された後にも、巌の長兄らによって幾分かは発揮されていたらしく、たとえば今から七十年以上も前、終戦後の昭和二十年代の後半には、こういうことがあったそうだ。

 地下水の水質が悪かった岩郷の〇×地区の人々は、毎朝、地域の道端を流れる七北田川の支流から飲み水を始めとする生活水を汲まなければならないなど、昔から水を得るのに苦労してきた。ところが、昭和二十六年(一九五一年)に地域の小学校の敷地内で、質・量ともに十分な水脈が発見され、鵜飼家の当主の勘太郎と、その呼びかけに呼応した分家の弟・勘二郎らが動いて、〇×地区の人々からなる共同組合を組織、自分たちの手で道を掘り起こして簡易水道を作り上げ、仙台市の上水道に引き継がれるまでの十年近くにわたって、その水を管理・使用したという。この出来事を伝える記念の石碑が、いまも岩郷小学校にある……云々。

 

 ちなみに、今でも地元の子どもたち向けの映像教材に、この話と勘太郎の肖像が収められているそうだ――。

 「鵜飼家には息子が全部で六人いてな、上から順に勘太郎、勘二郎、勘三、勘四郎、ここまでが父・勘兵衛が目論んだ本家と三つの分家で計四人。勘兵衛から『勘』の字の『一字拝領』*2を受けている点では、四人は同じだ。それだけじゃない。この四人には、『論語』を講義していた勘兵衛が孔子の言葉にかこつけて贈った、それぞれ一文字のありきたりな『あざな*3』のようなものがあるんだ。

 つまり、勘太郎は『論語』巻一『学而がくじ篇』の『巧言令色鮮し仁こうげんれいしょくすくなしじん』から引いた『じん』、つまり鵜飼勘太郎・じんだ。以下、勘二郎は同じく巻一『為政いせい』の『を見てせざるは勇無ゆうなきなり』の『』を『よし』と訓読みした二音読みで、鵜飼勘二郎・よし(或いはぎー)、勘三が巻二『里仁りじん』の『徳、孤ならず。必ず隣あり』の勘三・とく、歳の離れていた勘四郎だけはつけ方が違っていて、巻五の『子罕しかん』にある『後世畏こうせいおそるべし』の『畏』を音読みの一音で読ませる『』」。

 ここまでうたうように言い終えると、一息入れた後で、巌は上目遣いにチラと壮一を確かめる目で見ながら、「まぁ、ただ丸暗記しただけの代物だから、その名の深く意味するところは、あったとしても俺にはよくわからん。わかったところで五男坊と見做された俺には関係ないから、わかろうともしなかった。

 一音しかない勘四郎を除いて、兄貴たちは互いに、『仁兄じんにい』、『よし』(或いはぎぃ)、『徳坊とくぼう』なんて呼び合っていたけどね。だが、俺のすぐ上の勘四郎のときに『あざな』を一音読みに変えてしまったのは、親父の失策だった」と続けた。そして、「ほぉ?」と、わかったのかわからぬのか、茫然として呟くだけだった壮一に、息もつがずに攻め込むような勢いで、巌はこうたたみかけた。

 「勘四郎を含めた男四人の名は、当然漢字表記だよ。だが俺と弟、それから二人いる娘の名を、親父は『仮名』で書かせようとした。俺が『いわお』、弟が『しげる』、娘二人は、上が『めゐ』、下が『みつ』だ」。

 「漢字には意味がある。音を示すだけの仮名には意味がない、というのが言い過ぎならば、意味は薄く、淡い。親父にとって、この区別は隠された意味があった。実は、上の男三人と長女の「めゐ」は母親が二十歳代のときに産んでいて、勘四郎以下の俺も含めた男三人と次女の『みつ』は、三男の勘三と勘四郎のあいだに十五年のを置いて、母が不惑を越えた四十女になってから生まれているんだ」。

 「三男と四男の間に十五年……」。

 「そう。つまり、四男以下は、当時で言う『恥かきっ子』なんだよ。今でも言うけど」。

 「で、長男の勘太郎と俺には二十年以上という親子もどきの歳の差があった。つまり俺にとっては、勘兵衛、勘太郎とうるさい親父が二人いたようなものなんだ。で、とにかく親父は、八人中、男だけ上の四人を名付けの点でも区別しようと目論んでいた。

 財産分与の企みのことを考えれば、これは、単なる区別ではなく、無意識だったとしても本質的に恣意的な差別だよ。長男の勘太郎だけならともかく、下の我が子たちも二つのグループに区切ってはっきり差別しようとしたってことだ。

 だが、これには、普段はおとなしかった母が、さすがに反対した。後に、勘四郎と俺が大人になって三男の勘三から聞かされた話では、このときは夫婦間にそれまでにはなかった激しいいさかいがおきて、最後は肉弾戦もどきの騒動まで起こしたらしい。そして、母方の親戚筋はもちろん、親父の兄弟姉妹でさえ何人かは母についたという話だ」。

 「それで八番目の末っ子『しげる』が生まれ、勘四郎と俺が五つになってから――俺はほとんど覚えてないんだが――蝙蝠の分際で派手な七五三祝いで袴を履かせる段になってやっと、それまでは意地を張っていたさすがの親父も――当初は袴を穿かせるのは勘四郎だけと頑固に考えていたらしいが――『いわお』を漢字を使った『巌』と改名し、『しげる』は『茂』にしたっていうわけさ。俺らにあざなはなし、女の『めゐ』と『みつ』は、字はもちろん、表記も平仮名のままだったんだが……」。

「……それよりも勘四郎の話だ。つまり、『あざな』を彼だけ一音読みにしたことだ。なぜ、それが思わぬ失敗に繋がったのかと言うと……」。

 そんな風に自分にまつわる奇天烈な話を、水か油のように滑らかに垂れ流しながら、最初は満洲の冬の風が吹き込む、兵隊用の食堂として使われていた内務班の大部屋で飯を搔っ込みながら、次いで自分たちの居室に移動する道すがら、さらには自分らのベッドの傍らで、その都度、彼らの尻を叩く兵隊喇叭らっぱせわしない音に追い立てられて手足を動かし、辺りの同年兵と見張りの下士官に気を配りながら、ひそひそ声で続いた二人の話は、ほとんど一人で述べ立てるに等しかった巌が、チラッと猫背気味に屈んで人の顔を覗き見る、どこか卑屈でそのくせ不遜でもある普段の印象を裏切るように、いつもより一山超えるほどにも真剣な、何ものかが憑依して、ほとんど芝居がかったような表情で訴え、止めどもなく語り続けたのは、概ね、以下の二つのことだった。

 ・一つ。勘三と十五歳以上も歳が離れた下の四人の「恥かきっ子」のうち、勘兵衛が勘四郎だけには「勘」の「一字拝領」を与え、やり方が一音読みだったとは言え、「」という「あざな」を授けるという、差別とは真逆の優遇にこだわったのは何故か。

 ・二つ。巌がそれを「親父の思わぬ失策」と評したのは何故だったのか。

 答えは、聞けば他愛もないものだった。巌が話し壮一が聞いた、混み入ってはいるものの、意外に単純な回答は次の通りだ。

 例えば、戦後の大相撲の土俵の四隅には、それぞれ「青房」「赤房」「白房」「黒房」の四つの房が垂れ下がるようになった。あれは、もとは四隅に柱が立って支えていた土俵の天井を、客が見やすいように吊り天井にして目障りな柱をなくし、頭上にぶら下げたものなのだそうで、真偽のほどはつまびらかにしないが、実はその構想は戦前から存在していて、(どんな形にせよ戦争が終わって)いざ実現に移すときが来た際に、「伝統」に抗うものとしていたずらに「暴挙」の評を招かないように、慎重かつしたたかに以下の理屈が整備・確認され、それに準じた建設上の手立てまで用意されていたという。

 それと比べてやや簡素だったとは言え、本質的に同じ理屈を勘兵衛は、相撲界に先立つこと四十年以上も前から、我が子を仕分けする秘めたる「絡繰からくり」として使っていたというのだ。

 巌が話した相撲界と鵜飼勘兵衛に共通する「理屈」とは、簡単に言うとこういうことだった。

 まず東西南北という天の四方を守る「四方神」には、それぞれ固有の色がある。すなわち東を守る神「清流せいりゅう」の「青」、南を司る神「朱雀すざく」の「赤」、西を守る神「白虎びゃっこ」の「白」、もう一つ北を守る神「玄武げんぶ」の「黒」の四色だ。この「青」「赤」「白」「黒」の四色は、「青」を「あはし」、「赤」を「あかし」、「白」を「しるし」、黒は「くらし」と見做し(表記し)、さらに「青」=「あはし」を青春せいしゅんの「春」、「赤」=「あかし」を朱夏しゅかの「夏」、「白」=「しるし」を白秋はくしゅうの「秋」、「黒」=「くらし」を玄冬げんとうの「冬」と、全部で四つの季節(=四季)に重ね見ることができる。

 つまり、相撲で言うと、【東】(正面から見て)左側=青房(青龍神)は春、【南】向正面=赤房(朱雀神)は夏、【西】右側=白房(白虎神)は秋、【北】正面=黒房(玄武神)は冬となって、四つの方角に、それぞれを守備する四体の神々と四つの季節を重ね置き、さらに四つの色がついた四つの房を四つの角を持つ土俵の上に垂らすのは、このように見事に重なり合うこの国の自然、そして人為的な秩序の双方に見合うという理屈があってのことで、勘兵衛も「下手の横好き」で、いつの間にか我が独創だと錯覚したこの理屈に拠って、妻との間に出来た八人の子を、四人ずつの二組に分けることを正当化するという、嘘のようにもっともらしい符合があったわけだ。

 「仮に錯覚によるインチキにしたって、ご苦労至極な緻密さ、というか『しつこさ』じゃないか。俺は、いまだにわけがわからないよ」。

 巌は吐き捨てるようにそう言った。

 勘兵衛は、妻・トキの言うところによれば、この屁理屈に代わるいかなる表立った理由もなしに、敢えて自分の子どもたちを男四人とその他の四人で区切るという、神をも恐れぬ愚行を、他ならぬ神とその仕来りによって犯していたようなものだが、一方でこの「四」にこだわる決定によって、後の相撲協会が実現した改革を、「岩郷」を土俵にして展開しようと、思想的・形式的に、いささか幼稚ながらも先取りしていたとも言え、それは「あざな」ともども、母や巌たちにとってはどうでもいいことだったものの、「恥かきっ子」という名の「恥」に基づく「ならわし」などとは違って、勘兵衛にとっては、何としても譲れない孤独な重みを持っていた。

 では、巌が勘四郎について「親父の思わぬ失策」と評したのには、いったいどんな絡繰からくりによるものだったのか。

 「わかってしまえば、それも何でもないことなんだ。家と岩郷の四方を守る『四』という数字にこだわった親父は、三番目の勘三が生まれた後、四番目の息子の到来を十五年も待ちわびなければならなかった。たぶん、鴇に老いの影がさし始めた最後の数年は、熱烈に待ったはずだ。『恥かきっ子』が恥ずかしいなんてことは、勘兵衛にははなから問題ではないし、問題にする余裕もなかったと思う。生まれろ、生まれてくれ、生まれて下さい」と、おそらく日夜祈るように願うばかりでね。

 で、そういう親父の目算に狂いが生じたのは、鴇の足が出産で開くことのなかった十五年が過ぎて、待ちに待った四番目の男子が生まれた祝うべき当日のことだった。一九二〇(大正九)年五月の十日だ。その日に何があったのか――」。

 巌は、そう言っていったん閉じた唇の右端を持ち上げ、暫く口を閉ざした。思わず出そうになった涎を呑みながら。

 壮一は早過ぎる巌の口調と度を過ぎた話の展開に、巌の特異さを感じ、この話に法螺がどれくらい混じっているのかはともかく、巌にも彼が毛嫌いしている父・勘兵衛譲りの、もって銘すべき「狂乱の気」と「偏執性」のようなものがあるではないかと考えた。だとすれば壮一は、巌がその気だったならばの話だが、既に巌の巧みな口車に、半ば乗せられていたと言えるのかもしれない。

 ともあれ、巌の芝居めいた沈黙に応じて、壮一はもう遠慮はしないと決めてこう言った。


 「死産だったのか?」。

 巌は生真面目に、「違う」と首を振った。

 「じゃ、親父さんの子じゃなかったのか?」。

 「なるほど。そいつは面白い――」。

 「――でも、鴇は当時の普通の主婦だ。浮気なんて考えられない。残念だが、それも違うよ」。

 しばらく、互いの沈黙が交差した。その狭間の中で、巌がなお「ため」を作ってから、こう明かした。

 「……実はな……、一九二〇年、大正九年。まだ気づかないか?」。

 壮一はポカンと無防備な口を開けて、こう呟いた。

 「俺とお前が生まれた年……か」。

 「そう」。

 巌は小声で呟いた。

 「つまり、双子だったんだよ」。

 「うん?……」。

 壮一は狐に包まれたままだ。

 「よく聞け。つまりさ、四番目の子が五番目の子と一緒にこの世に生まれ出たんだ。で、問題は二人とも男だったってことだ。男と女で二人なら問題はない。勘兵衛にとっては、女なら漢字の名前も『あざな』も必要がないからな。だが、男が二人だったから、さすがの親父も戸惑った。どちらを四番目の息子として、漢字の名と『あざな』を与えればいいのかわからなかったからだ」。

 「四番目と五番目……」。

 壮一は怪訝そうに息を吐いた。同時に、その息を一度吸い取るようにしてから、吐き出すように巌が言った。

 「そうだ。まず、昔は双子が生まれると、先に胎内から出たほうを弟もしくは妹、後から出てきたほうを兄もしくは姉と見做すことがあったらしい。先に出てきたのは、後に母親の胎内に入ったほうだと考えたんだろう」。

 「ところが、明治の初めに『前産ノ兒ヲ以テサキニデテキタコヲ兄姉ト定候儀トアニアネトキメタノデ可相心得事ココロエテオキナサイ』(明治7年12月13日太政官指令.)という政府のお達しがあった(この規定は、現在の戸籍法にも踏襲されているという)。この世に先に出てきたほうを兄や姉とせよということだ。だから、病院で双子が生まれたら、医師はその生れ出た順番を正確に書かなくちゃならないわけだ。

 科学的な根拠があるのかどうかは知らないが、先にこの世に出て来たら、先に生を受けたと世間に宣言するようなところがあるから、ある意味じゃ自然な考え方だろう。

 でも、取り上げばばあがほとんどだった田舎じゃ、昔の考え方のまま、お上のお達しとは逆の順で届け出ることが少なくなかったらしい。

 親父は迷った挙句、自分たちのしきたりに従って後から出てきた子を兄と見做して『勘四郎』と名づけ、いろんな意味で異例な出産だったことから、二音ではなく四音で読む、その名も意味ありげな『おそろし』というあざなを贈った。『鵜飼勘四郎・おそろし』だ。それを俗に一音に読み変えて、通称の『』にしたわけさ。

 さすがに上の兄弟との違いが気になったのか、『あざな』のつけ方を上の三人とは変えたんだ。それで上下の判断が正しいかどうかという由々しき気がかりを忘れようとしたんだろう。姑息な、どうしようもない馬鹿なやり方だが、ま、人間臭いと言えば言えるのかもしれない。で、このやり方が、結局、親父の取り返しのつかない『失策』を生んだのさ。

 俺は、勘四郎より先に生まれた。明治政府の言う通りにしていれば、弟ではなく兄ちゃんだ。そうすれば俺は『いわお』でも『巌』でもない、『勘四郎』だったわけだ。

 俺は、『巌』を『いわお』と読ませたのは、勘四郎兄貴の『おそろし』という『あざな』と同じで、本来は、この世は『巌しい』という親父の阿保あほうのような述懐、じゃなきゃ隠れた後悔の、早過ぎる刻印みたいなものだったのじゃないかと思う。子どもにしたら、『いわお』なんて迷惑な命名で誤魔化されるなんて、何とも姑息で卑怯千万な話に過ぎないんだけどな。ともあれ俺は、その後の人生を、『巌』ならぬ『岩郷の岩男』と呼ばれる悪たれとして生きることになったわけさ」。

 そこで話は、中座した。見回りの下士官が顔を出し、明日の訓練と今後についての説諭があり、その後も銃の点検、用具の整理・確認などが行き届かないと決めつけた者への見えすいた嫌がらせや鉄拳といった、執拗な「いじめ」が続いたからだ。――今日はあのしつこいY伍長かよ――と心中囁きながら見ていた巌と壮一も、連帯責任で当然のように殴られて鼻血を流し、肩をすぼめて黙り込んだのである。二人とも鼻血が喉元を通ったが、口から出てくるときには、銃のように濃い鉄の味がした。

 勘兵衛の失策に取り返しがつかなかったわけは何だったのか。そのことについては、戦後になってわたしも母の綾に、問わず語りに何度か聞かされた。要は、これの原因も、区別され差別されるべく予定されていたはずの巌が、勘四郎との双子ツインズだったことにある。

 二卵性の双生児で、勘四郎は鷹揚で仲間内での人付き合いもよいドンとした兄貴分タイプ、巌は「せっかち」で喧嘩っぱやい、近所や学校で「岩郷の岩男」や「岩公」という悪名で知れたいつも動き回っている悪餓鬼タイプと、出来上がった個性こそ正反対だったが、二人は母親と、歳の離れた兄姉たち、とくに勘三と姉の「まゐ」には、一揃いのセットとして可愛がられ、本人同士もよく遊び、よく笑い合って気が合った仲間として育った。  

 中学に入る前から、勘四郎は、巌と自分の立場の違いを感じて、親が準備した自分の立ち位置を喜ぶどころか、窮屈で嫌だったし、巌は巌で、早い時期から、こんな家は言われずともこっちから出て行ってやる、それが農家の(括弧つきの)五男坊さと思い決めて暴れているところがあった。

 巌が徴兵され満洲を志願して、家中の誰もそうとは気づかない実質的な家出を実現すると、まだ徴兵されていなかった勘四郎は、巌のいぬ間に専農の分家の一端を担うことになるのを嫌って、自分も試験を受けて警察官になり満洲に渡ると言い出し、勘当も厭わぬ生まれて初めての父への表立った反発を宣言してみせた。

 そして、そんな勘四郎をかばう母を、三男の勘三が「やむなし」と応援するに及んで、双子の男の子の誕生によって不安に火がついた、四十年以上にわたって紡がれてきた「四方神」にまつわる勘兵衛の孤独な夢は、いとも簡単に瓦解することになったのだった。

 遺産分配についての目論見も、戦後の民法改正によって灰燼に帰した。もっとも勘四郎と巌とは、つい昨日まで自分らの敵国だったアメリカの圧力で、巧みに風向きを変えたお上によって、兄弟均等に与えられることになったせっかくの民法上の権利を自ら放棄するという、本人たちにとっては馬車馬の後ろ蹴りにも等しく気分の爽快な、「恥かきっ子」の底意地を、戦後になって長男の勘太郎相手に見せつけもしたのだったが――。

                 * 

 一九三七(昭和十二)年一月、帝国陸軍省は盧溝橋事件で日中戦争が本格化したことを受けて、憲兵の最下級である憲兵上等兵候補者を全国から募った。兵員増員で緩んだ綱紀粛正のために憲兵の重要度が増大し、その存在が目立つようになったわけだが、これに伴い一般の兵の間でも、憲兵について語られることが増えていた。

 器用で人当たりがよく、つき合いの点では上官にも同年兵にも失策のない構えを守ってきた目端の利く前川壮一は、持ち前のあざといまでの人懐っこさを発揮して、憲兵の職責の仔細はもちろん、彼らの給与と暮らし向き、憲兵同士の仲間内の付き合いなどについて、前後左右四方八方にわたって話を聞き出す機会を増やしていた。それも自分たちを監視する軍務の中での憲兵というより、軍隊の外での生活という側面から彼らの職能に好奇の目を向け、情報を求めることが多かったのである。

 関東憲兵分隊は、満洲の全域に触手を伸ばし、新京・奉天・大連しんきょう  ほうてん だいれん 哈爾賓・斉々哈爾はるぴん チチハルをはじめ、牡丹江・延吉ぼたんこう えんきつ錦州・興安きんしゅう こうあん承徳・海拉爾しょうとく ハイラルなど広範囲にわたって、わりに小人数の分遣隊を置いていた。憲兵は、軍紀にもとる行為や態度を、階級に関わらず律する特別な職能を与えられていたわけだが、兵より戦場での身の危険が圧倒的に少ないのに、待遇は格段によい。比べる対象が悪いと言われると思うが、彼らは一兵卒の扶持が十円にも届かないときに、最低の上等兵でさえ基本給に憲兵加俸、営外加俸などの支給を受けることができたという。

 「おい、憲兵はいいぞ。金も物資も手に入る。われわれと違って、上官や先年兵に無闇やたらと殴られることも少ないそうだ。周囲に恐れられている自分たちの立場についても不安はないから、仲間内の『若年兵いじめ』だって少ないそうだ」。

 そんな壮一の話に疑わしく耳をそばだてる巌に向かって、壮一のダメ押しのヒソヒソ声がかかる。

 「なあ鵜飼、一緒に憲兵試験を受けようじゃないか。そもそも俺たちは中学を出ているんだぞ。せっかくのこの機会に受験しないなんて、勿体なくてご先祖さまにも両親にも申し訳が立たない」……。

 前川壮一の誘いに乗せられて、結局、巌は彼と共に、考えてもみなかった憲兵の試験を受けることにした。「二高で失敗した自分とも、勘兵衛に支配された鵜飼家の自分ともおさらばする」つもりの受験だった。 

 その結果、壮一は落ち、自分だけが合格した。そこで部隊で一番の友人が落ちたのが引け目になって、旅順の憲兵教習所に入る前の僅かな休暇を使い、それまでにも何度か遊びに行っていた哈爾浜の壮一の実家に挨拶に出向いた。

 試験に落ちて、そのまま兵舎にとどまっていた壮一に代わって、迎えに出たのは初対面の壮一の父母、敗戦後に同居することになる前川仲三とコマだった。そして通された応接間で仲三に呼ばれて挨拶に来たのが、十六歳になって間もない哈爾濱はるぴん高女に通う綾だったのだ。

 巌はそのとき、少女のような幼さと、年に似合わぬ奔放な派手さが同居する綾を、得意のチラ見で一瞥した。結婚してから綾がそのときの目付きがいやらしかったとなじると、「あのときは、床の間に飾ってでも、傍に置いておきたいと本気で思った」と、正直に告白したそうだ。本人にすれば、そのときは大真面目なだけで、別に他意はなかったのだろう――。

 最後に、記述に多少の重なりはあるけれど、以前、わたしが書いた父についてのSNSへの書きつけを抜粋してあげておく。わたしが幼いころに、息子として感じていた父の不可解な印象の一端を、予め知っておいて欲しいと思うからだ。

「父のこと」

 父の子どもの世話は、しばしばスタンドプレイだった。前日に無理を言って予約した会社近くの行きつけの理髪店に、小さなわたしを出社前に連れ出し、寝起きでハリネズミのように逆立っている我が子の癖っ毛に、大人用の「アイパー」を当てさせてから、会社の黒塗りの車を使って、遅刻ギリギリで学校に送り届けるなどということが再三起きた。低学年のときのことで、父の力づくのやり方に、子どもなりの強い反発を感じたものの、その勢いには抗えなかった。

 登校前に忙しく追い立てられた挙句、朝から開店前の床屋に行かされ、熱い「アイパー」のコテを当てられて――あの溶けるポマード独特の水っぽい匂いは、床屋の客席の椅子に横たわって見た、くっきりとした朝日の影や、父の大人の匂いと重なって、あのころの自分の意に反して、今では妙に懐かしくもあるのだが――。

 車の中で、外を歩く級友たちの視線を浴びながら登校し、恥ずかしくて声も出ないような思いを、どうしてしなければならないのか。――うちには電話もないのにと、人並みに歩いて登校している、羨ましくも電話のある家の子が、車窓から垣間見えたりすると、何とも恨めしく理不尽な思いが頭をもたげるのだった。昭和三十年代の半ばのことで、家族が都合七人もいたので、うちの生活は見かけほど楽ではないと、四歳上の姉によく聞かされてもいたのだ。

 従弟の林太郎と二人お揃いの、格子柄(ギンガムチェック)の上着とベストに臙脂色えんじいろの蝶ネクタイ、冬でも半ズボンにガーターでとめた白いストッキングという、父お気に入りのお出かけ着も気恥ずかしかった。お仕着せのベレー帽をあみだに被り直して、普段は「継ぎ」を当てた長ズボンのときだってあるのにと、林太郎と比べて自分に似合うとはとても思えぬ恰好を、恨みがましく思っていた。

 一九六四(昭和三十九)年の東京オリンピックを控えた経済成長のとば口にいたときだから、国中がそういう背伸びした空気に満ちていたのかもしれない。でも、猪突猛進だろうが何だろうが、父の強引な足腰の軽さには、とうとう馴染まず仕舞いだった。

 もちろん、馴染めなかったことだけではない。暑い夏の日曜の朝などに、誰かが「わらのストローで冷たいジュースを飲みたい」などと言い出そうものなら、「よし、探しに行こう」と子どもたちに声をかけて、自転車を連ねて新潟の繁華街を走り回ったりもした。会社がないたまの休みの日などには、朝に突然、「今晩は、立ち食い寿司にしよう」などと言い出して、シャリ、ネタ、その他の準備に動き回り、応接間の和風テーブルを寿司屋のカウンターに見立てて、一人だけテーブルの向こう側に陣取り、職人気取りの立膝で、やおらシャリを握り始めたりもした。

 そういう時はせわしい中にも余裕があって、愛想もとてもよく、無理をしている気配などはどこにもないのだった。「今日はお母ちゃんと婆ちゃんの慰労会だ」と宣言して、和服に割烹着をつけて、好きだった初代・若乃花が出ている相撲中継が流れる茶の間と台所のあいだを、天婦羅用の菜箸を手に、小走りに行き来していたこともあれば、満洲風の本物の八宝菜(パーポーツァイ)が食べたいと、干しあわびや干し海鼠なまこを探して、林太郎とわたしを従え、繁華街を朝から自転車でさがして回ったこともあった。そうやって家族が喜ぶのを嬉しがる、単純で人のよいところも、十二分にあった。

 夏には家風呂より好きだった銭湯に、夕方から爺ちゃん、光矢、林太郎を率いて繰り出し、帰り道に行きつけの氷屋で、婆ちゃん、お母ちゃん、蓉子の留守番三人組を含めた七人分の氷を注文すると、丁度家に帰り着く日没の頃に、自転車でお盆に色とりどりの氷水を乗せた氷屋のおじさんが、追いついてくるのだった。

 敗戦後にシベリアに抑留され、三年後に帰還兵となってからは、兄・勘四郎が始めた仙台の魚屋を手伝い、その後、保険会社の営業マンに転身して、お茶汲みの女の子を除けば社員が自分一人だけの支部長になり、当時、盛んになっていた企業相手の団体営業に力を発揮して出世の入り口にしたのだという。その後、母の兄弟を尻目に、初対面以来、妙にそりが合っていた義理の親夫婦、預かっていた自分の甥と一緒に暮らし、仙台から新潟に移って、私が八歳のときに四十二歳で命を閉じた。脳溢血だった。一九六一年のことで、六四年の東京オリンピックのころには東京本社に移っているはずだから、一家でオリンピックを観に行こうと常々話していた。漬物を当てにして冷や飯をかき込むのが好きな、酒の呑めない田舎出の人だったが、わたしや従兄の林太郎が成人したら、連れ立って赤提灯で一杯飲ることを楽しみにしていたそうだ。

 そういう父だったが、自分の来し方を語ることはほとんどなかった。幼年時のこともそうだし、憲兵として過ごした満洲の軍隊生活のこともそうだし、抑留されたシベリアのこともそうだ。話してくれたのは、ほとんど食べ物のことだけだったし、わたしには、わたしと同世代の多くの者がそうであるように、戦争に行った父親の日常の細かなエピソードを、ほとんど聞かないままで育ったという思いが強い。そのことと、ときに子ども心に、父に「隠れた無理」があると感じたこととの間には、何か曰く言い難い繋がりがあるのではないか……。ろくな覚悟もなしに、かけがえのない肉親の昔のあら捜しをするなんて、仔細承知の上で拭えぬ大罪を犯すようで、少なからず怖いのだけれども…。

 昔、芝居に夢中で、中学生向きの補習塾の講師をしながら生計を立てていたときの年上の同僚に、「軍人として成功した人はいずれにせよ優秀で、戦後も結局、勝ち組のことが多いんだよね。君のお父さんもそうだったんだ」と言われ、確かに当たっていると思わないではなかった。しかし、それを言うだけでは圧倒的に足りないと、いぶかしく思ったことを覚えている。 

 

2. あやが背負った十字架

  前川綾は、一九二五(大正十四)年、満洲一の「炭の都」遼寧省・撫順れいねいしょう・ぶじゅんで「満洲での日本の子」として生まれた。綾が彼の地で入学した小学校の女先生によれば、市街地の南に位置する撫順炭鉱は、危険な坑道がない大がかりな露天掘りで世界的に名高く、その昔、高麗の人たちによって採掘が始まったのだという。当初は陶器製造のために使われていたのだそうだ。

 近代になってロシア資本が進出、東清鉄道に加えて哈爾濱と大連をつなぐ南満洲支線を建設した後に、奉天(現・瀋陽)-撫順間の支線が加わり、ロシアは中国の行政権と司法権が及ばない「鉄道付属」と称する治外法権の地域を得たらしい。

 しかし、日本がやっとの思いで勝利した日露戦争が終わった一九〇五(明治三十八)年、アメリカが仲介したポーツマス条約によって、長春―旅順間の鉄道は、付属地ごと日本のものになり、二年後の一九〇七(明治四十)年には満鉄が管理するようになって、急速に新市街が建設されたという。

 ここに「満鉄」、すなわち「南満洲鉄道」による、乱暴で気ぜわしい近代日本の支配が始まったのだった。石炭をじかに掘る露天の大規模な採掘は、満鉄全体を支える大きな財源で、繁茂する人工栽培のエノキのように、急速な発展を続けた撫順の市街地は、崖を崩すダイナマイトの音が遠くに聞こえるなか、意外なことにほど近い奉天よりも空気が綺麗で、レンガ造りの多いホテル・病院・各種社宅などからなる新市街は、都会的で見るからに垢抜けており、人口は満鉄の附属地で最大に及んだという。

 父親の仲三は、東京の岩倉鉄道学校の土木科に入学すると、校舎から大陸の方角に臨んで、開戦当初の日露戦の進展を、一人息を凝らしながら思いやることが、しばしばだったらしい。

 卒業後に「国有鉄道」を経て満鉄に職を得、海を渡って奉天で奉職、知人に誘われて出かけた大連の宮城県人会で同郷の須崎コマを紹介され、「奉天―大連」間の二年の遠距離恋愛を経て結婚。長男・壮一、長女・光子てるこの二子をもうけ、一九二二(大正十一)年四月になって、オイル・シェールの工場があった当時の日本にとっての「希望の町」、エネルギー豊かな撫順の地にやってきた。

 この年は、満鉄が経営した大連・旅順・長春・奉天にある各ヤマトホテルが、顧客の送迎を馬車から自動車にし、六月にそれまでの車馬部を自動車部に切り替えた年で、奉天とのお別れにヤマトホテルの貸別荘に一泊した仲三一家は、切り替え前の特例扱いで、満鉄差し回しの車を使って、勇躍、スチームによる集中暖房装置や水洗トイレなどが整った、内地にはないモダンな撫順の社宅へと向かったのだった。

 その十年以上前の一九〇九(明治四十二)年に、旧学友の満鉄総裁・中村是公よしこと(通称:是公ぜこう)の招きで撫順を訪れた作家の夏目漱石は、その紀行文『満韓ところどころ』*1に、こう書いている。

 貯水池の土堤どてあがると、市街が一目に見える。まだ完全にはでき上っていないけれども、ことごとく煉瓦作れんがづくりりである上に、スチュジオ*2にでも載りそうな建築ばかりなので、全く日本人の経営したものとは思われない。しかもその洒落しゃれた家がほとんど一軒ごとにおもむきことにして、十軒十色といろとも云うべき風に変化しているのには驚いた。その中には教会がある、劇場がある、病院がある、学校がある、坑員の邸宅は無論あったが、いずれも東京の山の手へでも持って来て眺めたいものばかりであった。松田さんに聞いたら皆日本の技師のこしらえたものだと云われた。                

 市街から眼を放して反対の方角を眺めると、低い丘の起伏している向うに煙突の頭が二カ所ほどかすかに見える。双方共距離はたしかに一里以上あるんだから広い炭坑に違(原文ママ)ない。松田さんの話しによると、どこをどう掘っても一面の石炭だから、それを掘尽くすには百年でも二百年でもかかるんだそうである。 

                 *

 綾はこういう豊かさの中で生まれ、小学校に上がった。しかし、はっきり覚えているのは、休み時間、もしくは見張る大人がいない自習時間などに教室を抜け出し、驚いて目を丸くする級友たちを尻目に、冒険を共にした大河原公子おおがわらきみこちゃんと二人で出くわした、屋上からの撫順の町の展望ぐらいだという。公子ちゃんは、その後、転校して行ったが、八年後に哈爾濱高女で再会し、戦後にも仙台で何度か会っている。友と言うより、甘酸っぱい不良の匂いがする冒険仲間と言うほうがふさわしい間柄だったようだ。

 「お金持ちの家の子でね。小学生なのに、持っている今風の洒落た巾着の中にお札が束で入れてあるのよ。馴染みの小父さんや小母さんがいる、行きつけの喫茶店や食堂でよく御馳走してくれたけど、いくら奢られても平気だったわね。人間って、相手との違いが桁外れだと、嫉妬も反撥も感じなくなるのね」。

 そんな友人と二人で見た「消えない火」と言われたオイル・シェールの燃える炎が、眼下の蒸気機関車の吐く黒煙や白い水蒸気と重なりあう光景は、まるで赤い舌を出し、目にだいだいの炎を滲ませてにじり寄る大蛇のようだったという。ほかに記憶にあることと言えば、幼い弟の知巳を揶揄からかって「あんたは巳年の生まれだから、おチンチンが蛇みたいに細長いの」と面白がり、ついでにぷっくりと可愛い頬っぺたをつねって、泣かせたエピソードくらいのものらしい。

 これには、後の、わたし達息子夫婦と同居した八〇年代に、病に重なる老いの足音を聴きつつあった本人が、いよいよ逝く前になって「どうしてそんなつまらないことしか憶えていないんだろ。わたしは、小さなときから、いつでもそんな調子だった」と再三聞かされた話を繰り返していたのを思い出す。「そんな調子」という言葉には、「気ままな子どもらしさ」とでもいった肯定的な含意があり、そこにしたたかな自恃が見え隠れしていたように思う。

 問わず語りのたいして意味のない呟きだったのかもしれないが、これは息子に息子らしい反応を言わずして要求する、父の死後によく見せた寡婦的な振る舞いの一つでもあって、その気になって訊きただせば、意外に深い事情やら心情やらを聞けたのかもしれないが、そのときは、ただ疎ましく聞いていただけだった。

 ともあれ、撫順は、仲三の栄転先だった都市として、祖母や綾から、その名を頻繁に聞かされたが、当時は幼かった綾にとっては、土地の臭いや空間の感触に、幼かった「からだ」ごと結びつくような印象は、あまりなかったのかもしれない。

 考えてみれば、それも無理からぬ話で、小学校に入って一月もせぬ一九三一(昭和六)年の五月に、仲三に再び辞令が下り、前川一家は、今度は奉天より北にあるロシア人たちが基礎を造った「国際都市」哈爾濱に移り住むことになったのだった。

 綾たち家族が哈爾濱に移った一九三一(昭和六)年の九月十八日は、関東軍の高級参謀だった板垣征四郎いたがきせいしろう石原莞爾いしはらかんじ*3ら、下剋上を体現したと言われた佐官クラスの軍人たちの策謀によって、奉天にほど近い柳条湖の付近で、日本人(関東軍)の手で日本が経営する満鉄の線路を爆破するという奸計が実行に移され、自らの悪業を浪花節的にでも正当化できるならまだしも、これを中国軍の犯行と偽って公表、中国軍の動きに幻の正義をかざして断固対抗するという、愚策なのか労策なのかは知らぬが、ともあれ世紀のはかりごとを弄し、目論見通りに「満洲事変」を開始した日だ(ちなみに、当時は浪曲家の二代目・広沢虎三の全盛期で、幼い綾は家族で一番の虎三ファンだったという)。

 ともあれ満州事変直後の二十二日、関東軍が主張した日本の満洲領有計画は、これを危惧した本土の陸軍首脳部の手で独立国家樹立という、より穏便でより狡猾な、結果的にはより稚拙だった案に変更され、石原らに溥儀ふぎを首班とする親日国家を樹立するよう言い渡す。

 これに対して、石原らは国防を日本が担い、鉄道・通信などの管理も日本が行うのなら満蒙を独立国家とするもやむなしという妥協とは言えぬような妥協策を出してこれに応える。満州という独立国の国防を、外国の日本が担うということ自体に彼らのあからさまな本音が滲む、何ともあけすけな構想だが、現地ではすでに関東軍の画策によって、複数の中国の有力者に、各地に着々と親日政権を樹立させていた。

 翌一九三二(昭和)七年二月、奉天・吉林・黒竜江省の現地の要人が関東軍司令官を訪問して満洲新政権に関する協議を開始、同十六日に奉天で東北行政委員会が組織されると、十八日には早くも「東北省区は完全に独立せり」と、満洲の中国国民党政府からの分離を謳った。

 この勢いに乗って月が変わった三月一日、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀あいしんかくらふぎを執政とする満洲国の建国が宣言される。元号は大同、首都として長春が新たに新京と命名されるという、日本の手による、後に中華人民共和国と中華民国に偽満ウェイマン*4と蔑称されるに至る、今の目で見れば生い立ちからして不実な腐臭を隠し切れない、傀儡国家が成立したのだった。

 概ね、以上の勢いに乗った数多くの狼藉と、それ以後に重ねた蛮行の堆積とに、逆にそそのかされて、事態は進んでいく。

 私見による妄言を吐けば、錯誤だらけの聞くに値しない妄言だと馬鹿にされることを承知の上で言うのだが、たとえば戦後に、愚かな十五年戦争の発端となったこの九月十八日を、「柳条湖事件の日」或いは「十五年戦争開始の日」とでもして、国家的な記念日ないしは祝日化を行い、さしづめ敗戦後に「一人内閣」を組閣する胆力を見せた石橋湛山*5、もしくは戦争中に黙々と『暗黒日誌』をつけていた清沢洌*6、あるいは病床にあって特設された東京裁判の山形・酒田での出張尋問に、弟子に引かせたリヤカーで乗り込み、判事に「どこまでさかのぼって戦争責任を問うのか」とかつての敵国の裁きの方針を問い糺し、「日清・日露・戦争まで遡る」との返答を得ると、「それなら、ペルリ(ペリー)をあの世から連れてきて、この法廷で裁けばよい」と一億総懺悔の時代に抗し、「最大の戦犯は原爆を落としたトルーマンだ」という独断と共に、反時代的な反アメリカの言辞を吐いて憚らなかった、「偽満洲国」を産んだ張本人の一人でありながら、おそらくアメリカの深謀もあって戦犯から外された石原莞爾などがいたとしても、敢えて排除はすまい。さらには、日米開戦に際して「天の岩戸開く」*7の言葉を、シンガポールの陥落に当たっては、今では同情を禁じ得ないような夜郎自大なエッセイ*8を残しながら、戦後にわたるしばしの沈黙の後に「反戦」に転じたと思しき作家・志賀直哉、戦後に『砕かれた神―ある復員兵の手記』『私の天皇観』『戦艦武蔵の最期』などを書き切った一少年兵だった渡辺清*9などもいいではないか、さらに、たとえば、こうの史代*10が敗戦後六十三年目に、『この世界の片隅に』(二〇〇八/平成二十年)で描いてみせた、主人公が敗戦時の玉音放送を聞いたときの光景、広島の呉に住む近しい間柄の五人の主婦たちが、口々に「ハー 終わった終わった」、「広島と長崎へ新型爆弾も落とされたしの」、「ソ連も参戦したし まあ かなわんわ」と玉音放送を聞き終えたラジオを前に、気が緩み安心して次々に本音をもらすなか、「……何で?」、「そんなん覚悟のうえじゃないんかね」、「最後のひとりまで戦うんじゃなかったかね」、「いまここへまだ五人も居るのに!」、「まだ左手も残っとるのに!!」と、爆撃で失くした得意の絵筆を持つ利き手の右手ではなく、残った左手の拳を握りしめ、「この国から飛び去ってゆく正義」に向かって、「暴力で従えとったということか」、「じゃけえ暴力に屈するというわけか」、「それがこの国の正体かね」、「うちはこんなん納得出来ん」と仰ぎ見る青空に向かって激しい怒りと嘆きをぶつける誰よりも年少の主人公・「すず」の魂を相応に理解できさえするなら誰でもよい。相当数存在したはずのそういう「畏怖する心」を失わなかった人たちを先頭に、「歴史にイフ(もしも)はなし」などとどこかで聞いた風な納得はせず、なけなしの五分の魂を恥じらうこともなく、あの自らをも刺す十五年間を嫌でも根掘り葉掘り、どの方角からでもよい、自らの暗愚を掛け値なく振り返るくらいの乱暴な度量が、戦後の日本にもう少し顕現していたならばと、ただただ上からの指令で繰り返すばかりだった自分たちの愚行を底深く知り、意識化し、そしてこれをさえぎる道端の虫のような地を這う思考を、単なるレトリックとしてではなく、愚直に繰り返す現実的な筋道と、それに自ら飛び込んでいく無粋なまでの胆力、そしてその水路を作る無私の心のようなもの、それらがもっともっと表立ってあってほしかったと、母や親族たちのためだけにではなく、この国と自分のために切実に思う。いつ始めてもそれは遅くはないと、戦争を知らぬ者の無責任に甘んじている日頃の自分を棚に上げてでも、敢えて言い募りたいのだ――。

 ともあれ満洲の建国は、中途半端に隠されていた関東軍の本音を白日の下に曝け出し、その後もこの種の仕組まれた錯誤ともいうべき事件化しない戦争犯罪が、非人道的という言葉にさえそぐわないチグハグな高揚感と場違いの正義感とを背景に、ごく無造作に実行され隠蔽されて、連綿と引き継がれていくことになる。

 巌が志願し合格した軍隊内部の綱紀粛正を旨とした憲兵隊は、その実質的な尖兵であり、中核をなす組織の一つだった。

 日本はこの頃から、他人の家へ土足で踏み込むに等しい満洲への欲望を生々しいまでに顕在化させ、中華民国の「五族共和」を換骨奪胎したかのような「五族協和」なる虚妄、それが言い過ぎならば、幻の善意を被った実質的な偽看板、良くても鈍感な思い込みに過ぎなかった建前に煽られて、一九四一(昭和十六)年に始まる、長い目で見れば悲劇的で、遠くから見つめれば滑稽でもあった日米開戦という、世界に向けての息苦しく、井の中の蛙にも等しいファンタジーにもてあそばれる道を、支配層の多くが繰り出す抑圧的な詭弁を受け入れざるを得ない空気の中で、国家と国民まるごと、当初はたとえば志賀直哉の例のエッセイに読み取れるように、スキー下手が下手の横好きよろしくオリンピックのダウン・ヒルにでも参加したかのような夢見心地で、しかし意識下ではおそらく多くの人が感知していたに違いない断崖絶壁に向かって、なす術もなく猛スピードで滑り落ちていた。丁度、勘四郎と巌という双子が生まれた直後の、鵜飼勘兵衛がそうだったように。

 綾たち前川一家が哈爾濱に移った一九三一(昭和六)年とは、そういった悲喜劇の始まりをなした柳条湖事件が起き、満洲事変が始まった年であり、そういう運命の潮時が、日本にかりそめの絶頂期を与えつつある年でもあった。もちろん綾は、支配階級に他ならない多くの都市部の日本人たちに倣って、そんなことは微塵も思わず、やがてその代償を払うことになる見えない国家的な罪科のマントに包まれて、決して永続しない平和を装った豊かさのなかで、暢気のんきに平和に育っていた――。

 戦争を語ることがなかった父を、早くに亡くした蓉子とわたしにとって、幼い時から母や祖母に聞かされてきた満洲は、ほとんどが戦争の遥か彼方にある(と錯覚して怪しむことがなかった)、日々の暮らしに関する身の回りの情報に限られていた。

 「哈爾濱は、日本で言ったら緯度が稚内くらいに当たるらしいのよ。大陸のど真ん中だし、そりゃあ寒いなんてものじゃない。よく言われるけど、風呂上りに濡れタオルを肩にかけて戸を開けたりすると、みるみるピーンと、立ったままで凍っちゃう。

 それで、冬は松花江しょうかこう(スンガリ)に分厚い氷が張る。キタイスカヤの繁華街を抜けて自然のスケートリンクができているスンガリの河岸にいくと、氷を割って寒中水泳をしているロシア人たちの水着姿なんかが見えて、歓声が聴こえてきたりするの。

 満洲の春の待ち遠しさを口にする人が多いけど、それはそれとして、わたしはスケートが楽しくて、冬が終わるのが寂しかったなぁ」。

 これも戦後のこと。既に寡婦になっていた綾が、脇に置いた火鉢の上で、炭火でお湯を沸かす鉄瓶がしゅんしゅんと音を立てるなか、足元に練炭を入れた炬燵を囲み、そんな子どもながらにエキゾチックに感じる話をしながら、合成樹脂のつるつるした炬燵板に両手の人差し指と中指を立て、それをスケート靴を履いた男女一組のアベックに見立てて、四本の脚が互いに近づき絡まりあったと思うと、また離れてという具合に、「スケーターワルツ」の鼻歌混じりに、上手に滑らせる。その愛嬌たっぷりな指の動きにつれて綾の肩が上下するのに合わせるように、十二歳の蓉子と八歳のわたしがそれぞれの想像を広げ、傍らには「ままこ」*11の林太郎が興味深げに寄り添っている。そんなことが新潟でもあったし、巌の死で仙台に戻り、林太郎が欠けた仙台の二軒長屋の自宅でも、その後に同居した慎二の家の、練炭が電気ヒーターに変わった炬燵でもあった。

 話題は盛り沢山だった。たとえば、哈爾浜駅で何度も見たという大連と哈爾賓をつなぐ高価なパイプのようだった「特急あじあ号」の話、ホージャー(小さな馬の馬車)、サボール(中央寺院)、ダーチャ(ロシア語で「別荘」の意:多くの金持ちが、初夏から秋までの週末を過ごす菜園付きのセカンドハウス。哈爾濱では松花江に浮かぶ「太陽島」に多かったらしい)などの話。松花江に架かっていた大きな鉄橋と通り過ぎる列車音の話。さらに亡命ロシア人=エミグラントの友人宅で饗応もてなしてくれたクリームの入ったコーヒーやジャム入りの紅茶(ロシアン・ティー)、近所付き合いをしていたタチアーナのいるロシア人家庭で教わったカスタードクリーム――これを日本風にアレンジした「カスタード餡子」なる我が家流の菓子、と言うより「食べ方」があって、後に「せんり」で食べさせてくれたことがあった――の話。さらに、一揃いの玩具のような茶器セットで呑む清茶チンチャー白茶パイチャー、そして食後に飲む甘く感じた白湯さゆの話(「このお湯は甘い」と言って楽しむと聞かされた時は、小さなカルチャー・ショックがあった)。カルパスやクラコーといった大蒜が薫るロシア風のサラミの話。街角で中国人や満洲人が売っているサンザシ団子や南京豆の話。涼菜リャンツァイ(中華風のサラダ)や豚饅頭(日本人が餃子に使った別称)や春餅シュンピン(春巻よりやや大振りの皮で、野菜や焼き豚などの細切りの具を巻いたもの。立春にたべるのでこの名があったという)、包子パオズ(肉まん)といったファーストフード風の料理の話。金華ハム(浙江省金華地区原産の主に野菜類で育てられた脂肪が少なく加工に適した金華豚で作られる「世界三大ハム」のひとつ)や干し鮑・干し海鼠といった中華料理の素材の話……。これらが食欲を誘い、思わず唾を呑む体験談として語られると、その面白さは、家で母親や祖母が作る家庭料理でその味の一端を知っていたから、子どもごころにも格別だった。

 食い意地の話だけではない。少し変わったところでは、彼女が女学校のときに考えた、もし松花江の水が汚れたら、一振りで元に戻す薬を発明する。もっと勉強を頑張れば、将来は本当にできるかもしれない、そして何かの賞を貰ったら軍人さんや兄姉弟きょうだいたちやいろんな人たちに分け前をあげるという夢物語などの話もあった。

 「一割くらいは、本気だったのかなぁ。だとしたら、ほんとに間が抜けてるわよねぇ」。「間が抜けてるどころか、それはホンマモンのお馬鹿さんだよ」と笑う子どもらの声が楽しかった。

 ここでもう一つ、市井の人、とくに満洲国で生まれた日本人には忘れようのない、ほぼ日本人が企んだと思われる満洲国のある実情について触れておきたい。先に、綾は「日本人」でも「満洲人」でもなく、「満洲での日本の子」として生まれたと書いた。それは満洲国には国籍法がなかったことに由来する。自分が生まれた故郷として、生涯にわたって忘れずに守っていたかったはずの生地・撫順、或いは育った場所・哈爾濱に代表される、彼女にとっての「満洲」は、その国の国民としてわが身の同一性を託す手立てが予め封じられていたために、嫌も応もなく日本からの植民者だった父母に聞かされた「帝国日本」に、抽象化された自分の祖国を見出すしかなかった。

 ということは、その満洲ならぬ「祖国日本」は、最初からその幾分かが「幻の故郷」、「偽満ウェイマン」ならぬ「偽日本ウェイニホン」として運命づけられていたに違いない。それは、知らざる「偽日本」ではなく、目の前にあるほかならぬ満洲を愛しむ、「偽日本」の子どもたちがいたということであり、壮一や光子、綾と慎二、末っ子の知巳もまた、本人たちの意識とは別に、多かれ少なかれ、皆その一人に他ならなかった。大人に教えられることに必ずしも従順ではなかった慎二と綾とは、ことにそういう意識を隠し持っていたのかもしれない。

 満洲国に国籍法がなかったのは、二重国籍を認めない大日本帝国との関係が要因だった。日本からの入植者が、もし「日系満洲国人」になるのだとしたら、彼らは日本国籍を放棄せざるを得ない。そうなれば日本人の入植者は激減し、「満蒙開拓」、「五族協和」、「王道楽土」といった自家中毒的な甘言で満洲移民を奨励した、当時の大日本帝国の国策に支障をきたす。このため、日本人が満洲国で出生した場合、満洲国にいる日本の特命全権大使(軍人である関東軍司令官が兼務していた)に届け出れば、大使が内地にある両親の本籍地に回すことで、内地の戸籍に日本人として登録されることになっていた。

 つまり、綾たちの戸籍は、敗戦で引き揚げるまで本人が見ることができなかった親の国外にある本籍地で作られていたのであり、その事情は満洲で結婚しても寸分の変わりもなかった。

 わたしは、遥か後の一九九〇年代に、たまたま入手した祖父・仲三の戸籍に「次女・綾 大正十四年 撫順で誕生」という趣旨の無機的な記述を見たことがある。そして、彼女が持っていた、そうした境涯に起因する或る個人的な歪みのようなものを感じながら、わたし自身の感情の持って行き場が見あたらず、困ってしまったことがある。

 今では、その本名を知る術がないが、哈爾濱時代に、ボオイと呼んで住み込みで雇っていたという、中国人の双子の少年たちに関わることだ。

 「太郎」と「次郎」という日本名をつけ、「今思うと、南極の犬みたいな名前だったわね」*12と悪気なく話し、当時は十歳ほどの当人たちに「あなたたちの旦那さまも双子なのよ」と言って可愛がっていたという。素直でものわかりがよい子らで、「終戦で別れるときには、もう少しよくしてやれればよかったのだけど、その余裕がないのが悲しくてねぇ」と話していた。

 呼ばれる当人たちのことを思えば、太郎、次郎とペットのように可愛がられても、嬉しくない場合も多かったろうにと、わたしは、彼女の意外にあけすけな鈍さに応える術を失った。たとえそれが、強いられた鈍さだったとしてもだ。

 綾が小学校一年生で撫順を離れて以来、少女期と青春期を過ごし、年若い結婚を経て出産を経験し、敗戦までを生きた哈爾濱も、その意味では本来の故郷ふるさとではなかった。故郷と意識して育ったとしても、後にその土地から引き剥がされたわけで、その結果、おそらく満洲で生まれ育った多くの「日本人」がそうだったように、《幻》の故郷=内地では、引き揚げ者として陰に陽に迷惑がられ、軽んじられた経験さえあったかもしれないのだから。

 彼女は、自分のことを「根無し草」と折に触れて強がってみせた。それは自分で選んだわけではない精神的な「さすらい人」のスタイルに、知らず知らずのうちに自分を仮託させられた、満洲という土地に生まれ合わせた者の多くに共通する、人生の実感の一つだったような気がする。

 そういうわけで、綾にとって幼時からの記憶が煌めく、思い出深き街である哈爾濱は、おそらく同時にやる瀬なさに満ちた痛恨極まりない喪失の都市でもあったわけだが、彼女の後半生、ことに巌が死んだ後の時間を、分厚い曇り空のように覆っていたアンビバレントな気分の、遠くて近い一因となった哈爾濱について、ここで再び時間を駆け昇って、少し俯瞰的な目で押さえておきたいと思う。

 日清戦争が日本の勝利で終わった一年後の一八九六年に、日本の進出に備えた「露清密約」なるものが締結された。これによってロシア帝国は満洲の権益を増し、二年後の一八九八年、満州を横断する東清鉄道の敷設を開始する。こうして交通の要衝として発展した哈爾濱には、ロシア人を中心に人口が急増し、ロシアらしい風趣に富んだ石造りの街並みが形成された。

 この街並みは、一九〇〇年に日本とロシアを含む欧米列強に対して、西太后が君臨していた当時の清と、「扶清滅洋」を標榜する宗教結社・義和団とで起こした北清事変(義和団事件)で、一度は弱体化する。が、翌一九〇一年、早くも再建が開始され、ロシアの進出は郊外にまで及ぶことになった。

 次いで一九〇四年に日露戦争が勃発、翌一九〇五年九月の日露講和条約で、日本は東清鉄道と南部鉄道線の経営権を得、日本領事館が設置された哈爾賓は、日本人の居住を合法とする「開放地」となった。これに対し、翌一九〇六年には清朝が哈爾濱に正式に駐在することを決め、一九〇七年に哈爾賓を対外交易の拠点とすると同時に、行政権の強化を図る。

 これに対抗したロシアが、一九〇八年に極東における自由貿易港廃止を決定して外国商品に高い関税を課すと、ウラジオストックから哈爾賓に拠点を移す企業が現れ、哈爾賓における中ロ日その他の複雑な呉越同舟状態は、度を増すことになった。

 ちなみに哈爾濱駅で日本の枢密院議長・伊藤博文が朝鮮人の英雄・安重根アンジュングンに暗殺された一九〇九年には、ロシア系の「チューリン百貨店」が、大直街に進出している。

 ここでもう一度確認する。綾は一九二五(大正十四)年、満洲生まれの満洲育ち。満年齢が昭和の年号と重なることを、自分の生きた時代を語る目安にしていた。哈爾濱高女を出て、敗戦の前年の昭和十九年に十九歳で結婚。敗戦後は、憲兵だった夫がシベリアに抑留されたため、二十歳そこそこで乳飲み子の長女・紘子を抱え、日本の仙台へと引き揚げた。つまり、引き揚げ先が自分の心の故郷ではなかったことに加え、崩壊した己の本来の故郷からも引き離されるという歴史の無慈悲に出くわした上に、引き揚げで運命をともにし、複数の子を失くした義姉の絹代きぬよと同じく、お腹を痛めた自分の長女を、引き揚げ途上に栄養失調で亡くすという地獄を味わっている。

 そのためかどうかはわからないが、丙午ひのえうまの女だった義姉と同じく、彼女には「すじ」を通すと言うより、決して「我」を譲らない童女のような頑固さと、内に秘めた執拗な持続力があって、とくに雄弁だったというわけではないのだが、ときに満州について、パラドキシカルな誇らしさにも聞こえる物言いを繰り返し、シベリアからの帰還後にサラリーマンとして成功した巌に連れ添った時期も、そして巌が早逝して四半世紀近く続いた未亡人生活のなかでも、生涯、その性向を守って失うことがなかった。

 「大陸育ちの根無し草」という彼女の常套句には、「故郷を含めて、守るべき何ものも持たない」と自覚していたからこそ身につけた「夢見る人」的な危うい自由さ、或いは「自由」に対する少女っぽくて代償行為めいた倫理感のようなものが、死ぬまで自意識の片隅にあったことが示されている。

 つまり、折に触れて見せた「我」の強さにも関わらず、ときにはそこから躊躇いもなく跳び立ってみせる「開放的」、あるいは「野放図」な「物見高さ」や、「天衣無縫の無知」、加えて「乙女のごとき恋心」などを、自らの子に向けても躊躇うことなく見せる人でもあったのだ。

 要は、社会生活に欠かせないと人生半ばで自ら課した、未亡人としての自己抑制的な見かけの裏で、ときに、自分で感知や制御のできない(満洲由来と言ってもいいかもしれない)「奔放さ」が疼いていたのかもしれない。

 そんなことを考えるようになったのは、自分も還暦を過ぎ、やがては前期高齢者と呼ばれるようになった、せいぜいこの五、六年のことだ。不肖の息子だと自認しているわたしが、今ごろになって腑に落ちたことについて、どうこう言うつもりはない。ただ、彼女に欠けていた「社会性」の無さの少なくとも一部分は、(満鉄の初代総裁だった後藤新平が言った)「文装的武備」*13、また柳条湖事件の後は、「関東軍」の支配で成り立っていた満洲という壮大な国家的虚構の、悲しき陰画のような側面があったこと、そしてその弱点は同時に彼女の魅力をも引き出す力を持っていたという皮肉な事実を、オレの家族をどうしてくれるという遅すぎた呟きからだけではなく、幾許かの人間的正義や真実もあっただろう大文字の歴史の一頁の、皮肉に満ちた小さな欠片かけらの一つとしても、記憶のなかに残しておきたいと思う。

 そう言えば、彼女が好きで使った表現に、「ゆかしい」という言い方があった。「『ゆかしい』って言葉は、心がそこに行きたいから、言うのじゃないのかしら」と言うのを、何についてかは忘れてしまったが何度か言うのを聞いたことがある。彼女は、果たして死して「ゆかしい」場所に行ったのだろうか。今となっては、行ったことを祈るばかりなのだが。 

 

3.仲三の憂鬱                                                                                               

 蓉子とわたしにとって、母方の祖父・仲三は、自分たちが生まれてから本人が死ぬまで、両親と祖母・コマと同じく一度も離れて暮らしたことのない人だった。にもかかわらず、わたしたちには、彼と一緒に暮らしたという印象が薄く、後に大人になってからも、亡くなった爺ちゃんについての折り入った会話は、伯父の慎二との僅かな話を除いて、ほとんど誰とも交した覚えがない。

 蓉子は、小さな頃から「お婆ちゃん子」で育ち、成人した後にも、折に触れて湧き上がる「コマさん好き」の思いは消えることがなかった。これには、戦後に生まれた伯父の勘四郎夫婦の子・林太郎を、乳飲み子のときからいわおが預かる事情があった上に、勘四郎との戦争(とくに引き揚げ)を挟んだ恩義があったことと、意固地でときには奔放でもあった綾が、珍しくそんな巌に準じたことのあおりを受けた、「瓢箪からコマ」という一面があった。

 と言うのは、思い込みが激しく不器用なところがあった綾が、年長の我が子二人は好きに遊ばせ、血のつながっていない幼い林太郎を胸に抱いて育てるという、子どもらの年齢差を考えるとやむを得ない一面があったとはいえ、母親としては妙に禁欲的なところがあって、父親の赴任先の新潟で、新築の二階家に転居してからは、わたしと林太郎は二階で両親と一緒に、年長の蓉子だけが階下で、爺ちゃん・婆ちゃんと寝るようになり、口数の少ない仲三はともかくとして、飽かずに寝物語をしてくれるコマになつくようになったからだった。

 でも、そんな事情があったとはいえ、わたしと林太郎はもちろん、蓉子にとっても、仲三の影が薄かったのはどうしてなのか――。

 前川仲三は一八八九(明治二十)年、仙台の七北田ななきたというところで生を受けている。男だけ五人兄弟の三男として生まれていることと、「仲」という字が、五人の真ん中の「中」と、人を意味する人偏(「亻」)を合わせてできていることから考えて、「人や兄弟の仲を取り持つ三男坊」という、親の望みを込めた名前だったのだと思う。

 にもかかわらず、妻のコマを筆頭に、子の綾や他の兄姉弟きょうだいたちからも、仲三の若い頃の行状について、人と人を取り持つような話ではなくても、何かのエピソードめいた話を聞いた記憶はなかったから、蓉子やわたしに、そのイメージが伝えられることも、当然ながら、なかったのである。

 尤も、祖父の生い立ちやその後の生活について、詳しく教えられて育つ孫なんて、よほどの名家ならともかく、そう多くはないと思うけれど、それにしてもその機会が皆目なかったのには、彼の生来の性格や家族の中での立ち位置というよりも、やはり、死に方が常軌を逸したものだったことが大きいと思う。

 ここでは、なぜ自殺したかという問題はとりあえず置いて、わたしの乏しい体験を軸に、仲三の命の足跡に、貧しい想像が届く限りでのドットを打ちつけてみる。それが、今のわたしにできる、数少ない勤めの一つだと思うから。 

 最初は、いつのことだったか、伝聞ではなく、わたしの記憶にある幼児期の実体験だ……。

 ……そのとき、わたしは普段はあまり乗ったことがない、薄い緑色の地に青い横縞のストライプの入った仙台市営バスの後部座席に座り、これから口にするアイスキャンデーのことを考えていた。自分を連れ出したコマに、二人だけの墓参りを嫌がらなかった褒美にと、着いたら何でも好きなものを買ってあげると言われていたからだ。

 その印象が邪魔をして、前後はもうあやふやなのだが、はっきり思い出すのは、小高い丘の粘土質の地面が階段状になっていて、彼岸の花が辺り一面に飾られているその場所で、うずくまるようにして手を合わせる、濃い藍色の地に白い花型模様の着物を着た「婆ちゃん」の背中を、一段下がって背後から見上げていた記憶だ。土は、雨上がりでぬかるんでいた。白く薄くて僅かに紫がかった線香の細い煙が、髪をお団子に結ったコマの頭部の向こうで、匂いと共にのんびりと立ち昇っていた。

 それが前川家代々の墓、つまり仲三の親兄弟が眠る場所だったと知ったのは、遥か後日のことだった。ほかに憶えているのは、斜面に並んだ墓地を降り切った場所の一角に、お花屋さんを兼ねる小さな茶屋があり、「婆ちゃん」が行きがけにお供え用の「おはぎ」を買ったことと、いつもは「婆ちゃん」と一緒にいるはずの「爺ちゃん」が、その日はいなかったことだ。

 二人で近くにある他家のお墓にもお参りしたことを覚えているが、何のことはない、当のあるじが拝もうとせぬ死んだ縁者たちが居並ぶ墓地に、嫁のコマが一人で行くのが何かと癪に障り、幼いわたしが、道連れに連れ出されただけではなかったか。

 つじつまが合うように、できる限りで計算を入れてみると、ときは一九五七(昭和三十二)年か八(昭和三十三)年の春の彼岸頃、わたしは一九五三(昭和二十八)年の十月生まれだから、まだ三つ半か四つ半、巌に率いられた鵜飼・前川の混合一家が、巌の赴任地の新潟への移動を控え、用意された最初の社宅に入る少し前のことだったはずだ。

 コマが満洲を引き揚げてから、最初で最後だったかもしれないこの墓参については、母・綾と母方の叔父・慎二が、仲三の自殺があって暫く経ってから、一度語って聞かせたことがあった。そのはっきりしない記憶の欠片かけらを拾い集めてみると、言い間違いもあれば記憶違いもあるに違いないが、大筋ではなるほどと合点がいく、ある時点までの物語が出来上がる。

 仲三は、わりに自由な前半生を送った印象が強く、満洲に渡る前に、当時敷設されて間がなかった東北本線の大宮管区に在籍したことがわかっているので、東京の「岩倉鉄道学校」を出て、いったんは国有鉄道に入社、そこで何かを思い決めて満洲に渡ることにしたのだろう。

 渡ったのは一九一二(大正元)年七月の末。そして、奉天で創立六年を迎えてまだ黎明期だった南満洲鉄道に入った。大宮から奉天にいたる間の仲三の足跡については、自殺した仲三の後始末を終えて暫くしたときに、巌の死で新潟から仙台へ引き揚げることになった六人のうち、到着して程なく無事に自分の両親の勘四郎夫婦のもとに帰って行った林太郎と、本人の仲三を除いた四人の家族に、満洲帰りの手作り餃子で評判をとっていた慎二*1が、綾の兄、コマの息子、そして蓉子とわたしの伯父として何くれとなく気を配る中で、何か意図でもあったのか、以下のようなことを語ったことがある。

 日ごろから自分は大陸的な性格なんだと、餃子の皮を麵棒で伸ばしながら、野人風のイメージを客に吹聴する人だったわりには、そのときは本来の姿を見せるように当たりが柔らかく、こだわりなく胸襟を開くような口ぶりだった。彼が描いてみせた、死んだ仲三の満州での様子は、以下のようなものだ。

 「……アッ、あまり喋らない人だったが、胸には何か独特なものを、タッ、ため込んでいる印象があったよな。俺が一番驚いたのはトッ、トランペットだ。ハッ、哈爾濱で小学校に入った頃に、学校が嫌いだった六つか七つの俺が、ドッ、吃りを揶揄からかっていじめる同級生がいるので、そいつらを黙らすために何でもいいからガッ、楽器をやりたい、そしたら囃し立てるあいつらには、シャ、喋る代わりに楽器で応えてやるんだと言ったら、黙ったまま押し入れから黒い皮の、わりに新しい楽器ケースらしいものを持ち出して突然シッ、白くなりかけた銀のトランペットを取り出してなぁ、『銀の喇叭らっぱは、音に広がりがあるんだ』とか言って吹いてみせたんだ。

 そりゃ驚いて、冗談ではなくマッ、魔法にでもかかったのかと思ったよ。あの四角い顔で、唇をマッ、丸くすぼめて吹いてみせたのは、キョッ、教会音楽みたいな曲だった。当然そんなに上手くはなかったンダけど、そのことにかえって俺はカッ、感動した。何だか、お前はお前のままでもいいと言ってくれたみたいでさ。『俺はものを思うようになったときからずっと、楽器をできないコンプレックスがあったんだ』なんて、問わず語りに呟いてたよ。

 で、俺も吹いてみたんだが、コッ、子どもにゃ無理だった。『腹に力を入れ、唾をぺっと出して、辺りを気にせず吹いてみろ』と言われたんだが、カッ、河馬の透かしっ屁みたいな、痩せた情けない音しか出ない。で、俺はコッ、こらえ性がないもんだから、すぐ音の出ない楽器なんかじゃ役に立たない、誰がやっても音の出る、たとえばロシア人が弾くテッ、手風琴か何かみたいな楽器がいいと我儘を言ったら、管楽器のトランペットと手風琴じゃ、クッ、クッ、比べようがないと渋い顔をしていたが、暫くした頃に、ダッ、黙って何も言わずに、頃合の手風琴が俺の机の上に置いてあった。コッ、子どもを連れて買い物に行くなんてのは、親父のやり方じゃなかったんだろうな」。

 「覚えてるわ。慎ちゃんがあの手風琴を大事にしてくれたおかげで、キタイスカヤのロシアン・カフェで、慎ちゃんと一緒にわたしも隠れてダンスのアルバイトができたし、哈爾濱高女でチェーホフの『三人姉妹』を演ったときにも、同級生に大河原さんという慎ちゃんお気に入りのがいたから三円ばかり安いんだけど、ともかく舞台の袖で一所懸命に演奏してくれた。まあ、わたしたちは家族の「おヘチャ」扱いもあって、当人同士は仲がよかったし。知巳なんかはね、ヘルメットを被ったみたいな満鉄の『特急あじあ(パシナ)』の機関車は、パシフィック型で七番目に造られた機関車だからパシナって言うんだなんて、小学校に入ったばかりのくせして、したり顔で大人にひけらかすような子どもだったもの」。

 蓉子とわたしに向かって、綾がそんなことを言うのを聞いて、大人になって仙台に来てからは、兄弟として知巳と普通に仲良くしていた慎二は、「芝居に限らず、あっちゃんとは確かに気が合った、劣等生同士で」と笑みを浮かべ、すぐに「それはともかく」と真顔になって、話を続けた。

 「トッ、トランペットだけじゃない。クッ、草いじりや花いじりもそうだ。親父は、鉄道学校に行ったときに親元を離れ、卒業してイッ、家には戻らないままで大宮に行ったらしいんだが、学校時代は土木科でツッ、土をいじる機会があってさ、そのせいで、コッ、考古学にのめり込んで、若いうちからカッ、化石の花に興味を持っていたそうだ。退職後は親のアッ、仇でも取るような勢いで菊造りに夢中になっただろう。まるでリョッ、『聊斎志異』りょうさいしいの「黄英こうえい」*2みたいにさ。

 でも、菊づくりを応援してくれたごんちゃんがいなくなって、山を歩く以外はスッ、することがなくなったわけで、あの通り、顔には出さなかったが、ずいぶんキッ、気落ちしていたんじゃないか。息子の俺が、イッ、今になってこんなことを言うなんて、気が引けるけど……。

 ……だけどなぁ、極めつけはやっぱりキョッ、教会通いだろう。若い頃に足尾銅山の鉱毒事件で有名な、新訳聖書を最期まで頭陀袋ずだぶくろに入れてたという、田中正造たなかしょうぞうに興味があったらしいし、そうかと思うと「基督抹殺論」というのを書いたっちゅう、コッ、幸徳秋水こうとくしゅうすい、それからアメリカに行ったキリスト教徒の内村鑑三うちむらかんぞうなんかを拾い読みしたと言ってたけど、上野のイッ、岩倉にいた頃に教会に通い詰めて、一度は牧師だか、チョッ、聴聞僧だったかを目指して、大宮で国鉄に入ってからもキョ、教会に通ったっていうから、筋金入りとまでは言えないとしても、ハッ、針金の二、三本くらいは入っていたんだと思うよ。

 クッ、黒いガウンみたいなダフっとした上着に、中原中也みたいな大きなツバのある帽子をかぶって、胸に小さなジュ、十字架をぶら下げた写真を、ハッ、哈爾濱で見せられたことがあるけど、何か見ちゃいけないものを、ミッ、見せられた感じがした」。

「慎ちゃん、あんたずいぶん詳しいのね。あたしよりよく知ってるじゃないの」。

そうコマが呆れる。

 「この人は、爺ちゃんとは意外にウマがあったのよ。二人とも猪年で、一度決めたらそのまま黙って猛進するところがあって。巌さんともそうだったけど、どうやらお父さんは男の人同士の会話が好きだったみたい」――そう綾が呆れるでもなくサラリと言うのを、幼さが消え始めた蓉子とわたしがポカンと見ていた。

 「男同士ねぇ。わたしゃ、気持ちが悪いよ。なんだか女々しいじゃないか」。――コマが言った。

 「そう見えたから、伯父ちゃんも黒いガウンを着た爺ちゃんの写真に、『見ちゃいけない』と思っちゃったんじゃないの?」――そろそろ高校受験が近づいていた中学生の蓉子が、当てずっぽうで生意気な野次を飛ばした。

 「ハハ、そうかもしれない。まぁ、女々しかったかどうかはともかく、ボッ、牧師の資格を取るところまでは行ったんだそうだ。

 それでさ、満洲で好条件で満鉄に入れたのには、満鉄向きの技術を持ってたこともあったろうが、岩倉時代に教会で遭った人が満鉄の腕利きのス、スカウトマンだったことが大きかったらしい。その人もキッ、キリスト教徒で、わざわざ東京から大宮までついてきて、同じ教会に通って親父を口説いたらしいんだ。ドッ、同県人でちょっと年上の人で、ええとアッ、アイザワという人だったと思う。

 綾ちゃんも聞いたことがないかい。ワッ、忘れられないし、ワッ、忘れちゃいけない人だと、本人が戦後になっても言ってたよ。二人一緒に、信者のザッ、懺悔を聴く資格みたいなものを取って、一時期は大連でフッ、布教活動をしようという話まであったらしい。そんなこんなで、これで仙台とも縁切りだと、満洲に向かうハッ、博多ではせいせいして船に乗り込んだんだそうだ。それで言えば、ごんちゃんが死んで仙台に返ってきたこと自体が、親父にとっては、生涯の大誤算だったのかもしれないなぁ」。

 「逢沢あいざわさんならあたしもよっく知ってるよ。若い頃に、大連で爺ちゃんと三人で何度も会って、よく一緒に遊んだもの。戦後は大陸が近い新潟に居ついて、生前にお墓を造り、新潟に骨を埋めたのよ。爺ちゃんに連れられて、奥さんの案内で墓参りにも行ったわよ」。――コマが言った。

 「そう言えば、そんなこともあったわねぇ。でも、そうまでして、どうして布教を続けなかったのかしら」。

 「さぁなぁ。キッ、切支丹は敵性のものだし、国の仕事が面白かったのかもしれない。それに、オッ、お袋に出会ったせいもあったんじゃないか。そうでなければ、結婚して子どもが生まれて、それどころじゃなくなったとか」。

 「でも、そんな大事なことを慎ちゃんにしか言わないなんて」。――コマと綾が互いの顔を見合わせつつ、「ねぇ」と口を合わせながら同時に頷いた。

 「だけど、コッ、今度のことは、誰にも何も言わず仕舞いだった。匂わせもしなかったし、だから気がつきもしなかった」。
「おお、嫌だねぇ。ああ、嫌だ」。――コマの涙まじりの声が鋭く響いた。

 それで話は途切れた。何だ、これで終わりかと、幼いわたしは思った……。

 そのとき以来、最も近しい我々の前で、コマへの気遣いもあったのか、自殺した仲三のことを話題にする者は、いなかった。各自が胸のうちでそれぞれの思いに耽るとか、一人でいるときに彼と過ごした日々が突如生々しく噴き出してくるとか、或いはそれぞれの夢の中でハッと目覚めるくらいのことはあったと思いたいが、少なくても、子どもの前で、大人たちが表立って話しあうことは一度もなかったはずだ。

 それから五十年近くが過ぎた二〇二〇(令和二)年、すでにコマも慎二も綾もいない仲三の五十七回目の命日に、既に六十五歳を超していたわたしは、或るソーシャル・メディアに、忘れられていた仲三に関してのこんな一文を書いた。

10月8日 
「原罪意識」なんて、自分にはないと考える人が多いだろう。<キリスト教徒>の「原罪意識」の社会的意味合いなんて何も知らない私が言うのは気が引けるのだが、実は私には、この「原罪意識」という日本語の響きがふさわしい、私的な体験がある。まだ小さなころの、人生最初期に属する記憶だ。

 陽は高く、日光が木々の葉を強く射る夏の午後だった。午睡から覚めた二つか三つの子どもだった私は、温泉のタイル貼りのトイレにあるような大人用の木製の大きなサンダルを突っかけて、庭先の無花果の葉が地面に幾重もの木洩れ日を落とす、いくらか涼しい庭に出て、カランコロンと、玄関先に向かって歩いて行った。

 そこには日ごろ、大人たちから「近づくな」と制止されていた、<つるべ>もなくなって、もう使われずに邪魔もの扱いされているので、かえって子どもの興味をそそる大きな石造りの堀井戸があった。私は誰もいないことを幸いに、蝉の声だけが遠く聴こえる白昼夢のような静けさのなか、生まれて初めてその石の井戸に手をかけてみた。井戸には、砂利とコンクリートで出来ているのだろう灰白色の地の中から、黒や緑や黄色などの小石が、表面を磨き立てたようにツルツルさせて、乱雑に顔を出していた。普段なら井戸を塞いでいるはずの四、五枚の古い木の蓋は、そのときは取り外されて、石畳のある土の脇道に几帳面に並べてあった。

 井戸の地上部分は、ちいさな子どもが覗き込んでも、背伸びすれば十分に底が覗けるほどの高さしかなかった。

 穿たれた穴の深さはかなりのものだったと思う。穴の中を昇ってくるひんやりとした空気に頬をからかわれながら覗いた、何かを囁きかけるような薄暗さの遥か下方に、そこだけ光を反射して静かにゆらめいている水面が小さく見えた。すると、あの遠くにある水面をかき乱したいという突然の衝動がわいて、芽生えたと思う間もなく、私は口を開けて唾液を吐き出してやろうと、井戸に向かって<からだ>を傾けた。唾液は小さな鏡のように見える水面に向かって揺蕩たゆたいながら時間をかけてゆったりと落ちていき、ややあって音をたてて鏡の水面をかき壊した。

 ポチャン! というその音と同時に、覗いている自分の影のような絵姿が一瞬崩れ、水面を震わせながらまた元に戻るのが面白く、幼い私は自分の<からだ>と水面に映って壊れていく<からだ>を見比べ、何度か執拗に同じことを繰り返した……。

 エーリッヒ・フロムという人の『自由からの逃走』*3という著書に、「子どもが自分に目覚めるとき」には、同時に自分の<からだ>もまた自覚することを描いた『ジャマイカの風(A High Wind in Jamaica/Richard Hughes)』という小説の引用がある。

 「…そのとき、エミリーに非常に重要な事件が起った。彼女は突然自分がなにものであるかを悟った。…彼女はぱったり立ちどまって、目のとどくかぎり、自分のからだをみまわしはじめた。彼女は上衣のまえを、遠く近く眺めた。ためしにあげてみた両手を眺めた…」*4という文章で、強く印象に残るものだった。

 私の井戸端の体験も、程度の差こそあれ、本質的にはエミリーの<重要な事件>の幼い雛形のようなものだったと思うのだが、如何せん、そこには罪の記憶がまとわりついていた。

 顎の継ぎ目のあたり、耳の下の内側の耳下腺から迸る、馬鹿にできない量の自分の唾液が、奥深い井戸の薄暗い底にいたって音を立て、水面を騒がせる小さな奇跡に、飽きもせず夢中になっていた私に、背後から「光矢ぁ、危ないぞぉ」という、麦わら帽子を被って門から帰ってくる祖父・仲三のいつになく大きな声がかかった。手に縄を括りつけた空のバケツを持っていた。

 たぶん、菜園で育てて大事にしている鉢植えの菊に、井戸で汲んだ水を遣ってきたのだろう。井戸の蓋を几帳面に並べたのは祖父に違いない。幼い私が、そう言葉で意識したのかどうかは今ではもうわからないが、私を可愛がっていた祖父が大事にしている菊、その菊に与える大切な水に、自分が唾を吐いたというやましい覚醒が、<からだ>を通して幼い私の胸を駆け巡ったことは、おそらく確かだった。神経質でチック症のように唾を吐き、ときに親に首からバケツをぶら下げられる屈辱を知っていた私は、唾を吐くのは汚くて行儀が悪いと、大人たちからさんざん聞かされていたからだ……。

 胸を斜めに通り過ぎる、せっつくような熱さを伴った痛みに、子どもなりに理解した「罪」を感じながら、私は祖父の掛け声に反応し、素直な孫を装って即座に井戸を離れたのだったと思う。もちろん、唾を吐いたことは言わなかった。そして素晴らしいはずの<自分と自分のからだへの覚醒>が、一瞬にして後ろ暗い記憶を孕んだ、祖父には決して言えない秘密へと姿を変えたのだった。

                  *

 これが私のいう「原罪」の内実だ。大袈裟だし、子どもなら誰にでもあるどうでもいい小さな失敗さと考えるほうが健康でいいとは思う。

 だが、以後の私は、どうでもいいことにでも反省を繰り返す、少し嫌味な子どもになった。長じて大事なことを反省しない(自分を含めた)懲りない面々に大きな嫌悪をおぼえるという、或る意味で非社会的な一面に拘るようになったのも、このときの出来事が遠く捻じ曲がって影響しているからではないかと思っている。祖父に対して申し訳ないと感じるこの気持には、これに加えて、今は口にできない、はるか後に起こった出来事も影響しているのだが……。

 私は、おそらく根は単純で躊躇いもなく無責任な、基本的にはあたり構わずにかなり機嫌のよい、人並みよりやや軽めの人間ではないかと思う。それが、ときに思慮深いなどと誤解されることがあるのは、なによりもまず、この「原罪」に始まる疚しい感覚があるせいだろうと思うのだ。

 ならば、人間には「原罪の感覚」があるほうがよいのか、ないほうがよいのか。おそらく、そんなことは誰にも決められない、と言うより、決めてもあまり意味はない。要は、「原罪の感覚や意識」を持った人間がどう行動するか、或いはしないかという、行動の如何にかかわってくるのだから。

 二つか三つのときの他愛もない悪戯を、「原罪」として五十年以上も引きづってきたことを、それとなく告白した体のこの文章には、描写が細か過ぎること、上手・下手とは別に、わりに文体意識が強いと思わせるところなど、告白にしてはどこか妙に人工的な不自然さがあると感じさせる。それを本人のわたしが文中で語っている「今は口にできない、はるか後に起こった出来事も影響してはいるのだが」なる持って回った言い方にことよせて言えば、わたしには「罪」と自分で感じてきた、実はもう一つのより深刻な体験があるのだ。

 わたしに祖父の仲三に対する「原罪意識」があるのは嘘ではない。しかし、それは正確には、二つや三つのときの井戸の記憶などではないということだ。要は、井戸の体験で語られた「原罪意識」は、「今は口にできない」もう一つの「原罪意識」の実は隠れ蓑なのである。

 罪の意識はありながら、その原因にはまともに向かい合わず、あるいは重過ぎて向かい合うことができずに、類似した実在の出来事に告白を仮託して、微妙な偽りを混入する。心理的に負担の少ない作り物のお話で、自分にも他人に対してもお茶を濁してしまうこと。これは、人によってはちっとも珍しいことではなく、わたしはご多聞に漏れず、そういうタイプの人間なのだ。

 わたしがしたためたソーシャル・メディアの記述には、形式的な事実認識に関する嘘は含まれていないと言っていいが、事実の解釈については大きな欺瞞や錯誤があるということだ。これを言い換えれば、事実そのものより、事実の解釈のほうがはるかに重大なことが、少しも珍しくはないということだろう。

 もう何度も言ったが、仲三は、一九六三(昭和三十八)年の十月に自殺している。仲三を金銭面で支え、気持ちの点でも気にかけていた義理の息子の巌が死んだのは、その前年の一九六二(昭和三十七)年の二月だ。

 その二年に満たないわずかな時間に仲三の家庭の中での環境は激変し、わたしは小学三年と四年生の二年間で、それを象徴するようななまの現場を再三見ている。この変化についても、わたしは同じ二〇二〇年のソーシャル・メディアに書いている。これもまた韜晦味が強いものの、ここまでにあらためて思い出した(発見した)ことを前提に読むならば、自分の仲三に対する子ども時代からの強いこだわりの理由わけが、いくらかでも納得できるような気がするのだ。躊躇ためらいなどはあえて無視して、重ねて引用する。

私が見たこと

 

 祖父とは、彼が死ぬまでずっと一緒に暮らしていた。末っ子で長男だったわたしが、胴長の色黒、牛蒡みたいなオチンチンをしていると、祖母、母、姉の女の三人組、ときにはそれに父までが加勢して、家族みんなの趣味の悪い笑い話の種にされても、祖父だけは、この意地の悪い団欒に一人黙って処し、決して彼等に組することがなかった。

 父と仲が良く、いろいろ頼りにしていたようだが、父が死んでからは、彼の応援で勤しんでいたプロ級の鉢植えの菊作りをやめ、或いはやめざるを得ず、空いた時間には、一人で、若いころから好きだったという山歩きに出かけることが多くなった。「キノコ狩り」で持ち帰った大量の名を知らぬキノコが、大鍋でいたきされて食卓に上がり、食べた記憶が幾度となくあるが、炊き上げた祖母や母が喜んだ記憶はなく、食卓で後ろを向いて、「仕方がないわね」と口に手をあてて囁き合う彼女らの胸をよぎる、冷たい空気が否応なく伝わって、以後は、とりたててキノコを食べたいと思うことは、大人になるまでなかった。

 そんなこんなが重なったからだろうか、やがて祖父は、元来の寡黙な性格が昂じて、家族の中で老いた男が一人という孤独を、迫りくる認知症の影と共に、はっきりと背中に滲ませるようになった。男孫のわたしにはよく喋りかけたが、声に張りがなくなったという子ども心にも辛い印象があって、総体的に存在感が乏しくなった。しかし、マザコンだったわたしには、暗い思いで「爺ちゃん」を見るよりも、活きのよい女の家族の勢いに乗じて、祖父の話しかけをおろそかにするきらいがあった。夕暮れ時の家族のみんなが忙しい時に、テレビの前に一人で炬燵に陣取って新聞を広げ、短い鉛筆を舐めて相撲の星取表をつけながら、じっとテレビの相撲を見ていた「爺ちゃん」の丸まった背中がいまだに消えない。

 一度、「天皇誕生日」に家族でテレビを見ていて、一般参賀に応える昭和天皇の姿に、こらえられずに涙を流し、小さく続く嗚咽を漏らしたことがあった。それに気づいた祖母と母は、後ろを向いて顔を寄せ合い、「ほらほら」という感じでヒソヒソと何か囁きあっていた。そのときはさすがに、耳が遠くなっていた彼に、<爺ちゃん、気がつかないように>と祈りながら、母と祖母、とくに祖母が持つ生活感溢れる「強さ」と、祖父の生活の場には馴染まない遠慮がちな「弱さ」との対照に、言い難い戸惑いを覚えた。

 そんな風に寂しく、いつもはおとなしい祖父が激高し、何か聞き取れないことを大声で怒鳴どなると、それまで祖父に向かい合って立ち、盛んに抗弁していた祖母が、何か言いながらその場を立ち去ろうとするその背中を、祖父が右の手を握って一回打擲したことがある。乱暴というより、なんだか捨て身の抵抗という感じの振る舞いだった。

 そのとき祖母は、「何だ。叩くならもっと叩け、さあさあ」と言いながら、すでに何も言えずに茫然と突っ立っているだけの祖父を、半身になって肩を使い、強く押し返した。もうこの人には殴る力はないと見切った祖母の、計算づくの強さを子どもながらに感じ取り、そのことに強い違和感を感じた。

 わたしはスポーツに関する一人遊びが好きで、一人一人の選手に好きな名前をつけた想像上の野球チームを作って、玄関先でバットを振りながら、想像の試合で、何時間も過ごしたりすることがあった。 

 或る日、外に通じる木製の戸を開け放した、コンクリートが打ちっぱなしの風呂場の片隅に、水を張った大きな金盥かなだらいを置き、そのころに学校で流行っていた、分度器がついている黄緑色で半透明のプラスティック製で幅の広い定規を、オリンピックの水泳選手に見立てて、水の中を泳がせながら、好きだった1500メートル自由形のレースを手元で想像・実況する遊びに興じていた。頭に豪州のマレー・ローズやジョン・コンラッズ、日本の山中毅やまなかつよしといった当時の有名選手たちの名を思い浮かべ、選手を紹介する独特の節のついた場内アナウンスを、「第三のコ~ス、山中君~、大洋漁業」などと小声で口真似を繰り返しながら……。

 すると、セメント張りの風呂の外にある納屋の戸を開けて、靴、リュック、草刈鎌など、山に出かける準備をしていた祖父が、孫の様子が耳に入ったのだろう、風呂のドア越しに何か声をかけた。一言、二言、やり取りがあったと思う。しかし、最後にわたしは会話を無視した。――うるさいな――と思ったからだ。背後に、そのままちょっと立ちすくみ、やがて立ち去る気配を感じた。「行って来る」と言ったかどうかはわからない。ただ、それを最後に祖父は家に帰ってこなかった。一九六三(昭和三十八)年十月八日のことだ。次の年の明日(十月九日)がわたしの誕生日、同じく次の年の明後日(十月十日)が、東京オリンピックの開会式という日だった。

 以来、祖父の人生を思い遣る、と言うより「想像する」のが、わたしの果たせぬ課題になっていったのかと、今さらながらに思う。親戚筋から、若い頃は満洲で満鉄の職員として羽振りがよかったと聞かされたことがあるが、職員録で確かめたわけでもないし、聞いたら話を聞かせてくれたかもしれない祖母や母も、もういないのだが……。

 この昼下がりの風呂場での一件があった日は、繰り返すが、わたしの誕生日の前日でもあった。声をかけた孫から返事が戻らなかった彼は、おそらく何も言わずに(重い何かを抱えて)立ち去り、行きつけた山の藪を掻き分けて奥深く入り込み、おそらく化学用のガラス瓶に入った白い農薬を一息に飲んだきり、雨に晒されたまま戻らなかった。いつもの誕生日には、一つ一つ表紙が違うノートを全科目分とか、並みの鉛筆と比べて一本十倍の値段のする鉛筆を一ダースとか、何かしら「爺ちゃん」らしい勉強を手助けするようなプレゼントを貰っていたのに――。あのとき、ひょっとして爺ちゃんは、本人のわたしと、今年の誕生プレゼントの相談をしようとしていたのではないか…。

 その日、午後から級友たちとの草野球に出かけたわたしは、門限の七時を少し過ぎてから自転車で戻り、庭越しに覗いた茶の間の定位置に「爺ちゃん」の背中が見えず、テレビ画面に「七時のニュース」の大塚利兵衛おおつかとしべえアナウンサーが映っているのだけが見えるのを気にかけながら玄関に回り、遅れたことの弁解を復唱しつつ茶の間に入った。

 中学生になっていた姉の蓉子は部活でまだ帰っておらず、二人で家にいた母の綾と祖母のコマから口々に「あんた、爺ちゃんは見なかったかい」と聞かれ、わたしが山の準備をしていたと答えると、少しく青くなっていたコマが「あの人、本当にほうけてしまったのかしら」と、立ったまま苛立たし気に言った。

 それから暫くしても帰ってこないので、綾は兄の慎二に電話をかけた。慎二が、店を閉じタクシーを飛ばして家に着いたときは、もう暗くなっていた。その頃には須崎鉄工所からコマの甥っ子が二人来ていて、従兄弟いとこの彼らと鉄工所の同僚として働いている末弟の知巳ともみが、若い衆を引き連れて警察と共に山に捜索に出ていた。

 家ではいろんな人のいろんな口から、「怪我をして動けないのじゃないか」、「卒中か、それとも心筋梗塞か」、「いや、深く入り過ぎて道に迷ったんじゃないか」といった憶測がさまざまに飛び交っていた。

 わたしは、そんな何処からともなく集まってきた大人たちが、狭い家にゴッタ返すなか、警察官や地元新聞の若い女性記者と向き合い、顔だけは見知っていたコマの齢の行った二人の甥に付き添われて、戻って来ない仲三を最後に見た小さな目撃者として、質問と取材を受けた。

 「お爺ちゃんを最後に見たのはいつ?」、「どんな様子だった?」、「何を言っていたの?」と、矢継ぎ早に問いただされ、目の前に差し出されるマイクに緊張しつつ、葬式躁病*5といわれる状態があるというが、まさにそのように高揚・興奮して、どこか得意にもなっている自分を自覚しつつも、ひっかかるものを意識しながら、なおハキハキと次のような応答をしていた。

 「お爺ちゃんを最後に見たのは――」。

 「お昼を食べた後です」。

 「何か変わった様子は――」。

 「特にありません。いつもと同じです。僕はお風呂場で水遊びをしていました」。

 そして、「行ってらっしゃい」と言ったら、「ああ、行ってくるよ」と言いました。と、仲三につれなくした自分をやましく思い、最後に自分が返事をしなかったことを隠したのだった。

 「ああ、行ってくるよ」と答えたはずの仲三は、何日も見つからなかった。当日も翌日も翌々日も――。集められた捜索隊は山道とその付近を捜しつくして、仲三は、キノコを探して山の深くに分け入る際に、怪我をしたに違いないという憶測がだんだん強くなった。綾が「谷底に落ちて」怪我で動けないだけなら、仲さんは山と親しいから、キノコでも草でも虫やミミズだって食べられて大丈夫」と涙声で強がった。

 失踪から数えて三日目の朝方、篠突く冷たい雨が降り、「合羽は持っているのか」と虚しく心配する人々をよそに、雨は日がな一日、止むことがなかった。

 それからどのくらいの日が過ぎたろう。藪を掻き分けて捜索を続けていた若い衆が、うつ伏せに突っ伏している腐乱しかかった仲三の死体と、傍にあった白色はくしょくの農薬が入った茶色の瓶を見つけた。その報から時間を置いて、家族の代表が警察に死体の確認に来るよう求められた。

 嫌がるコマを家に残し、慎二が付き添う形で、世帯主として一緒に暮らしていた娘の綾が、遺体を確かめに行った。歪んだ顔やからだが腐りかけて崩れていたというが、綾はそれが仲三であることを、顔を見るまでもなく、すぐにわかったと言った。聞かされた検死の結果では、強い覚悟だったことを示すように、パラコート製剤と呼ばれる農薬を大量に飲んでおり、たぶん死までは飲んでから半日か一日ていど、苦しみは強かったはずだとの説明があったという。

 警察から戻り、慎二がコマと知巳にこう言った。

 ――綾を面通しに、イッ、行か挙して来ることはなかった。知巳と仕事上のつきあいがある二人の中年男を除いて、こちらから知らせることもしなかったのだと思う。遺骨は暫く後に、仲三が縁を切っていた長男の壮一に代わって慎二が建立した「前川慎二家の墓」に納められた。壮一と彼の家族は来なかった。商店街の知人の伝手で紹介された寺に自前の墓を建て、納骨を終えた次男の慎二が「コッ、これで一安心した」と言うのを、綾は<そう>と無表情に、コマは<そうね>とただ淡白に聞いていた。


 後日、仲三が検死を終えた遺体として戻ってきたときのことを、蓉子が「爺ちゃんの白い足の裏だけは、よく覚えている」と述解したことがある。わたしにはその記憶がないので、大人達は、あるいは子らに、無残な死体を見せまいとしたのかもしれない。 

 ともあれ、わたしは自殺とはっきり知らされたとき、「爺ちゃん」はみんなに捨てられたと感じて死んだんじゃない。反対に、わたしをはじめとして、みんなが「爺ちゃん」に捨てられたんだと思った。 

 

4. ごんチャンがくれた手帳

 手元に、一冊の小さくて暦のついた皮装の古びた手帳がある。いわおの会社のものだ。左開きで皮製の硬い表紙が少しく反り返っている。厳の転勤によって新潟に来た鵜飼一家が、新築した二軒目の家に入った一九六〇(昭和三十五)年用のもので(巌が急死したのは、この翌年――一九六一年――の二月)、巌の強い押しで会社が社宅として建てたその新居は、防雪に備えて作られた高台の上に造成され、屋根に雪止めがわたされた、今風に言えば4LDKに、広い玄関前のスペースがあり、家の周りをぐるりと取り巻く広い庭を備えた、当時はかなり目立つ家だった。 

 仲三は、その庭の半面一杯に菊や朝顔などの鉢を並べ、巌に手渡されたこの手帳(表紙の見返しに、会社のロゴが小さく入り、表紙をめくった頁には「御加入者を代表される社員総代の方々」という文句の下、百名弱の一般人の名が印刷されている)に、日記とは言えない簡単なメモとして、日に一、二行ていどの、七十三歳の暮らしぶりを書き残している。「菊づくり」に精を出していたせいか「雨」、「雨」、「快晴」といった、小林一茶の日記のような、天候に関する淡白な記述が多いのが、(身内の目で見れば)今となってはそぞろ悲しい。

 以下に、ときに空白があるものの、曲がりなりにもこの一年にわたった彼の書きつけを見てみたい。途中にわたしがわかる範囲内での説明を加えておこう。

2月4日  逢沢喜一郎氏ノ消息ヲ知ルタメニ県生活課ニ行キ問イ合ワセタリ 

3月1日  収入1000 鵜飼家ヨリ

3月21日 1000 鵜飼家ヨリ収入

3月23日 寺尾行キ 帝位5(黄)古代錦4(紅)小鉢買上ゲ

3月25日 豊栄町黒山ニ逢沢様宅ヲ訪ネ伊藤達衛氏ノ厚意ニヨリ同氏ノ墓参リヲスマセ馳走ニナル 逢沢奥様と伊藤様ニ葛塚マデ送ラレテ家内ト共ニ帰宅シタ 

3月27日 チューリップ 乾燥肥料ヲ施ス(半数)

3月29日 植物ホルモン(ルートン)挿木ノ時ニ用ユ 

3月30日 降雨 

3月31日 本日降雨 ごんチャン加茂市ニ出張 支社長婦人来訪サル 乾燥肥料出来上タ 


 3月1日と21日に、小遣いらしい金員をもらったときの書きつけに、被扶養家族として同居していながら「鵜飼家より~」とあるのは、他人行儀の印象があるのを否めない。ここはおそらく、巌の舅である自分と巌との特殊な事情にこだわっての折り目正しさだ。何が特殊かと言うと、この時点で七十三歳になっていた仲三にも、二十代始めの若さで教会に通った頃は、洗礼を受けていったんはキリスト教徒になり、聴聞僧を目指して人の役に立とうと努力したことがあったからである。実は、それが自分の親兄弟と別れたことの遠因の一つにもなったようなのだが、この遠因には負の方向だけではなく、巌が絡む積極的な側面もあった。

 それはたとえば、始めは長男・壮一の紹介で自宅を訪れただけの巌が、綾を見初めて婚約者になった段階で、一再ならず仲三とまみえ、結婚してからもたびたび巌の、誰にも話せないし話したくもない、おそらく忍びやかな「懺悔」とでも言うべき告白に触れる機会があったらしいことだ。早く言えば、それが後の仙台から新潟に至る二人の、家族を伴ったやや他人行儀で折り目の正しい、同居につながったのではないかと思われる。

 もう一つ。2月4日の「逢沢喜一郎氏」。これは、二十代始めの仲三が、「聴聞僧を目指して人の役に立とうと、自分なりに努力」した頃の自分を実質的にリードしてくれた、慎二が綾たちの前で言明した「岩倉時代にたまたま遭った満鉄の腕利きのスカウトマンだったアイザワさん」を指している。仲三は「県生活課ニ行キ問イ合ワセタリ」と書いているので、ルートは不明だが、何らかの手段で逢沢氏が大陸に近い新潟にいることを知り、役所で調べてもらって、逢沢家とやり取りを行った末に、3月25日に自宅を尋ねて行き、(おそらく逢沢氏の知人の)伊藤達衛氏という人物に付き添われて、墓参りをしたのだろう。 

 3月23日に見える「寺尾」とは、新潟駅から現在のJR越後線なら十五分で行ける隣駅の名前。仲三は菊を求めてよくこの土地に通ったらしい。「帝位」と「古代錦」は六千種ともいわれる菊の品種の一つだと思う。

 さらにもう一つ、3月31日に「支社長婦人来訪サル」とあるのは、巌が外務副長(外務・内務と二人いた副長の一人で、実質的な支社内No.2の一人)をしていた時の、新潟支社トップの夫人であり、夫は序列的には巌の上になるが、夫人が、この頃の明朗快活で幾分控えめなところのある綾と懇意になり、二人の間には夫たちの地位にはさほどこだわらない、例外的な「自由なおつきあい」が続いていたことを窺わせる。わたしの印象では、支社長婦人は派手でよく喋る大柄で明朗な美人タイプだったし、彼女と肩を並べて歩く彼女より少し小柄な綾には、それに勝るとも劣らぬ品のようなものがあったと思う。

4月1日 雨ハ上ガタ様ダガ寒シ チューリップ施肥シタリ 残リ半数 

4月2日 姥様ノ持テ来タ小菊無銘二本根分ケシタリ 

4月3日 今野家ヨリ収入1000 晴天 チューリップ 菊灌水シタリ  

4月4日 光矢 本日小学校入学式登校シタリ 

4月5日 腐葉土本日ヨリ乾燥 夜降雨 

4月6日 西北ノ風強クミゾレ降ル 

4月7日 晴レ 腐葉土干ス 

4月8日 腐葉土干ス 

4月9日 腐葉土干ス 

4月10日  夜降雨 

4月12日  降霜 バラ施肥 

4月13日  降雨 

4月14日  「花イッパイ会」に行ク 小菊二種鉢植エス 

4月15日  クロツカス(キキョウ ナデ(*一字判読不可)コ)サルビア 

4月17日  鋸目立、金衛町ニ依頼 

4月16日  降雨 

4月18日  薪15杷鋸引キスル

4月19日  チューリップ其他ニ肥料ヤル 鉋研屋ニ依頼ニ持テ行タ 

4月21日  晴天 カナリヤ抱キツイタ 

4月23日 カナリヤ四羽孵化シタ 鉋持テ来テ鋏ヲ依頼 用土の問題は如何にすべきか 

4月24日  降雨 「花一パイ会」ニテ6月中旬菊作リ講習会 菊苗配布 

4月26日 晴レ 薪ヒキシタ カンナ赤形咲イタ 

4月29日  新潟市大輪朝顔会 「朝顔の作り方」ト云ウパンフレット千葉様ヘ手拭イト共ニ送付 

4月30日  メーデー前夜祭ノタメ公会堂ハニギヤカ 

 

 この月の記述は、ほとんど園芸まわりのことに費やされている(菊、チューリップ、朝顔、天候など)。「花イッパイ會」は、「新潟はすみずみまで花一パイ」をキャッチフレーズにしていた「大輪朝顔會」の俗称で、市内の旅館に事務所があり、仲三も会員として通っていたようだ。彼は確かこの前後に、会主催のコンテストで何かの賞をもらっていたと思う。

 カナリヤは、孫の蓉子が欲しがり、ピーコと名付けた手乗り文鳥とともに飼っていた。21日に「カナリヤ抱キツイタ」とあるのは、ときに家屋内で放し飼いにしていたため、仲三がいつも着ていた作業服の大きな立体型胸ポケットに飛び移ったものと思われる。翌々日に「カナリヤ四羽孵化シタ」とあるが、あるいは親鳥が孵化寸前だった卵を守ったのか。4月4日はわたしの小学校の入学式だったらしいが、式が終わって教室に戻るときの渡り廊下に、新入生それぞれの名を書いた靴箱があって、自分の蓋を開けると、在学の生徒が新入生にプレゼントするために作った折り鶴があったこと以外、ほとんど記憶がない。                               

5月1日 メーデー盛ンダッタラシ 姥様ト共ニ護国神社参詣 病院ノチューリップ見ニ行ク

5月2日 朝十時ヨリ降雨 ごんチャン出張山形 サルビアノ種子蒔イタ 

5月3日 薔薇及百合ノ肥料ヤル 

5月4日 曇リ 金衛町ニ土ヲ取リニ行ク 暑クテ困タ 28.5度ノ暖カサ 

5月5日 曇リ バラニ虫ツイタ 早速消毒シタシ  

5月6日 曇リ 慎二ヨリ3000 知巳カラ4000ノ送金 綾チャンヨリ2,000モラウ 

5月7日 矢車草種子蒔ク 

5月8日 家族全部デデパート行ク 光矢ト林太郎ノ迷子

5月9日 曇リ小雨  

5月10日  降雨 

5月11日 曇リ 大輪朝顔蒔種シタリ30本分 

5月12日  晴レ 千葉様ヨリノ朝顔蒔種シタ 十種四十本分 

5月13日  曇リ 降雨アリ

5月14日  曇リ 降雨アリ ごんチャン今夕会津若松ニ行ク 金衛町家ニ屋根上タ

5月15日  曇り 小雨アリ 朝顔ノ間引キシタリ 

5月16日  蓉子学校ヨリ鹿の瀬へ旅行シタガ降雨ノタメ可哀想ダッタ 慎二ト橘へ手紙出シタ

5月17日  晴レ 好天ナリ 菊挿穂ス

5月18日  曇リ チューリップ掘リ上ゲ 

5月19日  降雨 

5月21日  曇リ 降霜アリ ヒロ子ノ父ヨリ来信 

5月22日  好天 ケヤキ(小鉢)トバラ植替エタ 

5月23日  アマリリス植替タ 薪切リ コタツ撤去 タタミ敷ヲヤッタ 

 全国太平洋岸ニ大津波押寄セ殊ニ東北三陸ノ損害甚ダシク志津川女川ナドハ全滅ニ近イ様 石巻塩釜ナドモ大損害ヲ受ケタトノコト 前日南米チリノ大震災ノ余波 

5月26日  朝顔第一回小鉢ニ移植シタリ 朝顔會ノモノ十鉢千葉氏ヨリノモノ四鉢計十四鉢 

5月27日 曇リ午后ヨリ小雨アリ バラヨク咲イタ 中央政局ハ容易ナラズ 水コケ求メテ来タ

5月29日 千葉氏ヨリ朝顔、(**)、秘曲、石清水、仙境、花王宮ノ六種樽ニ移植シタ

5月31日 大芳ノ花、接(**)、祝福、成與冠ノ菊芽挿シタ 三本仕立テニスル予定 昨日ハ小笠原左近君ヨリ来信 感謝サレル

 

 2日の山形、14日の会津若松と、保険会社での巌の仕事は電話でアポを取り付けて、出張で直接会いに行くという、組織や各種団体相手の外回り営業が多かった(当時子どもだったわたしは、父の出張と言うと、通過することの多かった福島・郡山駅の「薄皮饅頭」を思い出す)。

 4日の「金衛町」は、この夏に転居予定の、外務副長・厳、肝入りの社宅のあった場所。この時期にはまだ建築中だった。

 6日の慎二と知巳による送金は、戦後の再出発にあたって巌がそれぞれ都合したものの返却と、仲三とコマへの仕送りを合わせたものだと思われる。また、同日の「綾チャン」は、巌にことづかって仲三に手渡したものと考えられる。これ以降、「今野家」に代わって「ごんチャン」や「綾チャン」といった親しみを含む呼称が増えていくが、このあたりから家族に何か好ましい関係の変化があったことを窺わせないでもない。

 8日に「光矢ト林太郎ノ迷子」とあるのは、家族全員では繁華街・古町ふるまち大和だいわデパートで遊ぶうちに(大人たちが)七歳のわたしと四歳の林太郎を見失ってしまうという騒ぎを指す。わたしは、綾が「大和デパート」で「小林デパートにも行きましょ」と言ったのを聞いていたために、迷子になってすぐ林太郎の手を曳いて「古町通り」に出て、雑踏のなか「小林デパート」を目指したので、発見が遅くなりかなりの大事おおごとになってしまった。わたしたち二人は「大和」で皆とはぐれ、「小林」に行って、もう一度「大和」に戻ろうとした歩道の上で、皆と手分けして探していた仲三に会っている。

 12日の「千葉様」と31日の「小笠原左近君」は、「大輪朝顔會」で出会った友人だろう。21日の「ヒロ子」は「知巳」の連れあい。結婚前に呼び捨てにしているところが時代を感じさせる。23日の「薪切リ コタツ撤去 タタミ敷~」からは、73歳だった仲三の元気な様子が偲ばれる。

 23日の三陸一帯を襲った津波は、前日のチリ大地震の余波が一日の間をおいて到着したものだった(チリ地震津波)。

6月1日 菊ノ芽ヲ分譲シテモラウ為後藤サンニ行クガ留守ダッタ 

6月2日 家ノ修理ノタメ鹿島ノ者ト共ニ大門様ガ来タ 乾燥肥料ヲ箱ニ仕込ム 

6月3日 乾肥ニ水ヲ加エテ10倍ノ水肥ヲ造タ 

6月4日 百合咲キ始メタ 曇リ 後藤様ヨリ菊芽ノ分譲ヲ受ケ挿芽シタ

6月5日 朝顔ノ樽造リ支社長ノ家ニ届ケタ

6月6日 本町金物屋ニテ銅線ヲ買イ求メタ ¥300 

6月7日 晴レタリ曇ッタリ ごんチャン長岡ニ出張 

6月8日 ごんチャン長岡ニ一泊シタ 朝顔ノ発育悪シ 慎二ヨリ便リナシ 

6月9日 朝顔第二回ノ施肥シタリ 千葉氏ヨリノ小鉢植替タ 

6月10日  曇リ 婆様ト金衛町ノ家ヲ見ニ行ク 

6月11日  曇リ 新二(ママ)ヨリ送金アリタリ 鉢植ノ朝顔ニ少量ノアンモニアヲ施ス 

6月12日  快晴 第3号台風ノ影響ニテ本日ハ雨ト云ウ予報ナリシガ非常ナ好天デアリ堆肥ヲ日ニ照ラス 

6月13日  薄曇リ 朝顔小鉢ニ80倍ノ水肥ヲヤル

6月14日 曇リ小雨降ル 朝顔ノ養土ヲ造ル 

6月15日 晴れ 本日朝顔本植 今夕学生暴動ヲ起コシ不幸ニシテ女学生一人死亡シタリ 

6月16日 晴天 アイゼンハウアー大統領ノ訪日延期サル 

6月17日 晴天 厳ちゃんと万代橋にて待ち合わせ

6月18日  晴レタリ曇ッタリ 安保ニテデモニ学生労組員幾十万大変ナコトダ

6月19日  晴レ 菊(**)枯レル 本年ノ(**)ハウタガワレル

6月20日 好天 安保関係法案参院ニテ抜打チ可決益々混乱ノ度ヲ加エタ 

6月21日 曇リ 姥様ト林太郎ヲ伴テ寺尾行 大菊 葵上 神鳳(**)小菊 求メテ帰ル

6月22日 降雨 全国ノストニテ交通機関混乱 入梅後初メテノ雨ラシイ雨デ農家ハ嬉ンデイルダロー

6月23日 ごんチャン高田出張 降ッタリ晴レタリ 社会党共産党全学連ナドノ反対

 全国的ニ大問題デアッタ新安保ハ遂ニ6月23日十時十分外務省ニ於イテ藤山外相駐マッカーサー大使トノ間デ批准書ガ交換サレ条約ノ効力即日発効トナッタ 

6月24日  曇天 朝顔ニ干肥ヤル 金衛町ノ現場ニ二百円ノ菓子持ッテ行ッタ 大分出来タ

6月25日  降雨 梅雨ラシクナッテ来タ 夜ニ入ッテ晴れ 

6月26日  晴レ 朝顔菊トモ日光ニ当テテ養土ヲ日光消毒シタ 小菊*盃裁ハ失敗シタ

6月27日  朝晴レ 正午ヨリ豪雨トナッタ為朝顔ヲ家ニ取リ入レタリ

6月28日  朝晴レ 正午ヨリ降雨 菊ノ養土造リ

6月29日 曇リ時々降雨 挿芽シタ菊苗ヲ小鉢上ゲ 花イッパイ會ヨリ五本モ同時ニ計32鉢 

6月30日 早朝ヨリ相当ノ降雨アリ 朝顔、菊トモ家中ニ取リ入レタ 

 

 この年のこの月は、国民的な運動だった60年安保闘争が政治日程上のクライマックスを迎え、仲三の記述にも安保に関するものが増え、文字量も全体に増えている。仲三なりの高揚感があったのかもしれない。

 1日と4日の「後藤サン」はご近所の知人。2日の「鹿島」は会社出入りの建築業者、「大門様」は会社の内務副支社長。社宅とは言え、巌と並ぶ支社内のNo.2が業者を連れてじきじきに訪れているのはどうしたわけか。

 5日の「朝顔ノ樽造リ」は仲三のオリジナルか。だとすれば、支社長宅に届けさせた七十三歳の仲三の晴れがましさが目に浮かぶ。

 8日と11日に「慎二」、「新二」と違う書き方の名があるのは、二つとも「慎二」のことを指しており(慎二は商売繁盛を期して俗名の表記を変えていた。このげんの担ぎ方には、わたしの星占い好きと通じるものがあるかもしれない)。送金の中身は自分への「仕送り」ではなく、巌への「返却」と思われる(ちなみに綾がとって置いたこの手帳には、慎二の巌に対する「借用証」のほか、長男壮一が巌、慎二、知己宛に書いた「借用證」が挟んであった)。

 10日にある「金衛町」は、この夏に完成が予定されていた新築工事の進み具合を夫婦二人で見に行ったのだろう。後にこの家、この土地が、綾にとっての哈爾濱に似た、蓉子やわたしにとっての小型の「失われた故郷ふるさと」になる。

 15日の「女学生」は「樺美智子かんばみちこ」さんのこと。考えてみれば彼女は、前年の一九五九(昭和三十四)年に、皇太子明仁親王(後の平成天皇、令和上皇)と結婚し、後に皇后、上皇后となった「正田美智子しょうだみちこ」さんと、名前の音と文字が同じだったのだ。

 17日の万代橋での待ち合わせは、橋の近くの喫茶店でも使ったのだろう。仲三には「大輪朝顔會」、巌には会社があるので、誰にも知られなかったはずだ。二人は何を話したのか。

 19日「菊**枯レル」と26日の「小菊*盃裁ハ失敗シタ」は、字が乱れて、一部判読できなかったのが痛々しい。

7月1日 曇り小雨朝顔ト菊外ヘ出シテ肥料ヲ施シタ

7月2日 朝曇リ後好晴朝顔菊日光ニ浴ビセシム

7月3日 曇リ時々晴 金衛町ノ家ヲ見タ 入居マデ半月ホドカ

7月4日 夜半ヨリ豪雨 前路ハ(*)水ガ流レ、ゴム長デモ歩ケナイ 薪横ハ床下浸水デアル ごんチャン与板出張

7月6日 朝小雨アリ後曇リ 朝顔菊外ニ出ス

7月7日 終日晴レ 朝顔菊トモ手入レ進ンダ 知己ヨリ鵜飼ヘ送金アリ

7月8日 曇リ小雨アリ (**)咲イタ 日照ナイノデ面白カラズ

7月10日 曇リ小雨 慎二ヨリ未ダ今月ノ送金ナシ

7月12日 降雨 毎日ノ降雨デ朝顔モ菊モ手入レ不能デアル

7月13日 降雨続キデ肥料ヤレズ発育不良 

7月14日 早朝降雨アリ 各方面ニ水害アリ 自民党聰裁公撰ノ結果 池田勇人氏ニ定マル

7月15日 曇リ小雨アリ 昨夜岸首相暴漢ニ襲ワレルモ命ニ別状ナシ

7月16日 珍シク終日晴レタリ 花ニ肥料ヤッタ 養土ヲ造ッタ 慎二ニハガキ出シタ

7月17日 薄曇リ 家族全員デ金衛町海水浴場ニ行キごんチャンハ子供等ヲ入レタル 子供等ハ大嬉ビデアッタ

7月18日 ごんチャン本日福島ニ出張シタリ

7月19日 ごんチャンガ十二時過ぎニ帰宅 

7月20日 曇リナレドモ降ラズ 仙台ニ於イテパチンコ屋火事女店員四名焼死シタトノコト 慎二ヨリ来タラズ

9月29日 1000今野ヨリ入ル 慎二ヨリ来ル

10月21 日 剛チャンヨリ500円小遣イ 寺尾ヘ林太郎ツレテ行ク 寺尾ノ菊ハ不出来デアル 

10月22日 綾サンヨリ 1000円 

11月3日 姥様ガ仙台ニ行クコトニナッタ

11月4日 姥様ハ7時40分発デ仙台ヘ向カフ

11月6日 北田町デハ遂ニ何レカニ引越シタトイウ 知巳ヨリ通知アッタ 

11月7日 綾ヨリ500円入タ

11月9日 知巳ヨリ綾チャンニ5000為替アリタリ

11月13日 本日ヨリコタツ入レタ 知巳ヘハガキ出シタ

11月16日 綾チャンヨリ400入タ

11月18日 油粕及び骨粉 200円 

11月19日 姥様19:04分デ帰新シタ 家族一同迎エニ行ク

11月23日 1000 綾チャンヨリ 

11月24日 全菊整理シタ

11月26日 西南ノ風強ク雨モ伴フテ安眠出来ズ

11月27日 本日初雪アリ依然風強シ

11月28日 本格的ナ雪デドコモ真白クナッタ

12月10日 ごんチャンニボーナス100000円出タトイウコト 知巳ノオ祝イイタダク ワタシモ1000円受ケタ

 

 この時期は、たまにしか書いておらず、書いても不機嫌そうな記述が目立つ。また、多くが金にまつわる話だ(8月の記述がないのは、この時期に白山浦から金衛町への引っ越しがあったからだろう。11月6日の「北田町」とは満洲の哈爾濱から帰った仲三たちが最初に住んだ仙台の北田町(現在の柏木辺り)のことで、この頃は三人の男児を抱えた長男の壮一一家が住んでいた。

 壮一が、慎二、知巳への負債を抱えて首が回らなくなったのではと心配した鵜沢家では、話し合いの結果、「オレが行く」と言って譲る気配のなかったコマが、3日に夜通しで行った家族会議の末、4日の朝に北田町に駆け付けて何らかの話をつけることにしたものの、残念ながら壮一一家は、6日には何処へともなく姿を消していたわけである。壮一は巌の兵舎仲間で、巌にとっては綾との仲を取り持つキューピット役でもあった上に、娶った雪子ゆきこは綾の哈爾濱高女の同級生だった。

 この時のコマがどういう役割をしたのかは謎だ。本人は、何もできないでいるうちに忽然と消えたと素知らぬ顔だったが、実はこの出来事から四年が経ち、巌の死で一家が仙台に戻り、さらに仲三の自殺があってから一年も経たない一九六四(昭和三十九)年夏に、コマは小学五年生だったわたしと中学三年生になっていた蓉子を連れて、綾にだけは断り、慎二や知巳には隠して、素知らぬ顔で、山形市内に移り住んでいた壮一一家の家に、遊びに行ったことがある。

 わたしは壮一の家の茣蓙ござを敷いた比較的広い茶の間のテレビで、秋に東京五輪があったその年に、確かメルボルン五輪で優勝していたオーストラリアの水泳1500メートル自由形のヴェテラン選手、マレー・ローズの十七分を切ろうかという驚愕の記録のニュースを、壮一の三人の息子と観たことを朧気だが憶えているし、蓉子は蓉子で、高い声で忙(せわ)しいくらいに早口で喋りながら、世話をやいてくれた雪子のことを記憶に残している。おそらくコマは、その前後にも、隠れて何度かは長男の家に様子を見に行っていたに違いないが、惣領の甚六でも、やはり可愛かったのだ。

 ともあれ、このときのコマは、ついでの所用を片付けて、約二週間が経った19日の夕刻に、意外な元気さで戻ったようだ。「家族一同迎エニ行ク」とあるから、皆で夕食にでも行ったのだろう。必要以上に几帳面になっていた七十三歳の仲三と、壮一に貸付があり、まだ生活に余裕がなかった仙台の二人の息子を別にすれば、巌を含めた残りの一同は、事態を彼らほど深刻にはとらえていなかったのかもしれない。

 そんな中にあって仲三は、26日にあるような「安眠デキナイ」夜を度々過ごしていたのではなかろうか。

 そうこうするうちに27日に風を伴う初雪があり、翌28日には、新潟は雪に包まれた真っ白い世界へと姿を変える。12月10日に巌にでた100000円のボーナスには、仲三も喜んだことだろう。巌から贈られた「知巳ノオ祝イ」とは、仲三・コマ夫妻にとって、新しい孫の誕生祝いだった。「ワタシモ1000円受ケタ」とあるから、巌は、仲三とコマにそれぞれ渡したのかもしれない。 

 

5. コマ、丙午ひのえうまにあらず? 

 コマは、日清戦争の開戦で日本が湧いた年、一八九四(明治二十七)に、仙台の北のはずれで鉄工所を営んでいた須崎信介すざきしんすけの長女として生まれた。生れた年と時刻が、干支で言う午年うまどしの正午だったので「こま」と命名され、父・信介が金の馬が跳ぶ漆塗りの椀と小皿を造った。片仮名表記の「コマ」の名は、七歳の七五三の祝いの席で、本人が使いたいと宣言して以来、通称となった。

 祝いの席にいて幼い彼女の宣言を聞かされた得意先、親戚や近所の人たちの間では、本来なら一回りした十二年後の一九〇六(明治三十九)年の丙午ひのえうまの年に生を受けるべきところが、天分がせっかちで気ぜわしかったために、運命の神さまがガラポンを回す手元を狂わせて、一回り早く出てきてしまったのだとそしられた。つまり、丙午生まれではないけれど、丙午と寸分変わらないじゃじゃ馬だというわけだ。

 で、コマの後に生まれた、本来ならコマの姉になるはずだった妹トキ(鴇)との二人姉妹で、本人は長女の自覚の薄い奔放な「悍馬かんば」よろしく育ち、一九一三(大正二)年に、信介が婿にして後継ぎにと考えていた、鉄工所の上客だった市役所に勤める青年との縁談を無視して、翌一九一四(大正三)年、今度は第一次世界大戦が始まった齢二十歳よわいはたちの年に、明治に生まれた現代の八百屋お七よろしく、遼東半島の大連だいれんでコック見習いをしているはずの尋常高等小学校の同級生だった心の吉三郎を追いかけて、信介に宣告はしたものの実質的な家出も同然に、旅行気分の面白半分で辿り着いた神戸の港で、憧れの店のパンを買い込んで船に乗り込み、自由港・大連に住む女学校時代の友人をたった一つの頼みの綱に、単身で満洲に渡るという、怖いもの知らずの冒険を敢行した。

 本人は戯れに「女版・大陸浪人*1」と自称していたが、到着した大連港には、前述した夏目漱石の『満韓ところどころ』にも描かれた、中国人労働者(苦力クーリー)たちの以下のような姿もあったはずだ。*2 

十七

 三階へのぼって見ると豆ばかりである。ただ窓際まどぎわだけが人の通る幅ぐらいのゆかになっている。余は静かに豆と壁の間をぐるぐる廻って歩いた。……豆は砂山のごとく脚下に起伏している。こちらの端から向うの端まで眺めて見ると、随分と長い豆の山脈ができ上っていた。その真中を通して三カ所ほどに井桁いげたに似た恰好かっこうの穴が掘ってある。豆はその中から断えず下へ落ちて行って、平たく引割られるのだそうだ。時々どさっと音がして、三階の一隅ひとすみに新しい砂山ができる。これはクーリーが下から豆の袋を背負しょって来て、加減の好い場所を見計らって、袋の口から、ばらにけて行くのである。……クーリーはおとなしくて、丈夫で、力があって、よく働いて、ただ見物するのでさえ心持が好い。彼等の背中にかついでいる豆の袋は、米俵のように軽いものではないそうである。それをはるかの下から、のそのそ背負しょって来ては三階の上へけて行く。空けて行ったかと思うとまた空けに来る。何人がかりで順々に運んでくるのか知れないが、その歩調から態度から時間から、間隔からことごとく一様である。通り路は長い厚板を坂に渡して、下から三階までを、普請ふしんの足場のようにこしらえてある。彼等はこの坂の一つを登って来て、その一つをまた下りて行く。のぼるものと下りるものが左右の坂の途中で顔を見合せてもほとんど口をいた事がない。彼等は舌のない人間のように黙々として、朝から晩まで、この重い豆の袋を担ぎ続けに担いで、三階へ上っては、また三階をくだるのである。その沈黙と、その規則ずくな運動と、その忍耐とその精力とはほとんど運命の影のごとくに見える。……
 三階から落ちた豆が下へ回るや否や、大きな麻風呂敷あさぶろしきが受取って、たちまちかまの中に運び込む。釜の中で豆をすのは実に早いものである。入れるかと思うと、すぐ出している。出すときには、風呂敷の四隅を攫んで、濛々と湯気の立つやつを床の上に放り出す。赤銅のような肉の色が煙の間から、汗で光々ぴかぴかするのが勇ましく見える。……彼等は胴から上の筋肉をたくましくあらわにして、大きな足に牛の生皮きがわを縫合せたかたい靴を穿いている。蒸した豆をで囲んで、丸い枠を上から穿めて、二尺ばかりの高さになった時、クーリーはたちまちこの靴のままわくの中に這入って、ぐんぐん豆を踏み固める。そうして、それを螺旋らせん締棒しめぼうの下に押込んで、をぐるぐると廻し始める。油は同時に搾られて床下の溝にどろどろに流れ込む。豆は全くのかすだけになってしまう。すべてが約二三分の仕事である。……
                 * 

 絶え間なく「三階へ上っては、また三階を下る」苦力クーリーの姿は、わたしには一九四二年に書かれたアルベール・カミュの『シーシュポスの神話』*3を彷彿とさせるところがある。それを明治四十二(一九〇九)年の旅行者だった漱石がどう見たかについては、彼の書いた文章そのもので推し量るしか手がない。

 それはともかく、漱石とは違ってコマは、自分の事情で「女版大陸浪人」を自称した元気で我儘で若いじゃじゃ馬で、しかも自分を旅行者とは思っていなかった。だから、クーリーの姿に、万一漱石と同じような感興を覚えたとしても、時間の経過と共にとりあえず心の底に沈むにまかせ、その後も思い出すことは、ほとんどなかったはずだ。

 到着した大連で友人の家族に話をつけると、彼女は心の吉三郎を探して、まず大連の県人会に通うことから始めた。だが、どうにも巡り会えず、噂も聞けないまま居候を続けるうちに、友人の父親に連れていかれた県人会関連の或る懇親会で、逢沢喜一郎という満鉄の職員を紹介され、彼の手引きで、当時はこれも満鉄のスタッフとして奉天で勤務していた前川仲三と会う。

 彼もコマと同じく家や家族を捨てるようにして満洲に来た(その内実はまるで違っていたけれど)、いずれも同じ宮城県出身の人物だった。仲三は、仕事が休みになると、逢沢の誘いでわざわざ奉天から、大連で開かれる県人会系の会合、並びにキリスト教会に来ていた。コマも、当時は、まだ奇妙な黒い牧師服を着ていた仲三の姿を見知っていたはずだ。

 大連の街には、これよりやや後に、「てふてふが一匹韃靼だったん海峡を渡って行った」という、「春」の題で知られる一行詩を書いた、モダニズム詩人の安西冬衛あんざいふゆえ*4が住んでいた。彼は、櫻花臺おうかだいという高台に住まいがあって、同人誌の編集仲間がいる伏見町という名の別の高台との間を、幾度となく行き来して文学に勤しんだという。原稿を抱えた彼が家を出ると、駅前の円形広場から放射状に広がる市街地を見下ろしながら櫻花臺の坂を降りる。

 降り切ると、次に路面電車、或いはときに人力車を使ったかもしれないが、幹線道路を西に向かって、やがて満鉄が経営していた植民者日本人向けの遊園地「電気遊園」に至る。さらにその脇にある坂を昇って、伏見町の高台へと向かう。昇り切ると一挙に視界が開け、目前には「リボンの如き」大連湾が見えたという。

 そのときの彼の身体からだに広がった解放感が、「春」に結晶したと本人も語ったらしいが、詩など書かない仲三もまた、安西の数年前にこの路程を何度か辿っている。コマの寄宿先が伏見町にあり、自分は大連に来ると、櫻花臺のキリスト教会付近に宿を取っていたからだ。

 だが、彼には安西と違って、「一挙に視界が開け」たその目前に「『リボンの如き』大連湾」を見出すほどの気持ちの余裕はなかったと思う。むしろ、この道すがら目に入る、中国人居住区に気を引かれる一方だったような感じがする。彼ら中国人の中には櫻花臺の教会の炊き出しに顔を出す者がいたし、稀には仲三のキリスト教に関する見識を頼りなく思うのか、聖書についてなかなか手強い議論を吹っ掛けてくる者もいた。そんな仲三には、安西らが味わったと思しい、「春」に結晶した当時の日本人に広く潜在した解放感への欲求を、自分の中に認めるゆとりなどは、なかったのではなかろうか。

 息子の慎二が、中学生になった或るとき、仲三と文学の話をしていて、たまたま持ち出したのが、「春」の安西冬衛だった。一つ上の世代で、会ったこともない前衛詩人を、慎二は、「アッ、安西冬衛はよくわかる」と言った。「カッ、彼は余計なことは言わない。でも、ミッ、見るべきものは見ていたから書くことができたんだ」――、「ハッ、『春』を書いたときだって、飛んで行くチョ、『てふてふちょうちょう』の羽根の遥か下方に、たぶん満洲のいろんな姿を見ていたんだと思う」。

 仲三は「ほう」とまだ十四、五歳の慎二が言ったことに驚いた。そして、『その安西という男の眼には何が見えていたんだろう、おそらく日本や日本人のことに限らないのではないか。中国人や朝鮮人、それとも満人や蒙古人たち、ひょっとして西洋人のことまで……』と、自分の教会通いを思い出しながら考えていた。 

                  *

 仲三と慎二の話にかまけ過ぎた。ここらで、コマの話に戻ろう。

 仲三が週末に大連に出てきて伏見町のコマの友人宅に誘いに現れると、二十歳はたちそこそこのコマは喜んで応じた。心の吉兵衛のことはまだ大事に思っていたものの、何かの進展があるわけではなかった。若者の寄り合いで八百屋お七を気取り、棘を抜く代わりに*5一度耳掻きをしてやっただけの男というのが実情だったので、満洲まで探しに来たというのに、すぐに探すのを諦めてしまった。

 と言うより、意外に親切な仲三と妙におせっかいな逢沢喜一郎がいたせいで、心の吉兵衛のことなどはどこかに置き忘れてしまい、それでさしたる傷も未練も残らなかったのだ。

 同県人の三人は、仲三と逢沢が若いわりに裕福な生活をしていたこともあり、コマを真ん中に置いて、よく大連の街に並んで遊びに出かけた。後々のコマの述懐によれば、逢沢さんという人はよく気がつくのだが、頻繁に日本に出かけてよく姿を消す上に、探るように人を見るところがあって、「悪い人じゃないと思うけど、いまひとつ馴染めなかった」らしい。

 それにひきかえ仲三は、まだ幼さが残るコマの目で見ても、経歴に反して田舎出が隠せない堅物で、口下手なくせに妙に理屈っぽいところがあり、そのくせ普段は寡黙で、サービス精神に欠けるところがあったが、それでいて、人の話を無理なく真っすぐに聞くところがあって、「蓼食う虫も好き好き」ではないが、「あの将棋の駒のような四角い顔が愛嬌に見えた」のだそうだ。冗談めかして言えば、「コマ」には将棋の「駒」のような顔をした仲三に対する、可愛いらしい本音が出たということか。

 二人は共に聴聞僧なるものを目指していると言っていたが、逢沢が聴聞僧(a confessor)を「他人の告解や懺悔を聴いて、よきアドバイスをする人」と型どおりに迷いなく言うのに対し、仲三は「聴聞は、聴いてなお聞くことです」とコマにはよくわからない難しげなことを、自分流に語っていたそうだ。結局、はしっこくて勘のいい逢沢は半年ほどで身を引き、コマは、自分に対してはつき合いがよいが、勘があまりよろしくない仲三と、それ故につきあうことになっていったらしかった。

 好奇心旺盛でどこにでも行きたがるコマに、仲三は最大限の配慮をした。自分では何が面白いのかと思うようなことでも、コマが望めば文句を言わずに不器用ながらエスコートし、彼女につられて自分にもだんだん興味が湧いてくるという、それまではついぞ経験がなかったことを彼なりに楽しむようになった。

 コマと知り会うまでは縁がなかった、満鉄の社員には何かと重宝だった「電気遊園」にも、人力車に乗って何度も遊びに行った。行きと帰りに通る常盤通りに、「さんざし売り」や、からつき/からむき/さとうまぶしと三つの種類がある「南京豆売り」などがいれば、コマが言わずとも車夫に自ら声をかけ、人力車を止めるようになった。そして、止まった人力車の上から手を出して、お目当ての品を受け取りながら聴く中国人の「謝々シェシェ」の声が、耳に残って心地良かった。

 二人で行く「大連神社」の境内などに、たとえば「けんかこおろぎ」の遊びに熱中する日本人の子どもたちがいれば、かがんだ子らの背中越しに立って、頼まれたわけでもない行司役を引き受けることさえあった。仲三のそれまでの人生には考えられないことだった。

 アカシア並木の、風向きで自分の声が変わる、不思議な楽器のような通りを、読んだばかりで面白いと感じた『聊斎志異』について語りながら歩いたことがある。そのときには、コマに「あたし、読んだことがない。聴聞僧で聴くことが専門なのに、今日はずいぶんとお喋りね」と揶揄われて照れ笑いをした。

 「西本願寺」の境内では、一向に意気が上がらない中国人の「猿回し」に放った投げ銭を、横目で睨む疲れた様子の猿に、声をあげて笑った。

 大連港には、下船すると、乗降口が一階と二階にわけられた満鉄の引き込み線がある。その巨大な建物から出てくる色とりどりの乗客の頭上遥かに、壮大な「がんの渡り」を仰ぎ見る幸運に昂奮したこともあったし、その同じ空に、思わず海の向こうの「祖国」を思いやる仲三の横顔を、コマが不思議そうに見つめたこともあった。

 「星が浦」の海岸で、仲が懇意にしていたロシア人技術者に行きあわせ、一緒に満鉄経営のレストランに入って、彼の薦めで初めて口にした蜂蜜のかかったチーズ、それに、噛みしめたカルパスやクラコウの味の感激も忘れられない。

 まだある。「ドレス・コード」に合わせて、ときに借りた和服に羽織を羽織り、足袋を履いて草履で出かけた、できてまだ間もない、ヤマトホテルの「ルーフガーデン」で満喫した、夏季限定で異国情緒いっぱいの食事と、夢みたいに甘かったウエハスのついたアイスクリーム。

 ホテルの帰りに駅に向かうと聴こえてきた、銅鑼どら喇叭らっぱの音やのぼりが風に揺れる音、そしてアカシアなどの木々の匂い。

 「電気遊園」のメリーゴーランドに乗った直後に立ち寄った「連鎖街」の、裏の小道に染みついた大蒜と油の匂い、遊ぶ子どもたちの洟水はなみずと涙、道端の春餅チュンピン屋の古い煉瓦造りの釜の色、壁に凭れかかって一休みする人力車をひく中国人の車夫の背中、綿のはみ出した満服を着た満人たちの干からびたような後ろ姿……。

 街に日がな響く你好ニイハオ再見ツァイチェン謝々シェシェスパシーボありがとうコンニチハこんにちはといった、威勢のよい声や気怠けだるそうな声……。

 県民会で会う誰とでも、或いはホテルの食堂で会ったばかりの誰とでも、友とは言わないまでも、すぐに親しくなり、面白いこと、面白い場所、美味いもの、楽しいものがある場所などを聞きつけては仲三を誘い、しっかり実を取る彼女の一連の行動力に、気をつけなければと思いながらもついつい気を惹かれ、仲三は結局、気持ちよく彼女の言いなりになるのだった。

 そんな彼が、たった一度だけ自分から誘った催し物があった。日本人向けの幼稚園で開催された、無料のコンサートだ。仏教の布教師をしている坊さんが、自分が楽器を教えていた信徒とその友人たちのために開いた催しで、バイオリン2台とヴィオラとチェロの弦楽四重奏、及び布教師自身のバイオリン・ソロが披露された。コマは、「耶蘇の牧師さんが、仏教のお坊さんの、それも西洋音楽の演奏を聴くって何か変な話ね。あたしは、ジャズか、そうでなきゃ、いっそ浪曲か何かのほうが好きなんだけど」と言いながらもついてきた。

 しかし、自分でトランペットを吹いたり、バイオリンを弾いていた頃の感覚が懐かしくて誘った仲三は、演奏そのものがあまり芳しくなくて感心できず、演奏者に失礼だと思いながらも、コマを気遣ってヒヤヒヤしながら聴き、すっかり疲れてしまった。コマは「まあまあ、よかったわ」と無造作に慰めてくれたが、後に、ロシア革命で哈爾賓に逃れてきた白系ロシア人演奏家が中心の「東支鉄道交響楽団(哈爾濱交響楽団)」や、憲兵出身で「滿洲映画協会(満映」の理事長だった甘粕正彦あまかすまさひこの肝入りでできた、日本人に加えて朝鮮や中国の演奏家も加えた「新京交響楽団」といった、人気を呼んだプロの交響楽団ができて、頻繁に本格的な演奏旅行を繰り返すようになっても、もう二度と演奏会に行くことはなかった。

 しかし、コマが望んだヤマトホテルでの宿泊を機に、二人はさらに近づき、やがて結婚することになる。一九一八(大正七)年、第一次世界大戦が終わった年だった。余計なことだが、この年も午年うまどしだった。それからコマはいったいどういう人生を生きてきたのか。

 ここでも、仲三や慎二と同じくコマについての、もしソーシャル・メディアがなかったならばおそらく書いていない二〇二〇年六月十九日の、遅すぎた追悼文を読んでいただきたい。

六月十九日 私のばあば

 母方の祖母・コマは日清戦争のあった一八九四(明治二七)年に産声を上げている。北仙台にある小さな鉄工所の長女で、行く行くはしかるべき婿をとり、下町の中小企業の社長夫人になるべく育てられた。

 うま年生まれのお転婆で駆けっこが何よりも好き、身内には「丙午ひのえうまでなかったのがせめてもの救い」と言われたという。若い頃から「新しもの好き」で、老境に至っても持ち合わせた子供っぽい好奇心が衰えず、一九七〇年代になって若者たちに流行し出したピザが美味しいと聞くと、八十が近かったにもかかわらず、着物姿で、自分では「サロン」と尻上がりに発音していた繁華街の流行はやりの喫茶店に、一人で食べに出かけたり(サロン・ド・何とかという若者向けの店だった)、一九六〇年代にまだ小学生だったわたしが、しきりにジェームズ・ボンドのシリーズものスパイ映画「007」の話をするのを聞いて(サイレンサーのついたワルサーPPKの話など。そのときに来ていた映画は「007ゴールド・フィンガー」だった)、「一緒に行こう、あたしもボンドを観てみたい」と言って映画館に連れて行ってくれたりした。

 こっちは祖母の連れ添う「お色気たっぷりのスパイ映画鑑賞」のかもす違和感に戸惑いながら、小学生一人ではさすがに入れてくれないので、背に腹は代えられず、おとなしく観たことを覚えているが、映画館前の路上で開場前の行列に並んでいるとさすがに気恥ずかしく、級友たちと会わなければいいがと身を縮めていたものだ。

 お婆ちゃんと一緒に、金粉を塗られた裸の金髪美人や、サイレンサー付きのワルサーPPKを持ったショーン・コネリーの大きな看板を見るなんて、全くたいした度胸だわいと呆れるが、そうまでしても観たかったのだと思えば、今となってはいい思い出だ。

 帰りに、巌の兄・勘四郎が経営する鮮魚店が出入りしている彼女の好きなレストランで、お気に入りのチーズ・フォンデュを食べさせてくれ、「デートみたいだね」などと言っていた(しゅうとめ娘婿むすめむこの兄のお得意さんを利用して少しも憚らなかったわけだが、これは彼女のような引き揚げ経験でもなければ、あまり例のない話なのかもしれない)。

 中学生になって、風呂上がりにバスタオル一枚でいるわたしを見つけると、「この子は、あたしの前では裸でも平気なんだ」と、母に無神経で的外れな自慢をしたりしていた――気を遣い、あえて否定はしなかったものの、こちらとしては<婆ちゃん、そりゃ行き過ぎだ>とバスタオル姿のまま困り果てて突っ立っていたものだが、本人はそんなことには、てんで気にもしないのだった。

 女学校を出ると、二十歳はたちで親が誂えようとしていた結婚を、うま年らしく素知らぬ顔をして後ろ脚で蹴飛ばし、満洲にいると思しい男友だちを探して、家出同然に独りで彼の地に渡り、そこで上級学校を目指したとか目指さなかったとか親戚の間には諸説があるが、どちらにしてもそうはならず、と言うよりまるで、かなわないことを計らったかのように自分と同じ仙台出身の祖父と出会い、やがて結婚した。祖母本人の韜晦気味の照れと笑いが入った言い草によれば、「デートでお互いの見果てぬ夢をつぶし合って、一緒になった」、あるいは「冒険しようにも、もう行く場所がない満洲だからこその結婚だっちゃ」ということになる。一九一七年のロシア革命の翌年、シベリア出兵のあった一九一八年のことだ。いいものが食べられて幸せだったと言っていたが、それ以上のことは口にしなかった。

 わたしには四歳上の姉がいて、彼女にとっては大きくなると「コマさん」と呼んだ、自慢の「かわいいお婆ちゃん」だった。わたしも成人するころには、美人ではないけれど、若い時は溌剌とした魅力のある人だったのだろうと、怪しみながらも思うようになった――怪しんだのは、ときに自分のことをオレと呼ぶ、昔の方言っぽい一人称を使ったり、田舎道の木陰など場所が許せば、裾をからげて立ったまま小用をすませるようなところがあったからだ。ともかく、快活な純粋さのようなものに加えて、男勝りの無神経とでも言うか、デリカシーのなさも併せ持っていた。わたしにある「鈍さ」は、ことによると彼女から引き継いだのかもしれない。

 ちなみに、「わたし」ではなく「あたし」という一人称は、満洲で身につけたものらしく、それまでは昔ながらの「オレ」を使うことが多かったという。わたしが高校生の頃には、都会の若い人のなかにも、ときに「オレ」や「ボク」を使う女の子がいたけれど(わたしが高校生のころに好きだった今風の女の子にもそういうところがあった)、あれとはどういう関係があるのだろうか。少女っぽさを残した妙齢に近い女の子が、異性を念頭に「ボク」や「オレ」と自称する幼い艶っぽさとどう関係しているのだろう。上手い説明でもあれば、教えてもらいたいものだ。

 ともあれ、「婆ちゃん」が亡くなった今となっては懐かしさが募り、彼女のことをもっと知りたくなっている。宝探しでもする気分で、もう少し戸籍をさかのぼってみようか。だって、昔から「瓢箪から駒」と言うじゃないですか――ねえ、「コマさん」。

 仲三の手帳などに比べると、コマには具体的で細かな情報が少ないことは否めない。しかし、コマが一貫してコマであり、自分を変えようなどとは考えたこともなく、と言うより、変わってもなおコマのままで、良くも悪くも与えられた天性を存分に生きてみせたことは否めないだろう。始めは娘だてらに破天荒な夢を見て、その勢いにまかせて満洲に渡ったにせよ、それも行動力という現実的な力に支えられてのことだったし、満洲に着いてからの彼女は、片時もしたたかな現実感覚を手放すことがなかったのだから。

 それは、敗戦後の引き揚げの際に哈爾濱の駅頭で行われた中国共産党による検問でも、帰国船に乗る葫蘆島ころとうを前にした錦州きんしゅうの収容所で,孫の紘子を失くすという悪夢を見た後でも、さらには、たどり着いた仙台で何一つないところから始めざるを得なかった戦後の生活でも、寸分も変わることはなかったのだと思う。

 たとえば、実家との関係の回復がその表れの一つだった。三十年以上も前の娘時代に、家出も同然で、親から見れば啖呵を切るようにして出てきた実家だったが、長きにわたる満洲暮らしは、彼女から家を出るきっかけになった、現代版「八百屋お七」の夢の残滓を綺麗さっぱり洗い落とし、満鉄勤めの仲三との結婚、成績優秀でいい学校に入った長男・長女・末っ子の存在、さらには憲兵の巌と次女の綾との結婚など、孝行娘とは言わないまでも、むしろ須崎家自慢の「鉄工屋のお七」として早くから地元の評判になり、幾度か里帰りを繰り返すうちに、望まずとも家出前の位置を着実に取り戻していった。

 敗戦後の鉄工所は、嫁を迎えた須崎家の次女の二人の息子が――仲三が山の中で消息を絶った際に、取材を受ける小学生のわたしに付き添った、コマの甥たちである――力を合わせてペダルを踏みしめる時代が来ていたが、コマは、夫の病死に戦後の混乱が重なり、少しく気を病んでいた二つ年下の妹の頼れる姉として、よろず相談役的な役回りでしっかり実家に喰い込み、頻繁に出入りするようになった。須崎鉄工所の仲介で、引き揚げ直後に寝起きする貸部屋を融通してもらったり、自分たち老夫婦と、シベリアに抑留された夫の巌がいなかった綾を加えて、三人の暮らしを立てるために、何かと便宜を図ってもらっていたりした。

 この頃、コマは五十一、二歳。還暦を控えて何かと衰えが見え始めていた仲三をさて置き、いまや隠れた丙午ひのえうまぶりを存分に発揮して、すこぶる元気なのだった。●

6. 引き揚げ 

 蓉子とわたしの記憶では、引き揚げについては、コマや仲三に限らず綾からも、そして彼らと一緒に帰ってきた勘四郎や絹代からも、詳しく聞かされた記憶はない。わたしが覚えているのは、子らが死ぬ前の、我が子を偲ぶ思い出話だけだ。

 ソ連軍によってシベリアへ抑留され、一人ぽっちの帰還兵になり果てて、皆より二年遅れて戻ってきた巌の口からも、戦後にどう生活を始めたのかといった、今につながる戦後日本での苦労話を聞くことはあっても、帰還にまつわる何らかのエピソードを聞かされたことは、やはりなかった。

 戦争の記憶についてのデオドラント文化というか、戦争にまつわるネガティブな思い出は、自らの異臭が絡みついた体臭を含めて残らず消そうとする、国民レべルでの機制でもあったかと思うほどだ。

 父が死んだときには、小学六年生の蓉子を筆頭に、わたしや林太郎は三人とも子どもだったから、聞く側に聞く気と聞く能力がなかったという問題はある。それにしても成長した子どもとして言わせてもらうと、これは父に限らず冷淡すぎる、と言うか、実はかなりひどい話なのではないか。彼らは、戦争については、ほぼ当たり障りのない一般論に終始して、個人レベルの具体的な話を持ち出すことに関しては、慎重に口を閉ざしていたと言わざるを得ない。

 以前は本土の者が「引き揚げ者」を邪魔にして、迷惑がるということがあったとはいえ、少なくても東京オリンピックを数年先に控えて、「そのころは東京の本社にいるだろうから、みんなで開会式を見に行こう」と言ってみたり、「そうなったら家も広くなるから姉ちゃんにはピアノを買おう」とピアノを習い始めた蓉子を得意のチラ目で見やり、「グランドピアノがいいかな」などと言って、「お父さんの目は嫌らしい」と言わせたり、綾や親夫婦だけではなく子どもたちも巻き込んで、硬軟取り混ぜた彼なりの団欒の演出に心を砕いていた父が、一方ではまだ二十年も経っていない自分の戦争体験について、外はともかく、家族相手にもほとんど何も話さないとは一体何なのだろうと思いもする。

 それが大人になればわかる世間では当然の姿だという声が、どこか深くから聴こえてくるのを、相も変わらずに自覚しながらも……。

 ……このことについては、「早熟な世間知らず」などと言ってわたしを揶揄からかいいながら同意もしてくれる比較的仲の良い同年輩の友人たちがいたものの、辛辣に言えば、「お前は、人の苦しみを忖度できんのか」と、怒鳴り声を出しそうな者も大勢いた。「お前には『惻隠の情』がないのか」というわけだ。……ここは正直に言う。ないわけがない。「オレもこの地で生まれ、この地で生きている日本人だ。『惻隠の情』がなければ、生き辛いことくらいは、当然知っている」と、訳知り顔で生意気に思いもした。

 しかし、今になってもそういった「旧来の日本的な自然」に抗う、こう言ってよければもう一つの、より人工的な括弧つきの「自然」に従い、「旧来の日本的な自然」にくみすることを良しとしない自分がいる。何故なのか。いったい何故こうなるのか……。

 三十歳を過ぎた八〇年代に、思うにまかせなかった演劇の世界から身を引いて、既成の組織社会におずおずと足を踏み入れ、九〇年代になって、漸く出版の業界で半人前の仕事をするようになったわたしが、一九九七(平成九)年に刊行された加藤典洋*1の、当時は賛否両論がかまびすしかったものの、半世紀が経つ今では紛れもない名著として知られるようになった『敗戦後論』という、それ自体が濃厚な文学の匂いがする評論を読んでいたときに、それとは全く関係のない業務資料を、非常勤講師として通っていた或る大学の、休日出勤で人のいない、やけに広く感じる事務用オフィスで、二年前の一九九五年に発売され、瞬く間に世間を席巻した「Windows 95」と格闘しながら作成していると、『敗戦後論』の内容というより、むしろ読んだばかりの加藤氏の粘っこい文体の力に引っ張られて、ゆっくり頭をよぎっていく乱雑なものに、なす術もなく我が身を任せたことがあった。それら過ったものとは、たとえばこんなことだった。

 自分が経てきた苦労や苦難、そして受けてきた被害や屈辱については、自らが他に及ぼした加害や虐待などの話と違って、少しは話しやすいだろうし、ときにはほとんど無意識で、実情をり気なく盛ってみせる人だっていなくはない。戦後に語る戦時の被害であればまた一入ひとしおで、場合によっては、訪ねた道場の羽目板を蹴り破るような勢いで自説を言い募り、鬼の首でも取ったように当たり散らす者までいる。

 それはそれで良しとしよう。自分も「戦争を知らない子どもたち」などと言って暢気に開き直ってみせるタイプではなかったこともあって、若い頃は保守的な世間に対して、被害者の末裔を気取って、迷いなく盾つきもしたのだから。

 しかし、最近は耳が悪くなったのか、加害の記憶は何処かへ放り出して、被害や屈辱だけを言い募る話には、どうも片手落ちな感じがするのを否めないし、聞いていると正直言って疲れてしまう。聞こうにも耳がついていかない感じなのだ。

 「もう聞き飽きた」と言ってみたくもなるのだが、それでは注文がきつ過ぎる、被害と加害の問題は、分けて考えなければと無理をしたとして、頭はともかく、そもそも「からだ」が上手く受け入れてくれない。

 その一方で頭に浮かぶのは、「秘め事は秘めたままで、墓場まで持っていく」とでも言い捨てるかのように、まるで証拠はわたしも隠滅すると言わんばかりの頑固さで、加害については何も語らず、口を割らないままで死んでいった人たちのことだ。

 自分の近親者たちは揃いも揃って、なぜ隠し事でもするかのように、口を閉ざして死んで行ったのか――ふと思い浮かぶそんな思いが、仕事の手を止めてしまう。単に思い出すのが辛かったのだろうか。それで当事者同士に<無言のコミュニケーション>とでも言うべき、戦後生まれの人間には計り難い、閉ざされたシビアな世界が成立していたのか。

 それとも、辛さの中には、息抜きも含めていろいろなことがあり過ぎて、まとまった言葉にすることができなかったのか。あるいは、無から始めた戦後の新生活の中には、『仁義なき戦い』の広能昌三*2たちが味わったような、すべての気がかりを些細なこととして、何処かへ吹き飛ばしてしまうほどの、暴力的な官能性があったとでもいうのだろうか――。

 わたしには、思ってもみないことだったのだが、そんなことを考えて茫然としていたときに、突然、自分のなかに眠っていたらしき遠い記憶が三つ、間歇泉のように次々に噴き出して来た。

 一つは、父の死で、仙台に戻ってすぐに遊びに行った、自分と同じく転校してきたばかりの級友の家で味わった、小三のときの、苦いやりきれなさが残った孤独な思い出。

 次は、新潟で二つ目の家に引っ越す前に、古い木造りの社宅の玄関先で起こした、父と幼いわたしとの揉め事の記憶。

 そして最後が、それよりさらに以前の、新潟に行く前に住んでいた、上物だけが我が家自前のものだった、二軒長屋のコンクリート張りの風呂で父から受けた、虐待めいた仕打ちの生々しい記憶だった。

 一つ目は、M君という東京から転校してきた、父親がNHKに勤務する男の子の、広い庭に椎や欅の木が鬱然と葉を開く、高い石段を昇った場所にあった自宅に、転校生同士ですぐに気心を通わせたわたしが、一人で遊びに出かけたときのことだった。眩いほど広い庭の木々に、少し翳り気味だった彼の勉強部屋で初めて遊ぶ「人生ゲーム」という遊びに興じていたときに、上品で人当たりのよい彼の母親が、トワイニングの紅茶と繁華街に店がある仙台では有名な洋菓子店「幸福堂」の苺ケーキの乗ったお盆を持って入ってきて、子供向けの世間話をしたあとに「鵜飼君のお父様は、何をお仕事になさっているの」と聞かれたのだった。 

 小学の三年生になったばかりのわたしは、何か得体の知れない圧を感じて、咄嗟に「○○生命で働いています」と父・巌のいた保険会社の名を答え、家のことは父の死を含めてそれ以上何も話さず、やがて一人逃げるようにして帰った。

 そして、会社の名以外に何も言えなかったこと(父の死を隠したこと)のやましさに気もそぞろな何日かを過ごした或る日、授業が終わってランドセルを背負って引き揚げるところを、担任の初老の女教師に引き止められ、職員室で「昨日、森君のお母さんがみえたわ。鵜飼君のお父さんのことを知って、悪いことをしたと言ってらした。謝ってすむようなことではないけれど、鵜飼君にはまた遊びに来て伝えてくださいくださいって」と辛そうに告げるのを、生傷に塩を擦りつけられるように聞き、母への申し訳なさにさいなまれると同時に、父がいないというどうしようもない事実を、今更のように思い知ったのだった。

 二つ目は、落ち度のない自分を誤ってなじった父の勘違いを許せずに、「違う」と呟いて、それ以上喋ると涙が溢れ出そうなのが悔しくて、玄関を飛び出し、一目散に走り出したわたしを、それと気づいたのか、下駄履きで大急ぎに追いかけて来た父が、息子に向かって頭を下げたときのこと。近づく煙草臭い息を吐く彼の笑顔が、初めて見る他人のようで、親身でありながらもどこかよそよそしい、自分には永遠に馴染まないもののように思えた。

 そして三つ目。幼い自分が、父と母の三人で入っていた風呂から、「出ていけ」と大声で怒鳴る父に追われ、泣き声をあげて洗い場を出る裸の背を、濡れたタオルで追い立てるように二度、三度と、叩きつけられた記憶。素早く振るう濡れたタオルが、なぶるようにわたしの背中を叩くと同時に、そのタオルをゴムのように手元に引き寄せる父の慣れた手つきを背中に感じながら、わたしは泣き叫んで一人風呂場を出た。そのときは、肩まで湯に浸かっていた母が、泣き叫びながらも「助けて」と、背中で訴えていたに違いないわたしに声をかけず、父を責めることもなく、じっと自分を隠したままだったことに、閉じた大人に子どもが感じる巨大な寂寥と、絶望的でどこか卑猥な印象を、全身で受け止めていた。

 怒られた理由も忘れておいて、今頃になって不満だけを言い募っても通用しないことは承知の上だ。ただ、その時の父の印象には、普段は穏やかでエネルギッシュな親しい父親でもあった彼が、突然口汚く「チャンコロ」や「露助」*3と躊躇いもなく言うのを聞かされたときのような、どうしようもないやりきれなさと、それに倍する待ったなしの恐怖とがあったように思う。

 友人に電話しようと、『敗戦後論』に関する考えをまとめようとしてグズグズしていた矢先に、白昼夢のように飛び出して来た、長らくわたしの中に眠っていた記憶の、突然の生々しい噴出に、いきなり過去に揺り戻されたわたしは、記憶の辺境を内からこちらに向けて吹いてくる、寒々しい隙間風に身を晒しながら、しかし同時に別の次元では、こうも考えていた。

 ――引き揚げに限らず、語ることが少なかった戦場の体験を持った「彼ら」には、「銃後」の人たちの被害の言説にも揺らぐことがない、自分では自覚しきれない衝撃を隠し持った加害の記憶が、悪所のおりのようにたまっていて、忘却と反省を促す矛盾した力の間を縫って、意識と無意識とを行き来しながら、出し抜けに立ち上り、出し抜けに跳び跳ねる心の疼きを引き起こしつつ、罪の塊という自分に関する抜きがたい意識を、強く呼び覚ますことが避けようもなくあったのではないか。

 そして、わたしに起きた唐突な記憶の跳躍とその呼び戻しは、どうしたわけか、それまで持っていた「彼ら」のイメージを一律に小さくし、矮小にさえして、わたしの心に、彼らにとっては現実でも、わたしにとっては幻影にも等しい、軍隊生活と戦場での彼らの足跡めいたものに、遠慮のない妄想を巡らす余地を与えもしたのだった。まるでわたしが、戦場を描く現代のノンシャランな劇画家にでもなりおおせて、「彼ら」を皆、リアルな戦争を知らぬ、現代人のスケールに見合った劇画の悪役に改造してしまうかのように。

 わたしは戸惑っていた。端的に言って「正」と「悪」などではなく、それ以前の「あるか」と「ないか」の区別さえできないのだった。気が滅入り、このまま逃げ出して、どこかに入り込めないものかと、できもしないし、多分、しもしないことを上滑りに考えた。

 父を含めた想像上の「彼ら」の生活や戦争、さらに満洲で「彼ら」の傍にいた家族をはじめとするさまざまな人について考えることに、絶望的とも思える困難がやって来たようだった。

 自分で経験したわけでもない満洲という土地や人間たちの生き様を、現実の自分をまやかしの生贄に差し出して語るなんて、できない相談だとも思った。

 そこには、自分を悪に仮託して「悪」をいったんてのひらに乗せ、そこではじめて手にする錯覚の「正義」で、「悪」を叩こうとする、言い換えれば、悪魔に身を売って「悪」を知ったつもりになった者だけが、正義の名のもとに「悪」を叩けるとでもいったような、観念的で、かつあってはならない「ねじれ」があると感じられた。「ねじれ」という奇妙に生々しい言い方を教えてくれた『敗戦後論』の読者には、絶対にあってはならない後ろ向きの「ねじれ」が……。

 ところが、わたしには、もう一つの「ねじれ」があった。

 「考えても駄目だ」と思う間もなく、まるで「ひねり揚げ」のように「ねじれた」気づきが頭を襲い、世の中には、被害はもちろんだが、加害についても、たとえば大岡昇平の『野火』*4や武田泰淳の『審判』*5といった、表向きはフィクションともノンフィクションともつかぬファンタスティックで不気味にアクチュアルな、敢えて言えば、当事者たちの、ときに魅力的な言葉があることに思いが至ったのだ。

 たとえば、映画『日本鬼子リーベンクイズ』*6( RIBEN GUIZU JAPANESE DEVILS )の元皇軍兵士たちの「日中15年戦争」における己の加害体験を、躊躇いもなく、まるで見てきたように語ってみせる数々の自分の所業に関わる告白はどうだろう。それが勇気のある言明であることは間違いないにせよ、また、中国による寛容と言ってもいい戦犯裁判を経てきた者の言明であるにせよ、彼ら自身が関与した惨劇を語りながら見せる極めて日常的な、やるせないほどに普通の表情は、彼らがかぶる日ごろの仮面の上に貼り付けてみるならば、彼らがたとえ存在論的に痛んでいるにせよ、表向きは何の違和感もない当たり前のものなのではないか。

 つまり、ああいった惨劇を引き起こした当事者が、あのように自然な表情で語ることができるという、『日本鬼子リーベンクイズ』たちによって証明された人間の能力は、特殊なものでも何でもなく、自らの罪科を一度公的に認めたうえでのことであるにせよ、人間性における普遍的な不条理なのではないか。

 そのときわたしに、自分が半世紀以上も前の六〇年代末に馴染んだ、今は忘れたはずの口調が甦り、左翼でもなく右翼でもないノンポリ(ノンポリティカル)学生として運動に参加したこともあった当時の自分が、舞い戻ったかのように、こう考えた。

 ――なあ、内に向かう存在としての自己肯定(≒自らの障碍者性の承認)と、外に対する倫理としての自己否定(≒否定すべき自己が存在するという事実の肯定)の調合と深化の頃合いが、いまほど大切なときはないのじゃないか――。

 昔と違って、誰に向かって言っているのかもわからないまま、少なくても自分にとっては、父や自分をも含むかもしれない「彼ら」を目の前に引き出してくるために、そういう曲芸的な言葉の操作が必要になりそうなのであった。

 ここで話は、時間を跳ぶ。東京で、わたしが非常勤で通っていた大学に、初めて休日出勤したあの日の十四年後、二〇一一年の三月十二日に。

 この日は前日の3・11東日本大震災で起きた、交通機関の麻痺にも関わらず、隣人から自転車を借りて出勤した。そして、いつも通りの煩雑で日常的な資料作りを、時間に追われて進めていたわたしは、十四年前の、同じく人のいなかったオフィスで味わった、日常的な忙しさの中で、それとはまったく無関係の記憶が、じんわりと頭をよぎっていく体験を繰り返すことになったのだった。

 まず福島の原子炉の問題。これについては、四年ほど経って、社会学者の大澤真幸が、わたしの仕事上の知りあいだったプロ演出家との対談のなかで、以下のような発言をしていた。当時のわたしには言葉にできなかった思いを、後になって予言してくれたような、何とも印象の強いコメントだった。

*      

 事故が起きる前の二〇一一年の三月十日までは、多くの人が、原発事故が起こりうることを知っていたけれど、まさか実際に起こるとは思っていなかった。でも、あの日僕らは、実際に起こることを思い知ってしまった。そのときに何がわかるかというと、こういうことです。起きてしまった現実はもう変えられないわけですが、同時に、起きてしまってから振り返ってみれば、なぜと思うことがいっぱい出てきて、防げたこともあったはずだと逆に思うわけです。そういうことは、戦後の歴史の中でも、小さなことから大きいものまで含めて、たくさんあったと思う。……

 ……だから、起きる可能性を知っているだけでは避けることはできないのです。起きてしまったことを避けられない宿命だったと知ったときに初めて、逆に避けられた可能性があったことがわかるわけです。……

 ……日本でもう一回原発事故が起きると考えてみて下さい。そのときの日本人は、なぜあのときに廃炉にしなかったんだと思うに決まっています。いいチャンスだったじゃないか、なぜあの時に決断できなかったんだと思うに違いないのです。その気持ちを、今の段階で持つことができたら、やめられるわけですね。つまり、十年後に原発事故が起こると強く信じていれば、逆にやめられることになる。

 黙示録的な終末観には、終末の破局が避けられないというわけではなく、避けられないという確信を持っているからこそ、そこから逃れるための想像力が出てくるという逆説があるんですね。*7 

 次は、強いられてなす悪という、本人の足元をすくう油断ならぬ問題。

 たとえば巌は、一九四一(昭和十六)年に憲兵試験に合格している。容易に終わらぬ日中戦争に耐えることができなくなった大日本帝国が、自らを押さえ切れずに、対中に加えた対米・対英・対連合国の大東亜戦争(第二次世界大戦)に拡大させた年だ。だが巌は入隊して以来、或る引っ掛かりがあったため、一度も昇進試験を受けていない。

 戦争初期の華々しい戦果に、盛り上がる心を押さえられないのは、巌もまわりと同じだったが、それだけに一層、その引っ掛かりが気になって身動きが取れなくなっていたのだ。

 引っ掛かりとは、端的に言って「拷問」のことだ。もちろん憲兵が受ける拷問ではない、憲兵がなす拷問のことだ。いや、たぶん、いろんな意味でなさずにはいられない拷問のことだ。

 これについては、『聞き書き ある憲兵の記録』*8という一九九一年に刊行された、先の映画『日本鬼子リーベンクイズ』のなかでも証言している元憲兵の、日本人に限らず誰にとっても読むに値する、「なさずにはいられない拷問」の記億が、強い説得力をもって、詳細に記述されている。以下にその一部を引用する。

……その伍長は、言葉からいって東北人ではなかった。ほおがこけ、目が鋭かった。……伍長が命じたのは、「こん棒を持ってこい、それも生木の丈夫なのだ」。これで殴りつけろ、という。○○の頭に浮かんだのは、「何も生木のこん棒でなくても、相手は人間なのだから、せめて竹刀しないででもいいではないか」という思いだった。だが、伍長の、それも実務を教えてくれようとする上官の命令だ。○○と同僚の上等兵とで、こん棒を振り回した。男は殴りつけるたびに、「ウッ」「ウッ」と声を立てたが、何も言わなかった。着ている綿衣からほこりだけがあがった。

 効果がないのが分かると、伍長は、机を二列にして、積み重ねさせ、上に棒を渡した。……この棒に、両手足を麻縄で縛った男を後ろ手にしてつるした。体の重みを不自然な形の両腕で支えるのだから、苦しい。それも一時間、二時間の単位だ。はじめ真っ赤になった男の顔は、青ざめていき、脂汗をにじませてきた。だが、何もいわない。「こんちくしょう」と、伍長は十キロもある石を軍馬手に持ってこさせ、浮いていた男の足に結びつけた。両肩の関節がゴクッとなった。「ウーン」とうなり、男は気絶した。

 ○○たちは、男を棒からおろしてやると、にわか仕立ての留置場にした一番奥の部屋に連れて行き、柱に縛りつけた。……この日の拷問が終わり、○○はホッとした反面、「あれだけ痛めつけられたのに吐かないのは、抗日分子の中でも相当の大物ではないか」という気持ちがわいた。それは、自分が捕らえた男への一種の期待感でもあった。 

 拷問は、この後も<焼きゴテ>、<水責め>、丸太を三角柱に削って角の部分を上に三本並べ、その上にすねをあてて座らせたうえに、○○らを上に乗っからせるという<ソロバン責め>と、二、三日に渡って続いていく。

 ……心のすみに、指南役の憲兵伍長が特別の人間ではないか、と思いたい部分もあったかもしれない。……「この伍長は異常なんだ。憲兵すべてが残酷なわけではないはずだ」。そう思うことにより、せっかくなることのできた憲兵をやめたくなかったのだろう。だが、それもつかの間だった。あれほど痛めつけられ、ようやく拷問の苦痛から逃れることができた男を、あっさり、試し斬り用に、と引き渡してしまった。品物でもやるように、満洲国軍の日系軍官に身柄を渡したのは、その伍長ではなく、憲兵隊の班長格の軍曹だった。そして、男は殺された。
 
                *

 上官の目というプレッシャーにおびえつつ、自分の手で「拷問」し、「ひどい」、「異常だ」、「やめたい」と思いながら、「抗日分子の中でも相当の大物では」と自らの手柄を期待もする上等兵。現実に近づきつつあった手柄が「拷問」の過程で雲散霧消していくなか、吐かせることもできず、嫌疑の正当性さえ定かでない「やっかいもの」になった男を、「偽満洲国軍」の日系の軍官に渡すことで揉み消そうとする憲兵隊。○○上等兵は、日系軍官に連行された男が「日本刀の試し斬り」によって、墓地で首を落とされる現場を実際に見ている。自分も責任を負ったという危うい自覚の上で、この後、彼はどうなっていくのか……。

 この本には、「暴君治下の民は、暴君の暴よりも暴なり」という魯迅の言葉が載っている。誰が暴君だったのかについては取り敢えず、ここでは問わないにしても、善良だった民が、結局は「暴君の暴よりも暴」になっていくことが多いのは、残念だが、歴史的にも確かな事実なのだろう。

 親父がそうだったとしても、不思議はない――。3.11の惨劇が、まだ心に響ききっていない、反応が鈍いわたしの胸に、一日経ったフクシマの悪夢が、次第に形をとってくるにつれて、漸く自分の亡き父への疑念を巻き込んだ形での、「世界の破滅」という悪夢のリアリティが、鬱勃として湧き上がってきた。

 誰もいないオフィスの、コンピュータが並んだ幅広い一角に座り、ポータル・サイトのニュース画面に向かっていたわたしは、自分の背後を無情の噓寒い風が、音もたてずに通り過ぎて行くような、まるで野球で内野にポップフライが上がり、落ちてくるボールを見上げながら、高さの異なるマウンドに近寄っていく新人のセカンドがその足元に感じるような、立ち眩みにも似た、どうしようもない頼りなさに、身を任せるしかないのだった。

 巌は、憲兵試験の合格報告以来、何回か一人で前川家を訪ねた。迎えた前川家には、出征中の長男の壮一、女学校の女子寮にいた長女の光子てるこを除く子どもたち三人と仲三、コマの夫婦がいた。

 仲三は、キリスト教を離れて満鉄の仕事に専念していたが、聴聞を含めた人との行き来とやり取りについては、親鸞の仏教的な観点も加わって変わらぬ興味を保っているようだった。

 ――二人は向かい合い、仲三はもう何回か会って信頼していた同郷の巌に、憲兵隊での様子を尋ね、「兵隊がいつまでも浮かれていちゃ困るでしょう。ごん君たちにしっかりしてもらわんとね」と本名のいわおではなく、ごんという通称(綽名)で話しかけた。すると、巌は「兵たちについては仰る通りです。でも憲兵隊には解決が困難な大きな問題があります。実はわたしには、それで迷っていることもあるんです」と言った。

 そして、「問題の内実は言えない」と告げたうえで、憲兵隊を辞めることも迷い事の中に入っていると言い、「もし、お義父とうさん、わたくしが仮にそうなったとしても、わたくしを婿むこと認めてくださいますか」と続けた。

 「辞めることも考えている」と言った巌の、「問題の内実は今は言えない」という言葉は、さすがに気になったものの、たいていのことは気にかけないという義父としての覚悟と信頼が仲三にはできていたし、巌にもこの人には、綾に言えぬことでも相談できる、黙って聴くだけでもしてくれそうな人だという嗅覚に近い勘が働いていた。巌は、綾の夫というだけでなく、できれば仲三の女婿むすめむこという立場もまた、大事にしたいとはっきり思っていたのだろう。

 綾はその頃、コマが別室で娘を説得しようと「憲兵さんは何かと心配がなくて、いいんじゃないかねぇ。あたしは、文句なしでお薦めするよ」と言うのに向かって、「あの刀、長過ぎて引きずりそうよ。滑車でもつけないと恰好がつかないわ」などと言って、背は低く、気が強い反面、どこか卑屈な印象も否めない巌を無責任に笑い飛ばしていた。「あのチラッチラッと人を見る眼もどうにかしてくれないと。人を疑ってかかる出来の悪い間諜か、親の機嫌を窺う子どもみたい」だと――。娘がそう言うのをコマは、「嫌だよ、この子は。結婚話が進んでるのは自分だという自覚はあるのかしら」と思っていた。

 仲三はこの日、暇乞いをした巌が立ち上って一礼すると、玄関に送りに出ようと自分も立ち上り、「結論は今出さずとも構わんが、できればこれからは時折、君の話を聞き、僕の話も聞いてもらう『聴聞』の機会を持ちたいものだね」と偉ぶらずに言い、巌も悪びれずにそれに応じたそうだ。その後、二人の間でその機会が何度か持たれたようだが、その席で故郷と親を捨てた者同士だった二人の間に、どんな話が交わされたのか。それについては誰も知らされてはいなかった。

 巌は結局、敗戦の日まで、身分の点でも職務の面でも心積もりについても、一憲兵であり続けた。それが、よいことだったのか、そうではなかったのかは、誰にも分からない。

 戦後になって共に暮らした巌が逝ってすぐ、認知症の淡い兆しがあったとは言え、義父に過ぎない仲三が、巌の後を追うように自裁をやってのけたのも、さらに言えば、そもそも養子でもない巌が、仲三の息子の壮一や慎二や知己を差し置いて妻の両親を養い、仙台と新潟をまたいだうえに、自分が死ぬまで、三世代が同居する複雑な混合七人家族の長として暮らしたことも、共にそれぞれの実家を見限るようにして満洲にやって来た巌と仲三との間に、「聴聞」に関わる何らかの関係があったことを思わせる。その「聴聞」の席のいずれか早い時期に、仲三は「ほかにも何でも言ってくれていい。ぼくはいつでも君の話を聴いて、質問はしても決して他言はしないから」というようなことを言ったのではなかったか。

 だとすれば、あの人の目を窺うような癖のあった巌には、わたしに後の風呂場のタオル体験があったから言うわけではないが、人の命をなきものにした可能性もなしとは言えないのではないか。あの目つきは、人を我知らず殺めた人間が、辺りを窺う目つきではないのだろうか。それも戦場ではなく、あの上等兵の憲兵と同じような取り調べの場で……。 

 わたしは恐ろしくもそんな禍々まがまがしく、卑しいことを考えていた。そして、それは、人の気持ちがよくわからないくせに、人に必要以上に気を遣う、迂闊極まりない自分のような人間にもなくはないことだと思わざるを得なかった。あのような時代に若くして徴兵されていたら、何かの勢いでわたしが憲兵を志願することも、十分以上にあり得たに違いないのだから。

 あの上等兵が加わった、いろんな意味で「せずにはいられなかった拷問」をきっかけに死んだ中国人を前に、そのときのわたしには実の妻と息子がいたにも関わらず、オレは、このような出来事を前にして、世間並みの予定調和的な感情以上のものを感じないのではないか、と思った。いや、少なくてもそれが、妻と息子に関係する出来事であったなら感じないはずはないと、力なく抗いながらも。だが、たとえそうだとしても、親父への危惧を通して姿を現した、危うい自己への疑いは、もはや少しも減りはしないのだった。  

第二章 聞こえぬ物語を聴く

1. いわおの帰還 

 いわおがシベリアからの帰還兵として仙台に戻ったのは、一九四八(昭和二十三)年の八月十二日、二十八歳の夏である。敗戦から三年が経ち、国内が進駐軍の占領統治下にあって新憲法が公布・施行され、農地改革が行われるなどの大変動のさなかにあった日本に、意外に平静な印象を受けた彼が、シベリアで理不尽な使役を強制された挙句、内地の人から見れば「骨と皮だけになった浦島太郎」のように悄然として帰って来たかというと、話はそう単純ではなかった。

 哈爾濱の憲兵隊を離れて、敗戦の直前に赴任した新京(長春)の地で、中立条約*1を反故にして不気味な南下を始めたソ連軍の手で武装解除され、迷った末の上等兵止まりだったせいか、それともソ連兵の単なる手続きのミスか、憲兵だったのに幸運にも一般兵士の扱いで連行され、三年近く続いた労役を、戦犯指定を受けずに終えて、最後の抑留先・ロシア南東部のライチヒンスクからナホトカ経由で舞鶴に着いたときには、二年半続いていた東京裁判(極東国際軍事裁判)が終わろうとしていたときだった。

 巌は、シベリアの収容所に貼りだされ、後には回覧もされるようになった、連行した日本軍兵士を共産主義的に教育しようと発行されていた『日本新聞』*2という、ソ連製のいわば屈折率の大きな色眼鏡を通して、内地の動静を仄聞ないし推し量るしかなかった。

 そういった一連の動きには、ソ連の当局がこれはと思う被抑留兵を選抜し、アジテーションなどの一括短期革命教育を施した「アクチブ」と呼ばれる旧・日本軍兵士が加わっていて、囚人を「民主化」あるいは「赤化」するために必要な活動に励んでいた。彼らが反動的と見做す元・日本兵に対しては、その他の抑留者も巻き込んで行われる「吊るし上げ」が横行し、憲兵だったにも拘らず戦犯指定されずに済んだ巌だったが、同じ日本兵による、かつては自分が行ったような尋問と糾弾を何度も受け、強いられた謝罪と自己批判とに、繰り返し身を晒す場に立たされていた。

 戦前からの共産党員や共産党シンパだった「アクチブ」ならばともかくも、皇軍兵士という仮面がいつの間にか素顔になってしまったようなやからの中には、掌を返すようにまたぞろ赤軍兵士の仮面につけ変え、かつての敵であるソ連兵に、何の痛痒も覚えずにへつらう風見鶏風情の態度をとる者もいれば、人を貶めて自分は安全でいたいという露骨な付和雷同に走る者も多かった。

 「レーニンが生みスターリンが育てた、自由と幸福の共産主義」、「日本国は、資本家と大地主のための腐った国家に成り下がっている」、「天皇制こそ悪の根源である」といった、憲兵時代によく聞いた共産主義者の典型的なアジ演説が、それなりの説得力を持って機関銃のように飛び交う一方で、どこかで見たような既視感きしかんに満ちた姑息な密告や讒言ざんげん、卑劣なでっち上げなどが陰湿に横行していた。また、かつての日本兵のなかに、ソ連軍公認の自主サークルが生まれて学習会などが持たれると、「赤化・民主化」に同調しない者は帰国が許されないなどという、毒性の強いウィルスのごとき、まことしやかな噂が流れることもあった。

 たとえば、「鵜飼上等兵はぁ、上官の命令に諾々と従いぃ、予断に満ちた犯罪的な見込み捜査と知りつつもぉ、おのが手柄を目当てにぃ、あろうことか積極的に拷問を続けぇ、それが見込み外れだと知れたときはぁ、平然として当該人民を不法に葬り去ることにぃ、加担することがなかったかぁ」といった、かつて自分がいた場所とは逆の立場でなされる、まるで本物の憲兵として実際に見ていたかのような無類にエッジの効いたつるし上げの演説に、再三喉元を突き上げられた巌は、囚人仲間の密告を疑いつつも、自分のいまや後ろ暗い記憶に苦しめられもして、息も絶え絶え、立ち上がることさえできないことが再三だった。

 この度重なる屈辱と敗北感、とりわけ自分に対する底の抜けたような失望に加え、納得できない他者への憎悪の塊にもまた、さいなまされた。今となっては自分の内と外に立ちはだかる、この錯綜した嫌悪のエネルギーだけが、彼を生かしていたと言ってもいい。

 彼は血の滲むような言葉で考えた。「あれを止められる憲兵がいるのなら、お目にかかってその顔を拝ませてもらいたい。あれができるのは度をこした正義漢や狂信者だけではない。行き過ぎた正義漢や狂信者に変身した者もいるにはいたが、その圧倒的な多数派は普通の者だ。普通の者が普通のままでぶち切れて、底の抜けたことをやらかすのが軍隊なんだ」。

 「俺は、自分のしたことを告白するのはまっぴらだ。俺は行き過ぎた正義漢でも狂信者でもない。俺にもかろうじてなお、普通の男の最後の反発が残っている」。

 「では、俺をではなく、俺のやったことを裁くというならどうか?……奴らの正義の演説ばかりを聞かされている俺は、危うく頷きそうになる。もし、やったあれを言わずにいれば、おそらくあれは忘れられずに心に居残って、死ぬまで俺を苦しめるに違いないからだ……。だが、待て……」

 「『罪を憎んで人を憎まず』などとたいそうに言うが、実際に裁く奴らには、ほとんどそんな気高い精神などは、まずないのではないか。それは孔子ややキリストもよく知っていて、よく知っていたからこそ『罪を憎んで人を憎まず』などという戯言が出現したと、誰かが言っていたではないか」。

 「だから、犯した罪だけを対象に裁かれることなんてことはなく、結局はやった本人が、裁く狂信者たちとは異なる排除すべき別の狂信者として殺されるか、永遠のあかい刻印をしるされて終わりになるのが関の山なんだ。それが、国同士の争いで上下が引っ繰り返った世界で、負けた者たちが受けるどうしようもない定めなのだ」。

 「では、どうするか……。黙るんだ。どうあっても口には出さずにやり過ごすのだ。忘れられずに苦しいとしても、忘れられるように苦しみが腐食し、じょじょに朽ちるのを待つしかない。たとえ、ついに忘れられないとしても……」。

 そういう巌には、たとえ夢の中、企んだ白昼夢のなかでさえも、心の中で彼が語りかけ、彼に語りかけてくれる人間が見あたらなかった。いるとすれば辛うじてただ一人、今は目の前にはいない、舅の前川仲三が考えられるだけだったのだ。

 「アクチブ」の中には、名は知らぬままだったが、帰還する船中で会った或る男のような「話せる」と思える者も稀にだが、いることはいた。その男が胡坐をかいて「マルクスという男は~」とゆっくり語り出すのを聞いていると、不思議に、自分にも「当主の勘兵衛という俺の親父が偏屈でな~」と語り返すことができるような気がするのだった。

 彼と話すとき、巌は、己の出世欲で拷問の手助けをした、かつては自らがチャンコロ*3と呼んだ敵の被疑者の中にも、その「アクチブ」と同様、毅然として気概を押し通す者がいたことに思い至って、何だかんだ言っても俺は悪い夢を見ていたんだと、今では尊重すべきとも思える中国人たちを思い起こし、そのことに我ながら呆れ果てた。と同時に、自分が戦犯を逃れるツキを持っていたことに思い至って、哈爾濱に残した綾と紘子のことを思い出すのだった。

 そして「舞鶴に着いたら、ぼくは実家の前にまず代々木に行こうと思う」と言うその「アクチブ」を前に、――「俺は仙台の一度は捨てたも同然の実家を訪れ、素知らぬ顔で勘四郎、加えて綾たち自分の家族全員の消息を確かめるしかない」と思うのだった。

 そして、そのときふと――もし義父あのひとが生きて帰っていたとしたら、彼にだけは、その後のあれこれを話したいと考えた。――義父は、自分の『聴聞』には、耶蘇でいう懺悔のようなところがあると言っていたはずだ、と。仲三は二人だけの席で巌に言ったのだ。――「確かイソップの物語に、言いたいけれど人には言えない王様の秘密を知った床屋が、穴を掘ってその中に秘密を何回か言い放って閉じ込めてしまう話*4があるだろう。ぼくの言う理想の『聴聞』や『懺悔』はときに、言うなれば、後で掘り返す者の現れないあの穴のようなものなんだ……つまり『聴聞』や『懺悔』の当事者は、外の人から見れば、永遠のブラックホールに留まることが、ままあるんだよ」。

 こうして、戦時中に内地の仙台に赴いて、仲三の実家やコマの実家を訪ねる機会を持たなかった巌は、舞鶴に着いて所定の手続きを終えると、とりあえず汗とDDT*5にまみれたリュックを背負い、岩郷の自分の実家に行くしかなかったし、行くしかないとあらためて思い決めた。

 舞鶴から日本海沿いに北上し、汽車のデッキにぶら下がるようにして、新潟から福島経由で仙台駅に着いた彼は、白い大きな雲が漂う八月の無風の炎天下、途切れがちな日陰を求めながら、四半日ほどただただ歩き、蟷螂かまきりやアゲハチョウが遊び、草と野壺の匂いが埃の中に漂う田舎の街道を、岩郷目指してノロノロと進んだ。

 やがて、それぞれ「」「うん」と彫られた、見慣れた左右一組の御影石造りの門柱が見えた。そこを入ると、門から中庭を隔てて建っていたはずの母屋が、黒い土を敷き詰めてできた玄関口の土間を残して、以前より小さく建て替えられている実家が見えた。砂利が陽射しを照り返す、眩しく広い庭先から、薄暗くかげってヒンヤリと涼しい土間に踏み入った巌に、奥の居間に控えて煙管きせるをくわえ、座椅子にもたれて新聞に目を落としている長兄・勘太郎の背が見えた。

 「仁兄じんにい」と陰気な声をかける巌に、一息おいて「あ、あぁあぁ」と、まるで予めわかってでもいたかのように気怠けだるい、平板な口調で応えた伝太郎は、挨拶の前にまず息子の嫁を呼ぶ声をあげ、門前を流れる小川から汲み置きしてあった水の入った桶と、柄杓ひしゃくと乾いた手拭いを持ってこさせた。

 それから、黙した巌が、自分の指示に従って汗に湿ったゲートルをとり、汗と雨とDDTに汚れたリュックを土間に置いて顔を洗い、疲れた足を冷やしている姿を、背中側から何も語らずに見ていた後に、漸く身を乗り出し加減に傾けて、座椅子に座ったまま、まず「葉書ぐらい出せんかったのか。わかってりゃぁ、それなりの準備ができたのに」と呟いた。

 次いで「まあ、暑くて大変ていへんだったべ」と言った後で、自分は腰を痛めて不自由なこと、次いで巌が哈爾濱で別れたままになっていた勘四郎が、初対面になる綾を引き連れて引き揚げの挨拶に来て、今は仙台の市中に無事でいること、しかし両家とも幼い子どもたちは引き揚げの途上で、全員亡くしたらしいと告げた。

 「おめの子の最期が、どんな様子だったのかは知らん。俺も聞かんかったし、あれらもまて*6には語らんかった。はじめて会ったおめの嫁が、死んだ童子わらしこの写真を、間違えて俺の『孫』だと言って見せてけたから、仕方なしに写真を入れるちっこい額を分けてやったっちゃ」とはじめて笑みを浮かべ、綾がしでかしたらしい、早とちりのエピソードを報告した。「しかし、巌よ、めんこい嫁こでいかったっちゃなや」と――。

 居間に上がって、落ち着かぬなりに疲れた膝を伸ばして勘太郎から聞いた話では、父の勘兵衛は、一九四五(昭和二十)年七月十日の仙台空襲のあった日に、勘三夫婦と三人で仙台駅前にあった古本屋は大丈夫かと、寺子塾用の教科書を求めに出て巻き込まれてしまったということで、勘二郎は戦時中に結核で死に、子連れで残されたその妻の茂美しげみは、義父・勘兵衛の甥である勘二郎の従兄と一緒になり、別家の嫁として暮らしていた。会いたかった姉の「めゐ」と妹の「みつ」はそれぞれ嫁いで他家にいるというし、母は、二年前、終戦をまたずに脳卒中で逝っていた。「で、俺は体が悪くて何もできんし、田んぼを見てるのは、長男と嫁の二人だけなのっしゃ」ということだった。

 勘太郎は、長男の嫁が出した塩茹でした銀色に光るとうきび(とうもろこし)と白い塩を振った緑鮮やかな枝豆、お盆用に作ったずんだ餅*7を勧め、自分も頬張りながら、いきなり「GHQが造らせた日本国憲法で何もかもねくなったのっしゃ。相続のやり方も変わって、本家は苦しいのです」と言い、「ここは一つ『財産放棄』ということでけてもらえねえべか」と出しぬけに持ちかけた。「勘四郎は、帰ってから始めた魚屋の見通しが立って、納得してくれている」と。

 巌は、遺産分与など考えたこともなかったが、いきなりそう言う勘太郎に反発を覚えながら『やっぱり』と思い、「勘四郎にいと相談したい」とすぐにその場での話を断ち切って、綾と勘四郎のそれぞれの居場所を訊ね、魚屋を始めた勘四郎の店の所在地と、綾が置いて行ったというコマの実家である須崎鉄工所の住所のメモ書きを手渡してもらった。

 そして、まだ言っていなかった自分に関する報告をそこそこに済ませると、尻を拭くチリ紙の代わりに、汚れたピンクやブルーの薄いざら紙を綴じたカストリ雑誌*8が置いてある野外の古くて穴の開いた土壁の便所で用を足し、半ば予想通り、もう実家とは言いにくくなっていた勘太郎の家には泊まらず、長男の嫁に教えてもらったバスの時間がくると、長男とも会わぬままで引き揚げることにし、まずは綾たちに会うために、コマの実家を訪ねようと考えた。

 長男の嫁が「阿吽」の石柱のところまで出てきて、五十メートルほど離れた青いトタン屋根のかかる、バス停留所の待合い小屋を指差した。

 巌は頭を下げて礼を述べ、彼女は、竹籠に入れた陽の匂いのする生のとうきびを七、八本ほど持たせると、「街中はまだ空襲でやられた所が残ってんのぉ」と言った。そして「ごん叔父さんも、お気をつけて」と初対面にもかかわらず親し気に愛想を言った。巌は、目礼に加えて、「では。お世話様でした」と一言返し、それ以上、声をかけることはしなかった。

 遅い午後の陽射しのなか、いつから飼っているのか、四、五歳の子どもなら背中に乗せて走れそうな大きな秋田犬が、広い庭の隅で巌を警戒して低く唸っているのが見えた。巌は、その犬に親愛の情のようなものを感じながら、勘太郎が言う財産放棄の話は振り払い、大陸から持ち込んだ気がかりに思いを向けていた。

 巌が乗ったボンネットバスは、土埃をあげながら意外なスピードで終点の仙台駅に着いた。降りる間際にコマの実家の住所を書いてある綾の書き付けを若い車掌に見せ、ここに行くにはどこでどう乗り換えればいいのかと聞くと、彼女は黒い皮の車掌鞄から厚紙に貼った路線図を引っ張り出して、停留所の位置と何処行きの何番のバスに乗ればよいか、乗ったら幾つ目の何という停留所で降りるのかをテキパキと教えてくれた。

 垣間見えた整理が行き届いた車掌鞄の中と、走っている間に窓から眺め見た道沿いの新しい建築物、朝から一貫して晴れ上がっている薄雲を浮かべた高く青い空が、来るべき爽やかな秋を予告して、疲れた巌の重い気分を、幾分かでも軽くしてくれるようだった。

 駅前で乗り換えると、バスは背の低いテントや長屋風の特設市場が目につく市の中心部を過ぎてから、市役所と県庁に斜めに挟まれたドッグレッグを過ぎ、路面電車の軌道に沿って北上した。

 巌はこの辺からが郊外かと思えた、先刻指示された「北六番町」の停留所で降りた。そして三年と一か月前の「仙台空襲」の爪痕が微かに残る郊外の道を、紘子を失くした綾がいるかもしれないコマの実家目指して、歩道のまだ背の低い緑沿いに歩いて行くと、ついこの間、行先も知らされずに強制されるがまま彷徨さまよったシベリアの鬱屈した夏、次いで、見渡す限り、氷と白い雪以外に何もない冬のシベリアと、虚無としか言えない悲惨な光景が甦って来て、ほとんど滲みそうになった涙をこらえた。

 コマの実家は、バス停からバスの進行方向に沿って百メートルほど歩き、住所表示に従って左に折れると二十メートルほど先の両側に、大小二つの「須崎鉄工所」の看板があったのですぐにわかった。右側には塀の奥に道具置き場風の広い空き地が見えるだけだったので、事務所は左側だろうと見当をつけて足を踏み入れた。

 入り口のほど近くに、木造の割合大きな家屋があった。一声かけて曇りガラスが張られた正面の引き戸を引き、一段上がったバラック風の事務所らしき所を覗くと、油をひいた板敷きの床にある事務用の腰掛けに、自分よりも若い男が、背もたれを前に足を広げ、腰を降ろして電話をかけていた。

 男は、兵隊帽を取って一段低い地べたに立っている兵隊姿の巌の姿を見ると、目を見開いて前屈みになり、受話器を握ったまま、上目遣いに一礼し、招き寄せる身振りをしてから上半身をよじり、奥に向かって「かあちゃーん」、「お客さーん」と二回大声を上げた。「はーい、ただいまぁ」と応えて、奥から顔を見せたのは、白い割烹着をつけた恰幅のいい小綺麗な老婦人だった。

 「どなたかしら」と聞く彼女に、「満洲から帰還した鵜飼巌と申します。前川コマさんの義理の息子で、綾の夫であります」と言うのにかぶせて、「まあ、綾ちゃんの旦那さん!」と驚き、受話器を置いて様子を見ていた息子に、「ノンちゃん、今すぐ北田町に行って、早く姉さんたちと綾ちゃんを呼んで来てちょうだい」と言いつけ、巌には奥の座敷に上がるように言った。

 「いえ、汚れておりますので、ここで待たせていただきます」と言う巌に、「お疲れなのに気になさらないでください。でもまぁ、よくもご無事で。仙台にはお着きになったばかりなのね」と華やいだ声で応えた後で、「コマの妹でトキと申します。ここの名ばかりの社長をしておりますの」と挨拶した。

 「はっ、お初にお目にかかります」と敬礼して応える巌とトキとの間で、綾たちの近況と巌の帰還についての会話、というより緩い問答がしばし交わされた。受け応えを交わしながら、巌は、綾とも会えると思っていた。夏の夕暮れが濃くなり、外には日中のほてりが残る雲のほとんどない空に、少し欠けた月が薄っすらと浮かんでいた。

 一時おいて、牛肉や葱や豆腐を入れた木桶を抱えたコマと、仲三の浴衣と薄い羽織をくるんだ風呂敷包みを手にした綾が、「菊正」一本と粕取り焼酎の一升瓶二本を持って自転車を曳いてきたノンちゃんと三人で、コマの「ごんちゃーん、よかったぁ、お疲れさんだったねぇ」という涙声と共に飛び込んできた。

 振り返る巌と綾の目が合い、「お帰りなさい」と言う綾に、巌の「ただいま帰りました」という緩んだ声が重なって、巌と綾を除く、居合わせた三人の拍手が起こり、ひとしきり挨拶の時が過ぎた。

 そして、「まずは、ひとっ風呂浴びてもらわなくっちゃ」と言うコマに促されて、巌が庭の隅の小屋にある石造りの五右衛門風呂*9に入る頃には、のぼる(ノンちゃん)と龍哉たつや(タッちゃん)のトキの二人の息子が、それぞれ壮一や慎二や知巳に声を掛けようと自転車を飛ばし、ここに来る前に勘四郎を呼びに出た仲三は、今朝仕入れて焼いた売り物の鯛を抱えた彼と共に、早くも「須崎鉄工所」に向かっていた。

 彼らが次々に顔を出す頃には、風呂を出て綾が持ってきた仲三の浴衣を着た巌を中心に、コマが持参した牛肉、白菜、葱、蒟蒻、それに長茄子と白菜の漬物といった食材に、トキがノンちゃんに言って買わせた追加の牛肉、タッちゃんが隣近所で集めてきた卵、巌が実家から貰って来た銀色に光るとうきびを茹でて輪切りにしたもの、漆塗りの器に入れた鉄工所の来客用の菓子などが、三本の一升瓶と共に、事務所を上がった座敷に敷き詰めた新聞紙の上に並び、二つ並べた七輪を車座で囲む「すき焼きパーティ」の準備ができあがっていた。「酒は心配はいらねぇよ、おらい*10の蔵ん中に、いくらでもあっから」とノンちゃんが言った。

 食事は、「もう始めてましょ」「そうね」と掛け合うコマとトキとが鍋奉行をする形で、巌の無事な帰還を祝うために、そこにいた皆が改めて乾杯し、屋台を曳いている慎二と留守だった壮一を待たずに始まった。

 会話は、巌の帰還途上のこと、皆の近況報告を肴に進んだ。ライチヒンスクからナハトカ経由で舞鶴に着き、それから海沿いに敦賀に出て……、と仙台までの順路を一通り言い終えた下戸の巌が、ほぼ聞き役に回っていると、「いつでも横になってゆっくりしさい」というコマの声がかかった。

 すべてはコマの音頭で進み、巌は、思いもかけずのんびりして、シベリア以来の気がかりを、しばし忘れてしまいそうだった。 


2. それぞれの戦後 

 近況報告は、まず仲三が自転車で呼んできた客分の勘四郎から始まった。――妻と四歳を筆頭に子どもが三人いた自分の家族を連れて、仲三爺とコマ婆、それと紘子を抱いた綾と一緒に、哈爾濱駅頭に集まった日本人一行の指揮をとりながら、中国側には警察官であることを隠しおおせて帰って来たこと。途中で紘子と同じく自分らの三人の子どもも、奉天、葫蘆島、帰還の船の上で次々に亡くしたこと。敗戦後にできた闇市で、徒手空拳で一から魚屋を始め、仕入れのために毎日夜中に起き出して塩釜と仙台の間(仙塩街道)をリヤカーを曳いて往復しながら暮らしてきたこと。今は市場にできた組合と市内の魚屋が集まった組合の、両方の委員をしていること。嫁の絹代が臨月で今日は市場の宿舎においてきたこと。実家の勘太郎とは付き合ってはいるが上手くいってはいないことなどを、彼特有の、あまり粘つかない訥弁風の仙台弁で、ゆっくりと饒舌に、あけすけに語って聞かせた。最後に、いわおのほうに向き直るとこう言った。

 「最近は、組合の仕事が忙しくなって店の手が足りない。魚のさばきは頼れる男がいるし、仕入れは俺が毎日頑張っているんだが、このところ増え始めた近所の小料理屋や飲食店に営業をかける者がいない。

 足を延ばせば大口になることが見込める店もいくつかあるので、できたら俺はそっちと、組合の仕事に専念したいと思っている。ここで言うのも何だが、ゆっくり休んで体力が戻ったら、巌にも手伝ってもらえんかと思っている……」。

 巌は、まず先ほど勘太郎に言われた「財産放棄」の件を話した。勘四郎は「そうか。そりゃ帰還兵にいきなり言うような話じゃないよ……。まあ、俺は最初から本家の財産なんか当てにしてやしない。田圃しか能のない勘太郎あにいが言うなら、今更ごっしゃく*1つもりもねえから、黙って放棄するさ。一度は捨てたも同然の鵜飼の本家に、いまさらペコペコする気もないし」と言った。

 巌も、同じだった。――オレは、まさかりをぶら下げた悪餓鬼だったころから、ずっとそう思ってきた、と。

 その後、一週間もしないうちに、二人は揃って本家を訪ね、勘太郎に向かって、俺たちは無条件で判子を押すから、よろしく手続きを進めてくれと伝えた。

 巌は、当面は勘四郎のところで働き、いろいろ世話になろうと思ったが、いずれは彼のところは去ったほうがよいと、早くも思い決めていた。「おそろし」のあざなを当てた勘兵衛の影響で、或る意味、勘太郎にも怖れられていた勘四郎が黙って財産相続を放棄するのは、逆に店が順調で組合の重鎮になる可能性があることの表れかもしれず、そうなれば本家との間で揉めることには利がないという深謀遠慮があることを示していると感じたからだった。対して巌には、「鵜飼のイワ公」として、とうの昔に縁を切った気でいた実家との関係を、元に戻すつもりなどは、理屈抜きになかったのだ。

 ここで、明日も早くから仕入れで塩釜に行くという勘四郎が引きあげることになった。昼間のバスから見えた市役所が近い市場に店があることを確かめ、鯛の礼を言って別れの挨拶をする巌に、「一度ゆっくり来てくれ。歓迎する。何だったら明日でもいいんだぞ」と言い添えて、帰っていった。 

 次は、コマたちの番だった。まず、進学先の内地で結婚し、今では連れ合いの故郷・広島の片田舎に住んでいる長女の光子てるこ一家の原爆の絡んだ消息が語られ、次に自分たちの話になった。引き揚げでは、仲三が自分の実家には戻らないという姿勢を崩さなかったため、とりあえずコマの実家の須崎のこの家に戻って来て、甥っ子の「ノンちゃん」「タッちゃん」の二人に、今の親子三人で住んでいる住居を探してもらったこと。コマは、暇をみてはここに来て、空襲で夫を亡くしたトキとお茶を飲むことが多いこと。仲三は満鉄時代のわずかな伝手を頼って仕事を探してはいるものの、今の世の中ではなかなか厳しいこと。生活は、これもトキに世話をかけて鉄工所の職人さんたちに作ってもらった屋台を大学病院の近くに置いて、医者や学生さんを主な相手に、綾と二人で喫茶風の店を出し、仲三には店の裏で七輪の世話をしてもらっていること。店はまあ、それなりに繁盛していること――。

 「地回りのやくざの相手もあるけど、仙台のやくざは大人しいし、うちの爺ちゃんでも何かと役に立つのよ」、「大豆のコーヒーや、ケーキに仕立てた甘いお好み焼き、黄色い色粉をつけた薩摩芋のきんとんなんかを出してるんだけど、乾き物もあってお酒も出してるの」そんなことをコマが饒舌に語った。

 加えてつい先日は、屋台に来る医者や学生さんたちを当て込んで、向かい側にある須崎の空き地で、綾が哈爾賓高女で一緒だった友達や、去年シベリアから帰ってきた慎二が一緒になって、野外で手作りの芝居を打ったこと。そのときに手作りの「満洲餃子」の屋台を出して焼酎と一緒に売った慎二が、売れ行きと評判のよさに味を占め、今は自分たちの店の目と鼻の先にある「大学病院前」の広場で、自前の新しい屋台で餃子屋を始めたことなど、トキや、ノンちゃん、タッちゃんも加わって、みんながあれやこれやと横から口を出し、うるさいほど賑やかな夜になった。

 まるで漫画の登場人物のように、口をポカンと開けたまま聞いている巌に、綾が芝居についてこう説明した。

 「芝居は、わたしと、小学校と哈爾濱高女で一緒だった大河原さん――今はバンドマンの夫人で酒井さんだけど――、それに屋台にもよく来てくれるお医者さん志望の白川というの三人で演ったの。演出は役者の大河原さんが兼ねて、し物はロシア人のチェーホフが書いた『三人姉妹』。三人とも元気で切なくて可愛いと、公演は大成功だったのよ。

 慎ちゃんは、役者も演出もできる大河原さんのことを、哈爾濱にいたころから気に入っていて、哈爾濱高女の芝居やロシアン・カフェのダンスなんかでも一緒だったんだけど、今度も舞台脇に持ち込んだ屋台で餃子を売る傍ら、タンバリンやトライアングルやハモニカなんかを鳴らして、音響に一役買ってくれたの。

 大河原さんは芝居が終わった後に、台詞を喋っていたときに『舞台越しの夜空にロシアの森が見えた』と言ったわ。『さすが大陸育ち』と揶揄からかい半分の人たちもいたけど、違うのよ。わたしもわかるけど、素人でも何かの拍子に芝居に本当に入り込んで、共演者まるごとそういう強い集中が起きることがあるんだもの。彼女は、枕を抱いて台本にはない突然の『人形振り』を入れたりして、大受けだったんだから」。

 哈爾濱でただ一回だったが、綾に誘われて夫婦で芝居を観に行ったことがあった巌は、綾の言うことがわかるような気もしたし、これほど元気で勢いのいい綾が、屋台で人気を呼んでいることは言われずともわかった。酒の入ったコマが「婆ちゃんのあたしは、屋台の後ろで爺ちゃんの尻を叩いて、干し芋を焼いたり、団扇で七輪の火の世話をするだけ」と言うのには、さすがに少し驚いたが、決して呆れてばかりいたわけではなかった。

 かつては床の間にでも飾っておきたいと、ただ可愛いだけの人形でもいいと考えていたはずの綾が、人形どころかこうまで生き生きしているのを見せられると、彼女の若くてひっかかるものがないように見える活力と魅力とが、一方では留守をしていた夫の自分に淡い嫉妬めいた気分を立ち込めさせるのは隠せないけれど、他方では戦争とそれに続く抑留のなかで生じた、自分に今ある、他ならぬ自分が犯し、おそらく重く消えることのない気がかりを、誰に言うこともなく溶かし去ってくれるかもしれないという、甘くて愚かしい、自分一人に都合のよい錯覚に引きずり込まれてしまいそうになるのが、悪くはないのだった。

 「今日は何も言わずにお店を休んだから、学生さんたちが、心配してるわ」。

 綾は、屈託なくそう言った。このとき、綾は二十三歳。女盛りと言うより、まだ娘盛りと言うほうが似合っていた。いまの彼女が考えていたのは、白川の友人で、先日の芝居にも医者の卵たちを引き連れて観に来てくれた上間うえまという医学部の学生のことだった。

 芝居があった日から、二週間ほど経った六月の十九日。山崎富江と入水して命を絶っていた作家の太宰治の遺体が見つかった。二人の死体が上がったこの日は、奇しくも太宰の誕生日だったのだが、上間は、後に「桜桃忌」と呼ばれるようになるこの日の夜遅く、暖簾を押して酔いつぶれる寸前の青白い顔を出し、「死んだ太宰が見つかった」と、綾に呟くともなく呟いたまま、カウンターに突っ伏してしまったという。

 普段から、医学生で文学好きな上間が気にかかっていた綾は、カウンターを内から外へグルリと一回りして、一向に目覚める気配のない彼の腕を支えて立たせると、大学病院の門から庭の芝生の中に入り、「大丈夫? 少し休んだら帰るのよ」と言いながら、スカート姿の自分の膝を枕にして休ませた。
                 *

 戦後の巌が死んでから七年後、綾が四十四、五歳のころ、それまで三年間同居していた慎二の家を離れて蓉子と「せんり」を始めたばかりのときに、自力で久しぶりに商売を始めた興奮がそうさせたのか、綾がその二十年以上も前の「桜桃忌」のことを、蓉子とまだ高校に入ったばかりのわたしに語って聞かせた。

 「暫くして起き上がろうとした上間君は、戻らなくちゃと言って立ち上ったわたしの手を握ると、か細い声で『目をつぶって』と言ったの。言う通りにおとなしくしていたら、わたしの額にキッスをして『これは尊敬の口づけです』と不器用に言ったわけ。尊敬の口づけって何? って思った」と笑った。彼女はその当時、前髪を上げて得意の広い額を晒していたらしいのだ。そして、「でも、それっきりだったのよ」と言った。

 そのときのコマはどうしていたのか、たぶん、何も言わずに屋台で店番をしていたんだろうと、わたしは、豆をくらった鳩みたいだった姉を差し置いて、そう思ったものだ。そして、小説を読み出したばかりのマセた耳年増ぶりが自慢な少年だったわたしは、綾は屋台の客に結婚しているとは言わなかったのだろうし、祖母もそれを黙認していたんだろうと考えた。「……上間君とやらとの出来事も、巌には言わずにおいたに違いない。それにしても上間って奴は、若かった母の膝の上で、狸寝入りでもしていたのだろうか……」と、微かな嫉妬混じりに考えていた。まるで母親に嫉妬を強いられて、いやいやながら、応じてみせでもするように…。

 その日、二年ぶりに会った巌を前にして、綾は黙って六月十九日のことを考えていた。なぜなら、上間はあの日を最後に、もう二か月近くも顔を出していなかったからだ。このところ毎日、今日は来るかもしれないと綾が思っているらしいことは、コマも気がついていた。十九歳で結婚し、すぐに紘子を生んで亡くしていた綾にしてみたら、哈爾濱で芝居やダンスを経験していたとは言え、引き揚げの苦労から漸く解放されたこの時期こそが、初めて味わう本物の青春らしい青春だったのかもしれない。上間とは、それ以後、なにもなかったという。巌が、早々に勘四郎の魚屋の手伝いを始めたので、コマが言い出して、さすがに喫茶店の屋台をたたんだのだった。

 巌と綾との間に図らずも穿たれていた小さな溝は、しばらくは埋まる様子がなかったが、巌は綾が傍にいてくれさえすれば、現状をどうこうしようという気は起こさなかった。岩郷で生まれ、疎外感を拭い切れない農家の悪餓鬼として、一本道を走る猪みたいに育ってきたのに、今になって満洲とシベリアから持ち帰ったものを思い詰め、その拘束から生じる迷いをどう拭おうかと帰還途上から考えていた二十八歳の巌にとって、哈爾濱で生まれ、学校その他の束縛から比較的自由な青春時代を過ごし、その記憶をてこに、血の匂いの残る引き揚げの暗い記憶を飛び越えて、あわよくば身近に現れた本物の青春に飛躍しようと、見ず知らずだった仙台を、自分の土地として見直し始めていた二十三歳の綾の溌溂とした娘の活力が、目の前にいる相手の拒絶を誘う悪夢のような現実が貼り付いた自分から、相手を寄せつけぬ躊躇ためらいくびきを溶かしてくれる、眩しいオーラのように見えたのだろう。

 そんな巌が綾には、帰ってきたばかりの夫が、作り笑いの仮面を被っているようで嫌で堪らなかったし、下手にその仮面を剥いだなら、気が遠くなる能面のような無表情が現れ出てくるようで、夫が見知らぬ他人のように思えもしたのだった。

 コマの近況報告はまだ続いていた。綾の哈爾濱高女時代の同級生・雪子と一緒になった長男の壮一夫妻に、もうすぐ第一子が生まれること。戦時中に、帰国途上の危険は承知の上で、仙台の中学に転校させた末っ子の知巳が、いまは卒業して、トキの二人の息子と年齢が近いこともあり、この秋からは「須崎鉄工所」で外回りの営業担当として育てることになっており、トキの息子たちが既婚者であることに配慮して、コマとトキの遠縁の者の嫁ぎ先で、早くも花嫁候補を見つけていること(知巳を営業職として育てることと嫁さんの手配とは、いずれもコマとトキの差し金だった)……。

 慎二が屋台を早めにたたみ、土産の餃子の折詰を手に、自転車を飛ばしてやって来たときは、すでに深夜に近かった。彼は、巌との再開の挨拶を済ませると、早く嫁さんをもらって夫婦で稼ぎ、勘四郎さんの市場とは、同じ目抜き通り(東一番町)の南の対極にあるもう一つの公設市場に、一コマか二コマのスペースを確保して、いずれ小さな店を持ちたいのだとその目論見を語った。それがシベリアで一回はしぼんでしまった俺の、生き直すためのささやかな夢なのだと。――「マッ、満洲のことなんか知らずに、ノッ、暖簾をくぐる客が多くてさ、餃子をサッ、鮫子さめことしか読めない奴がいる」といつもの小噺に笑う彼は、相変わらず吃っていたが、その太く大きな声と見開いた目は若々しく、気持ちよさそうに張りつめていた。

 この日から二十年以上が過ぎ、蓉子が高校生、わたしが中学生で、慎二の一家と暮らしていた頃、綾から、巌が帰還したこの日の集まりから二、三年後の慎二について、聞かされたことがある。「あなたたちのお父さんが会社に入っていきなり塩釜の支部長になったころに、結婚して夫婦で働いていた慎ちゃんの、居間と小さな台所だけの借家に招待されたことがあるの。まだ屋台から店に移る前のことで、そのときはバターを乗せてケチャップをかけたオムライスと、浅蜊の入ったチャウダー、それと食後に苺のショートケーキと紅茶を出してくれた。あの頃の二人は素朴で、何にでも一所懸命で感じがよかった」と、一見懐かしそうに言っていたが、それが何か奥歯にものが挟まったように聞こえたものだから、当時の慎二と巌、それから自分との位置関係を意識した彼女の、何らかの怨嗟含みの言葉のように思えて、「素朴」だの「一所懸命」だの、仲のいい妹だったくせに、兄貴に向かって、そんな上から目線の言い方をするなんて、と少しがっかりしたことがある。

 蓉子によると、巌が死んで間もない頃、綾が夫の遺した退職金の何割かを、証券会社の運用に託して失敗したことがあったそうで、それを「大陸帰り」を自称する根は不器用な慎二が、「世間知らずで身のほどをわきまえない、ただの博打だ」とか何とか、いささか不適切な言葉を使って諫めたために、「満洲娘」で「世間」に疎い綾の、なかなか手強いプライドを刺激したことがあったらしい。蓉子は「変な兄妹。そんな行き違いみたいな些細なことが、二十年経っても後を引いているとしたら、ま、尊敬はできないなぁ。子としてやりきれないし、第一、はた迷惑な話よね」と言っていた。

 さて、皆が待ち望んでいたものの、本人が目の前に現れてみれば降って湧いたようだった巌の帰還を祝う席で、仲三と巌の二人は、とくに自分から語るでもなく、やり過ごすようにして皆に話を合わせていた。この席で戦時やシベリアの詳しい経緯いきさつを切り出すつもりは、巌本人はもちろん、誰の胸にもなかったし、酔いが進んでその黙契を破る者もいなかった。僅かに慎二が「世間には、シッ、シベリヤ帰りはアカだと決めつける奴が、いまだにいやがる」と自分の不愉快な体験を軽く語ったくらいで、沈黙しがちな外様格の巌に向かっては、皆は「いやお疲れだべえ、辛かったべなぁ」とか「汽車の混雑ぶりだって、おどけでねえ*2しなや」と声をかけて、気を使っているようだった。

 巌は、六番町でバス停を降りたときに目に浮かんだ冬のシベリアや、岩郷で見た大きな秋田犬の顔つきなど、語るつもりもなく、話せと求められる心配もないことを、ただ漠然と思い出していた。そして、元気なコマに押されてうだつがあがらないはずなのに、そんなことを気にする様子は欠片かけらも見せず、その場の流れを飄々とやり過ごす仲三を、「やっぱりこの人しかいない」とあらためて自分に言い聞かすのだった。 

 

3. 「聴聞」のはじまり 

 その日、ひとしきりするとコマは、蒲団を並べて敷いておいた「六番町」の奥の間に、いわおを早々と追いやってから、綾に真新しく糊の効いた二人分の来客用浴衣を手渡すと、てのひらで我が娘の背中を押し、無言で追い立てた。

                  *

 残った者たちは、何くれとなく収まらない興奮に、窓外にさえずる鳥たちの声が聴こえ始めるまで喋り合っていた。ノンちゃんとタッちゃんが口々に、初めて会った巌の今後の寝場所を心配し、この家の奥の間にコマと仲三が移ってくれば、「若夫婦は『北田町』の六畳二間でおつりがくるよ」と言った。

 「いや……」とトキが遮った。「知巳ちゃんが今の国見の下宿を出て、空いた部屋を綾ちゃんたちに使ってもらったらどうかしら。そうすれば知巳ちゃんが少しでも早くうちに来て仕事を覚えられるし、須崎鉄工所としては一石二鳥よ」と言った。コマは、「北田町」は三人でも狭いのに、巌が来て四人になったらどうしようと考えていたので、逆に一人減るならと異論はなかった。

 翌日の朝、驚くくらいにゆったりと眠って、陽が高くなってから目を覚ました巌が、綾が持参した仲三のやや大きめの作業着に着換えて、座敷に出ていくと、コマとトキが朝食の支度をしていた。刻み葱を散らした豆腐の味噌汁と、昨日勘四郎が持参した鯛の残りと長茄子の漬物とを惣菜に、「先に食べちゃいなさい」と勧められるままに、匂い立つ炊き立ての白飯を口にしていると、琺瑯ほうろうのカップに二本の歯ブラシを入れた綾が一息遅れて現れた。コマが「あら若奥様、随分遅いお出ましじゃないの」と言うと、今朝の挨拶は神経を使いそうだと見越した巌が、コマのチョッカイには反応せずにこう言った。

 「今から、兄貴のところに行って仕事を手伝う算段をしてきます。もう塩釜からは戻っているはずですから」。

 「まだ早いんじゃない。お店が忙しくて邪魔なんじゃないかしら。午後からのほうがいいと思うけど」。

 綾が言った。

 「いや、兄貴はいつでも来い、明日でもいいと言っていた。こういう話は、早い方がいい。ご馳走様でした。行ってきます」。

 コマとトキに向けてそう言うと、巌は急いで準備し、「北六番町」から昨日とは逆方向のバスに乗って、東一番町の北端にある市場に向かった。

                  *

 巌が夕方になる前に戻ると、コマとトキが座敷でお茶を飲んでいた。巌は、彼女らに向かって、こう言った。

 「明後日から当分の間、予定通りに兄貴の店を手伝うことにしました。最初の一週間ほどは、仕入れの手順を覚えるために、兄貴と一緒に仙台と塩釜の間を往復する手はずで、早くに出発しないといけないから、慣れるまでは市場にある宿泊所で寝起きするつもりです。服も下着も若いもんの予備があるらしいので、心配はいりません。俺も若いもんの一人ですから。

 ゆくゆくは、仕入れの手練れを一人増やして、三人で一日二人の交代制にして、仕入れの他に包丁さばきを仕込むと言うので、そうなったら、四人で住むことができる落ち着いた寝場所を探そうと思います。兄の組合に伝手があるそうです」。

 コマはトキを相手に、自分たちが「六番町」に移って、綾と巌の夫婦を今の自分たちの住まいに住まわせるか、それとも知巳を早めに「六番町」に入れて、空いた国見の部屋を使わせるか、昨日の続きの話をしていた。

 「そうぉ、勘四郎さんのところで何とかしてくれそうなのね。でも、綾もいることだし、帰ってきて早々、無理はしないで頂戴ね。あんたが、言い出したら後に引かないことは百も承知だけれど、どうやら戦争が終わっても、そういうせっかちなとこは、ちっとも変わっていないみたいねぇ。

 でも今から、あたしらのことなんか気にかけてたら、新しくつきあう相手だって多いでしょうから、体も神経も持たないわよ。あたしらは自分たちで何とでもできるから」。

 コマはやんわり断りながらも、帰還したばかりの巌が誘ってくれたことが嬉しそうだった。巌は、それを頷きながら黙って聞いていた。気にかかるのはコマよりも、仲三のほうだったのだ。巌はいずれ独立したら、綾だけではなく、仲三とコマも一緒に暮らすのだと、具体的に考え始めていた。

 その日、綾は早めに「六番町」を出て「北田町」に戻り、仲三に手伝ってもらって屋台の仕込みをしてから、二人で大学病院前の屋台のたまり場に出かけていた。沢山のお客さんが待っているのに、「二日も無断で休むのはよくないわ」とコマに言い残してのことだった。

 行って店を見てみなさいとコマに背中を押された巌が、綾だけではなく、仲三にも話したいことがあって、まだ西日の残る大学病院前の屋台前の人ごみを訪れると、屋台の裏で仲三が路上に屈み込み、渋団扇を持って、芋きんとんの入っている鍋が乗っかった七輪の世話をしていた。

 巌より一回り大きな筋肉質で、禿げた頭部に太い眉、不必要なほどに大きな目のついた仲三は、昨晩の酒宴の中で見せた、老いてあまり覇気のない日常の姿よりも、よほど垢抜けて見えた。立襟でボタンのついた白いシャツが長い首によく似合い、コマによく聞かされる、満洲での山出しの不器用さは感じられず、むしろ目つきに光のある隠れた伊達男のように見えた。

 暖簾をくぐり、分厚い廃材の上に黒いデコラ板を貼ったカウンターの片隅に腰を下ろした巌は、客の来ないうちにと、綾に勘四郎と話し合ったことを手短かに伝えた。――「明後日からっちゃんの店に出て、朝早くから塩釜に出かけることになった。作業着や下着はあるらしいから、洗顔道具と寝間着だけ明日の午前中に揃えて欲しい。後は暫く畏っちゃんの市場で寝ることになる。いま、心当たりに当たってもらってるから、住む場所は早ければ来週にでも見つかりそうだ」。

 綾は、「何処に住むの」と聞いた。

 「まだわからない。市場に近いほうがいいだろうと話してはいるがね」。

 「ここから遠くちゃ困るわ……、父さんや母さんはどうなるの」。

 「そこは心配しなくてもいい。親子四人で暮らすだけのものは準備してくれるはずだ……、新規の客が増えてて、中には大口も何件かあるらしい。狙いが小売りじゃないから、話が大きいんだ」。

 綾は「そう」と言った切り、それ以上反応しなかった。客が来たので、そちらに注意を向け、巌の紹介もしなかった。巌は、ここは邪魔せずにやり過ごさなければと思い、「では、また」と他人顔で席を立った。「有難うございます」と言う綾の声を背中で聴きながら、屋台の裏に回って煙草を喫っていた仲三に声をかけると、彼はゆったりと、「もうすぐコマが来るころだ。来たら一緒に帰ろうや」と言った。

                 *

 コマと交代した仲三と帰る道すがら、待ちかねたように口火を切ったのは巌だった。

 「お義父とうさんは、俺が憲兵隊に入ってから、初めて哈爾濱のお宅を訪ねた日に話したことを覚えてますか」。

 「うん? ああ、覚えている。憲兵隊にも問題があって、理由は言えないが自分は辞めるかも知れないという、わかったようでわからないけれど、聞き捨てはならない話だったね」。

 「どう思いましたか」。

 仲三は「うん?」ともう一度言ったきり、暫く答えなかった。

 そして、大学病院から真っすぐ東に向かい、左折する四番町の大きな交差点が見えるまでの、ほとんど日が暮れてしまった道を、二百メートルほど無言で歩いたところで、店先に並べた葡萄や西瓜や桃などの賑やかな色が、明るすぎる照明をまばゆく照り返す果物屋の店先で、「ほう、もう柿が出とるな」と言っていったん立ち止まり、もう一度ゆっくり歩き始めながら、時間をかけて、考え考えこう語った。

 「憲兵隊に問題があるとしても、君は内部の人間だから、たとえ義父だろうと人に漏らすわけにはいかないのだろうと、まずは思った。だから辞めたら言うつもりなんだろうと判断して、わたしは黙っていた。戦争が大きくなって兵隊もだが、憲兵だって数が必要になっていろいろ苦労が多いのだろうと思ったからね。でも、あの時は初対面だったし、それ以上のことは頭になかった。

 その後、何回か会って君の人となりに触れ、綾との婚約・結婚とは別に、君への私なりの納得も生れた。

 だが、君は最後まで憲兵を辞めずにシベリアに連れて行かれた。でも、君が辞めなかったおかげで、綾も、その親の私とコマも、戦時中の物資不足で周りが苦しい中で、それなりの暮らしをしてきたわけだ。だから私は、何も言わなかったし言えなかった。いまだって言えないと思っている。

 でも、そう考えただけではすまないこともあるにはあった。それは、憲兵隊に多少の問題があることなど、表立って言う人こそいないが、ほぼ誰でも知っていたってことだ。仔細はわからなくても、大半の人はそれに感づいていて、だからこそ憲兵隊を恐れた。

 それを知らない君でもあるまいに、辞めもしないうちから『人に言うわけにはいかない』などと、ことさらに気を張ってみせるのは、普段の君を考えると、何か不自然だと思ったんだ。

 『言うわけにはいかない』のなら、始めから何も言わないのが普通のやり方だ。それを言うのだから、ことによると君にはそう言わなければならない何か別の理由があるのかもしれないと……。そして、もしそうなら、それこそ聞くだけでもいいから、君の話に耳を傾けたいと、聴聞僧のように考えたわけだ。

 しかし、君は最後まで言わないままだったし、辞めなかった。それで私は家族でいい目にあわせてもらい、結果的に、『耳を傾けよ』というわたしの内面の声には従わなかった。従えない理由を、自分を語ろうとしなかった君の態度にかこつけてだ。それで敗戦までの生活を不吉な予感の中で、ただただ享受していたわけだ。

 コマは、あるとき、うちは、誰にも恥ずかしいことはしていない、と言った。しかし、我ながら肝の据わらないことだが、戦局が逼迫するにつれ、わたしは、だんだん胸がザワザワと騒ぎ始めた。コマの言うように多少の施しはしていたものの、周りに困っている人が大勢いるのに、家は相変わらず物資では困らなかったからだ。それは、君が依然、一度は『辞めたい』と言った憲兵隊に留まっていたからこそだった。そして、君は『問題がある』と自らがいう憲兵隊にいて、一体何を強いられているのかと考えていた――。

 そこに敗戦が来た。どこもかしこも混乱する中、奉天にいた軍人たちがソ連軍に連れていかれたと聞かされたが、確認する手立てはなかった。なかったがそのことが、君が生きている希望にもつながっていた。引き揚げで散々な目に遭いながら、私にはその後もそのこと、君が言えないでいた苦しみのことが頭を去らなかった。

 私にとって、これは仏教やキリスト教でいう『懺悔』にも値しない、迂闊極まることだった。長い間『聴聞僧』を気取って、まずは『聴いて聞く』なんてわかったようなことを信条にして生きてきた私は、そう思ったときにだんだん、『聴いて聞く』とは、ときに人のふんどしで一人相撲を取るようなものではないか、もっと自分の弱さや苦しさを恥ずかしくても表に曝け出し、その引き換えに、話をする他人の苦しみを引き出して慰撫するという、『聴いて聞く』力にもう一つ『訊く』力を加えた、双方の弱さに『効く』ような、はっきり言えば、もっと積極的で受け身ではない『聴聞』でなければ駄目だと考えるようになった。そして、自分の傍にいる人に何もできない『聴聞』なんて、嘘っぱちのただの戯言と同じだと思うようになったんだ。そう思ったときには、君は実際にはもう、広大なシべリアに向かっていたわけだけれど。

 私には、大宮と満鉄時代に主に大連でつき合った、満鉄の人集めをしていたキリスト教徒の知人がいる。英語ができる彼は『聴聞僧』のことを、『他人の告解や懺悔を聴いて、よきアドバイスをする人』と言っていたよ。それで『聴いてなお聞く』と我流で青臭く考えていた私は、彼と仲違いしたことがあるんだ。本物のよきアドバイスは、誰にでも同じくできるような定型的なものではないだろうと。

 でも、今は、できたら、たとえ拙い出来合いのアドバイスでも、まずしたいと思うことが欠かせないのだと思う。たとえステレオタイプな物言いでも、ときに傲慢であってさえも、時間がたつと意外に遠くまで届く声ってものがあるからね。

 君は知らんかもしれんが『日本の戦後は戦争の記憶を忘却することからはじまった』*1と言った中国人がいる。ぼくは『まず、忘れようとした記憶を思い起こす』ことから始めなければと思っている。傲慢な言い方かもしれないが、私にとっても、君にとっても、ほかの誰にとっても、忘れたい罪の意識があるのなら、それが、まず一番にしなくちゃならんことなんだと思う。

 聴いて聞くことも、その辛い作業の助けになるようなものでなければ意味がないと思うんだ。懺悔した後にどうするかは、懺悔に居合わせた者たちが心に湧いてくるものに従って考えていかなければいけないことなんだと思う……これは、多分十年や二十年くらいの短い時間じゃすまないことなんだ」。

 そう言い終えた仲三が、ゆっくり歩を早めると、巌は食い下がるようにしてこう聞いた。

 「俺が『今は言えない』と言ったのについて、憲兵隊内部の人員的な問題とは別の理由があると考えたと仰いましたが、別の理由とは何のことを考えて仰ったのですか。よかったら教えてください」。

 二人は、既に交差点で左折し、そのまま暗くなった歩道を「六番町」に向かって北上していた。

 「……そのことは、君自身が知っているはずだろう。ぼくに聞くことではないと思うが……」。

 仲三が言った。

 「ああ、すみません」。

 「いや。謝るようなことではないよ」。

 ここでもう一度立ちどまった仲三が口調を変え、「ときに、今夜の寝場所は決まっているのかい」と話題を変えた。

 巌は、何ごとかを考えていたが、仲三の問いに気づくと一瞬遅れてこう言った。

 「トキさんのところに泊まることになると思います。お義母かあさんにも、落ち着くまではそれがいいと言われました。リュックも置いてありますし。でも、明日からは、一人で、暫く兄の市場の宿泊所に移るつもりです」。

 「そうか。……じゃあ、ちょっと回り道になるが、私らと綾の部屋を見に来んか。君に渡したいものもあるから」。

 二人はそう言いながら、既に暗くなっていた「六番町」の角を曲がらずに越え、そのまま仲三たちが寝起きしている「北田町」の貸し部屋まで歩いて行った。

                 *

 仲三夫婦と綾が世話になっている大家の二階にある、二間続きの貸間は、奥が綾用の部屋で、その鴨居にはハンガーで彼女の衣装が掛けられ、薄っすらと淡い化粧の香りが漂っていた。

 仲三は居間にあった三十冊ほどの書籍が入った木箱から、表紙に「批評」と印刷された冊子を取り出すと、巌に手渡して、立ったままこう言った。

 「最近出た本だ。武田泰淳たけだたいじゅんという上海にいた作家が書いた『審判』という小説が載っている。満鉄の後輩に薦められて買ったんだ。私は小説はあまり読まんが、よく書いたものだと思った。よかったら読んでみんか」。

 それから二人は、仲三が淹れた大豆のコーヒーを吞みながら、明日にもう一度ゆっくり会おうと話し合った。コマと綾が屋台のある大学病院前に行くのは三時過ぎ。巌は、暗くなる前に勘四郎のところへ行きたかったので、四時前に巌が来ればここで二時間は話せるということになった。コマが、「六番町」の鉄工所経由で行くといったら仕方がない、仕込みの仕上げは、綾一人でやってくれと頼むことにする……。

 それで、その日は、二人は別れた。「六番町」に戻る道すがら、巌は仕事帰りが多いと思しい行きかう人たちの表情に、俺にも彼らと同じように新しい生活が始まるんだなと、今行ったばかりの綾の部屋の仄かな匂いを思い出していた。

                 *

 巌は、トキの給仕で、ノンちゃんとタッちゃんに関する噂話や知巳の結婚話などをしながら、彼女が準備した夕食を食べ終えた。そして、九時前には彼女の火の世話で風呂を浴び、蚊帳を吊った奥座敷に引き込んで、夏蒲団を被って蚊取り線香の匂いを嗅ぎながら、仲三から手渡された小説の載っている冊子*2を読んだ。

 そこには、これが「終戦後の上海であった不幸な一青年の物語」であること、そして「この青年の不幸について考えることは、ひいては私たちすべてが共有しているある不幸について考えることであるような気がする」という語り手の言葉が書かれていた。この時期に「不幸」の話かと思いながら、巌は読み進めた。

                  *

…(中略、以下同)…「イエスを信じますか」と一声高く老牧師がたずねた。聴衆はいっせいに「信じます」と答え右手を挙げた。私はうっかりして挙げなかった。二郎も挙げなかった。老牧師は私たちの方をジロリと眺めたらしかった。……それからまた「イエスを信じますか」とたずねた。私は聴衆にならって手を挙げた。二郎はやはり挙げなかった。老牧師はのびあがるようにしてこちらを眺めてから「そこの日本人はイエスを信じますか」と鋭くたずねた。すると私の側にいた普通の支那服の青年が「ハイ、彼は信じています」とかわって上海語で答えてくれた。……二郎はそれらのことが自分に関係のない風にジッと無感動にうつ向いたままでいた。……

                 *

 ここまで読んで手を休めると、巌は本を蒲団に伏せ、仰向けに天井を見て考えた。『仲三がこの小説を読ませようとしたのは、彼が、ミサを司る戦勝国の老牧師の態度を、傲慢でかつ乱暴だと感じ、そこに引きつけて、キリスト教から離れたわが身を語ろうとしたのか』と――。『ことによると、自分にもこのような傲慢があったとでも考えた末に』――。

 しかし、よく読めばこの場面は、二郎という男の無感動を強調したいがために作った、作家の意図的な仕掛けに過ぎないような気もした。『仲三は、自分の弁解などではなく、俺に言いたい何かがあってこの小説を読ませたのかもしれない』と。この考えは、巌に不安を煽り立てた。そして、今度は自分を弁解するように、『俺は二郎のように無感動じゃない、さっきも六番町への帰り道、行き過ぎる働く人たちの顔を見て、綾の部屋が懐かしく匂ったではないか』と、筋違いなことを考えていた。

 追い立てられるようにして読み進めた第一部の最後には、その後のことが書かれていた。

                  *

……その頃では二郎はもう私の部屋にも顔を見せなくなっていた。……二郎のことだから漠然と去るわけはない、……二日ばかり楊樹浦の友人の家で泊まり明かして帰宅すると、下の主人は私にぶ厚い手紙をわたした。……私はいそいで封を切った。……読み終わると、冷たい壁にもたれ、手足を動かす気もなくなった。それから毛布を被り、電灯の下で、もう一度ゆっくりその手紙を読みなおした。…… 

                  * 

 二郎はどこかに消えたらしい。『語り手にすれば、二郎は、仲三にとってのシベリアに消えた俺にも似た人間なのではないか。その二郎が語り手にあてた分厚い手紙に、仲三は自分に語る俺の姿を見ているのでは』と考えた。

 『なるほど』と思った巌は、それから毛布を被り、電灯の下で、もう一度ゆっくりその手紙を読み直したのだった。

                                                             *

               二郎の手紙

……『私はあなたにあててこれを書き残すことにしました。……私は一人だけある理由によって帰国しないことに決めました。……この手紙を読まれれば、私が帰国しない理由はおわかりでしょう。それは終戦後、ずうっと私の頭を占めていた問題であります。……私は戦地で殺人をしました。……ある日、兵站本部の伍長とほかに四、五人の兵と共にかなり離れた隣の部落まで行きました。大根や蕪をさがす目的です。……裏手にほかと離れて一軒の小屋、実にみじめな小屋が、燃えずに立っているのを見つけました。そしてその小屋の前には老人が二人うずくまっていました。……老夫は盲目でした。老婦はつんぼだったようです。……「どうせ死んじまうのかな」私は銃を握りしめながら考えました。……いつか私を見舞った真空状態、鉛のように無神経な状態がまた私に起こりました。「殺そうか」フト何かが私にささやきました。……「殺してごらん。ただ銃を取り上げて射てばいいのだ。殺すことがどんなことか、お前はまだ知らないだろう。やってごらん。何でもないことなんだ」……もとの私でなくなってみること、それが私を誘いました。発射すると老夫はピクリと首を動かし、すぐ頭をガクリと垂れました。老婦はやはりピクッと肩と顔を動かしたきりでした。……その時も私は自分を残忍な人間だとは思いませんでした。ただ何か自分がそれを敢えてした特別な人間だという特別な気持ちだけがしました。……

                 * 

 巌は読み終わると最初に戻ってもう一度読み直し、明日の仲三との会話に備えるつもりで、気になった箇所はさらに何回かずつ読んだ。暫く寝つかれずにいたが、<からだ>は、やってきた睡魔に意外に率直で、いつの間にか眠りに落ちていた。何か夢を見たが中身は覚えておらず、何かを急かされ、追い込まれる感触だけが残った。

 目覚めたとき、部屋の障子が薄く白んで、部屋の中はわずかに明るんでいた。『時間はまだある』と気がついた彼は、急かされた気分を振り払おうと毛布をはいで、浴衣のまま大の字になった。天井の板の木目がちらちらと動いて見えたが、構わずにそのまま動くにまかせた。「俺は何をしているのだろう」と思った。奉天でもシベリアでもない、仙台にいることに不思議な浮遊感を覚えた。「俺は二郎ではない」と巌は思った。しかし、それは仲三も思っているはずだし、わざとらしく否定することには違和感があった。「では、どうしようか。告白するのか」。「それもやっかいで、俺以外の他人には迷惑なことだ」と思った。「言わぬとしたら、もちろん自分のためもないではない。だが、むしろ仲三、いや仲三に加えてコマや綾のために……」そう考えた(巌は、この時間になっても店から帰らない綾のことが、不思議に気にならなかったのだ)。

 それは嘘ではないと感じた。「だったら俺は、まずこの小説を読んで感じたことをそのまま言えばいいのではないか。あとは、言うも言わないも、仲三さんの気持ちと彼との会話の流れに従えばそれでよい。言わずとも、彼は少なくとも見当はつけているのだろうから」。そう思うと、巌にとっては、仲三の存在自体が、自分にとっての救いであることが、あらためてわかるのだった。

 「彼の言う『聴いて聞く』や『訊く』や『効く』ことが、どういうことなのかは俺には、よくわからない。だが、それはそれで不都合が起きることはなさそうだし、万一、不都合であったとしても構わない。俺は目をつぶって、自分では判断しない」と目を閉じた。場合によっては、消えない記憶を墓まで持って行こうと思い決めて――。呼吸は落ち着いていた。それで眠りに落ちたのだった。

               *

 「ごんちゃん、起きてる?」とコマの声がした。はだけた襟を右手で合わせて起き上った巌に、すっかり昇った朝日の筋が、障子を通して二本、斜めに当たり、その日も外は暑そうだった。コマは、「昨日は屋台が朝方になっちゃったので、綾は『北田町』で寝ているわ」と言った。

 「ごはんをどうぞ。今日は夕方に急なお客さんがあるから、夜は奥の座敷は使うわよ。あなたは勘四郎さんのところに行くのよね。洗顔と着がえの準備はしといたから、リュックを整理して洗濯するものがあったら出しといてね」。

 客は、知巳に嫁いでくる娘の両親ということだった。岩手と宮城に跨ってそびえ立つ栗駒山が見える閑村にあって、昔から林業を営んできた旧家の若夫婦で、東京の美術学校で学んでいる息子の世話で上京する機会に、挨拶がてら立ち寄ることになったらしかった。

 コマは、「立ち合うのはわたしらだけで、皆で挨拶し合う席はまた別の日に作るから、今日はそれぞれ勝手にして頂戴。ノンちゃんたちは、いつも通りに仕事。慎二は、屋台。綾は、今日くらいは休みなさいと言ったのに、一人でも店を開くと言って聞かない。壮一は、もう放っておけばいいわ。で、ごんちゃんは勘四郎さんのとこだけど、その前に、行けるのなら早めに『北田町』に行ってあげて頂戴。綾がまだいるかもしれないし、あの人も待っているそうよ」と言った。

 陽が高くなっていた。巌は、勘四郎とコマにそれぞれ当座の小遣いを渡されていたこともあって、どこかくつろげる場所であの本をもう一度読んでから、顔を出そうと考えた。心はさほど波立ってはおらず、劇的な気分もなかった。ただ、仲三の言った「『日本の戦後は戦争の記憶を忘却することからはじまった』と言った中国人がいる」と「私は『忘れようとした記憶を思い起こす』ことから始めたい」という二つの言葉が心に残っており、何度か反芻するように繰り返し暗誦した――。「戦後ニッポン」は、そんな一庶民の事情とは無関係であるかのように、着々と動いていたが。

 「北田町」では、階段を昇った最初の部屋の鴨居に、仲三の黒いスーツと白のネクタイが木製ハンガーで吊るしてあった。「知巳のほかに、慎二の縁談もあって必要になるからと、コマに急かされて、勘四郎さんとこのマーケットにある古着屋で求めたんだ」と仲三は言い、「物入りで困ったもんだよ。マッカーサーのおかげで、軍人・軍属の恩給もなくなったのに」*3(1946年、連合国最高司令官の指令により、重症者に係る傷病恩給を除き、旧軍人軍属の恩給廃止(勅令第68号))と言った。綾は仕入れのために、直接屋台に向かったらしく、もういなかった。

 「さて」と、仲三は煙管を点けて言った。

 「どこから始めよう?」。

 巌は、今朝の二度寝の蒲団の中で考えたことの感触を辿りながら、自分でも驚く冷静さでこう切り出した。

 「昨日お義父とうさんは、哈爾濱のお宅で『憲兵隊にいるので言えない』と言った私には、何か憲兵隊とは別の問題があったんじゃないかと思ったと仰いました。別の問題とは、具体的に何を考えて言った言葉だったのですか。まずその答え合わせがしたいです」。

 仲三が、即座に応えた。

 「それは言えんよ。昨日も言ったが、それは、君がぼくに聞くことではないと思う。何も考えずに言ったとは言わんが、君が言わないうちに、何も知らない私が言えることではないし、そもそも具体的に何かを思い描いて、考えていたわけでもなかった。もともと緩く聞いただけで、ただ、君に『忘れようとしている記憶を揺り起こす』気があれば、その手伝いをしたいと思っただけだ」。

 仲三は巌の面前で大きく煙管の煙を吸い込み、両の鼻から困った顔つきをして吐き出しながら、こう言った。

 「気を回させてしまったのならば、四年越しになるが、謝る。そうさせてくれ」。

 「いえ。謝るなんてそんなことは、考えておりません。……では、昨日の小説は、私に何か仰る代わりに渡されたのですか」。

 「いや、『忘れようとした記憶を思い起こす』のにはいろんな方法があることの、いい参考になりそうな作品だと考えたんだ。あの主人公は上海に残る決断をしたが、語り手は日本に戻ったようだしね。ただし、私は君に何かを指摘したいと思っているわけではないし、できるとも考えてはいない。それは『審判』という作品についても同じだよ」。

 「私には、他人事とは思えずに読んだこともあって、この作品には言いたいことがいくつかあります。今日はお義父さんに、まずそれについて申し上げたいと思って伺いました」。

 「そうですか。是非聞きたい。聞こう、聴こう、効かずとも、というところだ」。

 「有難うございます」。

 そこで仲三は、躊躇いがちにこう聞いた。

 「その前に、君の意志を確かめておきたいことが、一つあるんだが」。

 「何でしょう」。

 心持ち身を乗り出すように、巌は言った。

 「それは、何と言おうか、曰く言い難い、つまり……別の問題と言えるようなことは実際にあったのかい」。

 仲三が何かの空き缶で作った煙草盆に、煙管の灰をポンと落とした。

 「ええ……、ありました」。

 「今なら、それを言うつもりはあるのかい」。

 「いえ……、そのつもりはありません」。

 巌はそう応えた。

 仲三は暫く間を置き、「わかった」ともの静かに言い、巌に向けて「もつれた糸をほぐすのは、そう簡単ではないんだろうね」と呟いて、こう訊いた。

 「では、『審判』の話をしよう。君はこの小説をどう思った」。

 すると巌は、「その前に」と言って、問わず語りにこう言った。

 「私は勘四郎とは違って、小さなガキの頃から、鵜飼の実家とはいずれ縁を切ろうと思って生きてきました。今回は、長兄の勘太郎が当主になっていた岩郷を訪ねるしかありませんでしたが、その気持ちは変わっていないことを確かめて戻ってきました。勘四郎を除いた実家の人間とは、今、ことさらに縁を切るとは言いませんが、親しく付き合うことは、今後もないと思っています」。

 「そうですか……」。

 そう言ったきり、仲三は巌と自分の、実家に関する類似を思いながら、そのことは封印するように口を閉ざした。聴く耳を立てて、押し黙る地蔵のようになった仲三を相手に、巌の振るった長口舌はこうだった。

                  *

 「武田さんという人は、敗戦のときに上海にいて、兵隊にも二年ほど行った経験があるらしいですね。この話は、主に語り手が語る敗戦後の上海の日本人たちの不安と、二郎という主人公が語り手に宛てて書いた手紙文とでできていて、一見、作者の武田氏が語り手と同一という体裁で書いているように思いますが、まず、これは創作上の巧妙な仕掛けなのだと思いました。語り手自身が戦闘に関わったという経験がないかのように書かれているわけで、小説ですから嘘でも別に構わないとは言え、作者の武田氏自身に戦争体験があることは客観的な周知の事実なのですから、これは何か含みのある虚構だと感じました。どんな含みかと言うと、私は、これは虚構の形をとった、実は事実の告白ではないかと思ったんです。つまり、お義父さんの言い方を借りるなら、『忘れようとした記憶を思い起こす』ために覚悟して書きつけた、作者自身の気を入れたメモ書きのような側面があるではないかと。

 そう考える理由の一つは、作者と語り手の間にある微妙な関係です。作者は語り手と同一人物だと装っています。しかし、一方では、それが虚構だとバレルことに気を使っている様子がありません。つまり、バレルのは覚悟の上と言いますか、私にはむしろ先刻承知で、バレルことを狙っていたとさえ思えるのです。

 そう思うと、二郎の手紙が語り手の文章と似ているように思えることが、気にかかるんです。同じ作家が書き分けたわけですから似るのも当然なのかもしれませんが、私にはむしろ作者が設定上の理由から、二人を書き分けなければならないことにあまり神経を使っていないと言いますか、『忘れようとした記憶を思い起こす』ために書いたことを前提に考えると、この、作者が語り手と同一人物に見えてしまうという虚構の破綻がまた、武田氏の『巧妙な無神経』――これは誉め言葉のつもりで言うのです――に拠るもののように思えてくるのです。尊敬する師匠の夏目漱石の全集を編むに当たって、弟子の森田草平が、師匠の当て字や自己流の送り仮名の多さに辟易し、ついに『先生の文字に対する無頓着』を批判せざるを得なかったと聞いたことがありますが、その時の森田のような気分、と言ったらおかしいかもしれませんが。

 しかし、そう思って読むと、手紙文体で書かれた二郎の告白部分も妙に嘘臭いと言いますか、たとえば『ただ何か自分がそれを敢えてした特別な人間だという特別な気持ちだけがしました』という述解がありますが、本当らしさの中に微妙なわざとらしさを感じてしまうのが二重に本当らしいと言うか、離れたところから語ることによって、読者が武田氏自身の経験だと思うかどうかには惑わせられることなく、自分の体験を過不足なく残しておこうと努力しているんじゃないかと思いました。三たびお義父さんの言い方で言うと、『忘れようとした記憶を思い起こす』ために、並みの小説なら必要な、相当量の虚構的な配慮を敢えて無視して書いたというか、その意味では、予め意図的に破綻させられた作品なのではないかと思ったわけです。そういう作品に、どういう文学的な価値があるのかどうかは、私には言うことができませんが。

 もう一つ、老夫婦を殺す直前にある……『殺してごらん。ただ銃を取り上げて射てばいいのだ。殺すことがどんなことか、お前はまだ知らないだろう。やってごらん。何でもないことなんだ』以下の、自分に語りかける、囁く悪魔のような独り言。これも何とも薄っぺらくて不自然でわざとらしい、粉飾したに等しいような言葉が続いて、私は読みながら思わず目をそらして、天井を仰いだんです。武田さんのような人間は、いや武田さんのような人間でなくても、たぶんそんな時は、言葉も言えずに茫然と時の流れに身を任せてしまうものなのだという気がしたのです。でも、それでは彼が書きつける小説によって、読者が『忘れようとしていた記憶を思い起こす』ことができない。かと言って、私のように思わず目をそらす読者ばかりでは小説として元も子もないと、小説家・武田泰淳という人物の、あったかもしれない苦悩について考えました」。

 「あの人は浄土宗の僧侶らしいね。中国文学者で、戦前は赤だった時期があると聞いた」。

 「そうですね。ああいう強くて弱い男が多かったんです、赤には」。

 「君は、彼が本当に殺したと思っているの」。

 「……ええ」。

 「でも、それだけじゃ、死んでいったあの老夫婦が救われんのじゃないか。私には、記録な意味合いだけをこの話の肝心な点だと見做したら、老夫婦の死という問題の扱いを間違ってしまうのではと思えるんだが……」。

 「確かに、それではあの老夫婦は救われませんね。でも、その問題と、あの小説が『忘れようとした記憶を思い起こす』ために書かれたこととは、別の問題として考えたほうがいいのではないかと思います。いまのところ私には話す気がなく、書くことも能力的に無理ですから、他人によって書かれた作品に、自分が救いに至る道を、たとえ可能性だけであっても、託し、見つけ出したいと思うからです。そう思う人は多いはずです」

 そこまで話しつつも、巌は或る確信をもってこうも考えていた。「あの老人夫婦の痛ましさと、『忘れようとした記憶を思い起こす』ために書いた小説のことを、単純に別の問題として分けて考えることなどできるのか。いや、できない。できるわけがない。してはいけないことなのだ。わたしは、知らず知らずのうちに武田さんに身を寄せて考えていたけれど、それは『忘れようとした記憶を思い起こす』という辛く真摯な目的があって実際に書いた武田氏ではない私などが、すべきことではないのだ」と――。「では、どうする。どうすればいいのだろう」。

 時間が近づいていた。二人のあいだを沈黙が支配しかけたとき、仲三が、時計を見ながら、巧妙に話題を変えた。

 「そろそろ屋台の時間だから、その話は近々あらためてもう一度話そう。いや、君さえよかったら、一度と言わず、何度でも繰り返して。

 それで今日は、もし君に時間の余裕があればの話だが、せっかくだから、すぐそこにある青葉神社に行ってみてはどうだろう。混乱のほどき口が見つかるとは言わんが、階段は草の匂いで一杯だし、鵜飼の家とは縁がある伊達家とゆかりが深い。実家が嫌いなのは承知しているが、回り道をしても損はしないと思う……」。

 「あぁ、今日は、残念だけれど駄目です。これからっちゃんのところの若い人と、顔を合わせる会合に行くので……」。

 それでその日は別れた。 

 

4.「終わり」を、「終わらぬ始まり」にするために 

 それから何日かが過ぎ、鮮魚市場の営業時間に合わせて店が半ドンになった日に、巌はあらためて伝えたいことがあって、午後になってから自転車で「北田町」に顔を出しに行き、あいにく留守だった三人に宛てて、とりあえず以下の要旨のメモを書き置いた。 

・実家とは縁は切らないが、相続は放棄したし、もうできるだけ顔を出さない。これからは小さなときからの思い通りに、鵜飼の五男ではなく、一介の「鵜飼巌」として生きていく。  
・そのためにっちゃんのところで働いて、金が貯まったら、早めに職を見つけて独立したい。  
・独立後は、岩郷出ではなく大陸渡来の根無し草として、一家を養っていく。綾やこれから生まれる子どもだけではなく、義父さん、義母さん夫婦とも一緒に暮らしたい。

 そして、書き置きをポストに差し入れた巌は、帰り路にふと気が向いて、ここは大学病院に行って三人と会うよりも、先日、仲三が勧めてくれた「青葉神社」に行くほうがいいと思って、ハンドルを北に向けた。そして、初代仙台藩主・貞山公伊達政宗を祀った神社の、高い石段を昇った境内の隅っこに、頃合の切り株を見つけて腰を落ち着けると、先日ほぼ四年ぶりに買った煙草を喫って、ほぼ半時ほどぼんやりしていた。

 「青葉神社」は、仙台の城下町を南北に貫いて北に向かう国道四号線に沿った西側の一本目の小道が、小高い北山丘陵にぶつかって、いったん東に向きを変えるところ、つまり勘四郎の店のある「東一番町」から須崎鉄工所のある「六番町」や綾と仲三夫婦が住む「北田町」のある北の方向へ一直線に向かい、この二つを越えて突き当たったところに位置していた。

 「伊達家の忠臣が建立したやしろらしいが、そんなことには興味のない俺が、義父さんに促されてこの場所にいるのも、何かの因縁かもしれないな」と、巌は思った。

 そして煙草を二本喫い終えると、思い立ったように「東一番町」の「今野魚店」に帰り、店先に立って婚礼用の鯛を焼いていた身重の勘四郎の妻・絹代きぬよに声をかけて、市場の組合が作った「伊達政宗」についてのビラを読みたいと言った。絹代は、『あーら』とでも言いたそうにおどけて目を丸くし、鯛を焼く手を休めて、帳場の棚の上から五、六部のパンフレットを取り出してこう言った。

 「ごんさん。まあせっかくだから、騙されたと思って、よーく読んでみさい。政宗さんが遺したものじゃないと仰る方もいるようですけど、いいものなら誰が書こうが、読んで損はないっちゃ」と、笑いながら手渡してくれたパンフレットには、「貞山公遺訓」とあった。

 巌は、その口語訳に気を惹かれて、制作にはっちゃんも絡んでいるんだろうなと考えながら、二度、三度と目を通した。

貞山公遺訓(口語訳)

仁に過ぎれば弱くなる。(人のためを思う気持ちが強ければ自分が弱くなる。)
義に過ぎれば固くなる。(正しくあろうとする気持ちが強すぎれば考えが固くなる。)
礼に過ぎればへつらいとなる。(人を尊重しようとする気持ちが強ければこびになる。)
智に過ぎれば嘘をつく。(利口なだけでは嘘吐きになる。)
信に過ぎれば損をする。(人を信じるばかりではだまされて損をする。)

 「仁と義と礼と智と信。親父の考えたことのヒントの一つは、この遺訓だったのかもしれないな。そして、政宗のその解釈。俺に当てはまりそうなものもあるじゃないか」。

 そんな思いで二度、三度と繰り返し読んだ巌は、清濁併せ呑む突猛進型の自分とはやや異なって、「過ぎれば」と留保をつけた「遺訓」に見えるニホン人の意識せぬシタタカサに感じ入った。正宗、勘四郎、絹代、そして仲三、ときにはコマや母や、俺までも含めた他の誰かにせよ、昔からニホン人には、こういうところが抜き難くあるのだ、と。

 そして、つい一時間ほど前に、苔むす青葉神社の長い石の階段を、ふもとに置いた自転車を目指して踏み降りながら、木洩れ陽のように淡く心に刺さったものを、改めて確かめるように反芻していた。

 「……俺の罪や、子どもの頃から装ってきた作り物めいた強さ、見たくもなかった本来の弱さの只中から、おそらく義父の仲三が考えているような旧来のニホン人ではないニホン人、新しいニホン人が出てこなければならないのかもしれない。そのためにも今の俺には、何をおいても、この肩にのしかかった重い荷物を、たとえ話せずに黙って隠しおおせるとしても、意識して一人確認し続けていくしかないのだ。……できれば仲三さんの近くで……」。

 ――その覚悟はまるで、まだ生まれていない彼・巌の息子、この鵜飼光矢うかいこうやの胸を半世紀後によぎる揺らぎと小さな決意とを、予め言い当ててみせるかのようだった――。 


脚注

まえがき

*1 「日本基督教団」:一九四一年、日本国内に三十三あったプロテスタントの教派が合同で成立した教団。通称は「日本キリスト教団」、略称は「教団」。

*2 召命:「しょうめい」。神の恵みによって神その人に呼び出され、使命を受けること。

*3 「ばっち子」:東北、北関東、北陸などで使われる方言。「末っ子」のこと。

*4 エス:主に戦前の女学校の生徒同士、あるいは生徒と女教師との間に結ばれた、性的なニュアンスを含む疑似恋愛的な強い絆、あるいはそれに伴うさまざまな文化のこと。英語のsisterの頭文字からきた隠語らしく、それを基にした吉屋信子、川端康成(下書きは中里恒子)などの文学作品を指すこともある。

*5 国鉄:1987年、時の中曽根内閣によって民営化して分割される前の、現在のJR各社を総称していた名称。

序章

*1 没法子メイファーズ:綾が肯定的なニュアンスでよく使った中国語の感動詞。「仕方がないさ」の意。

*2 ドリス・デイの「ケ・セラセラ」:アメリカの歌手ドリス・デイ(一九二二-二〇一九)が、一九五六年のアルフレッド・ヒッチコック監督の映画『知りすぎていた男』の劇中で歌ったヒット曲。「ケ・セラセラ」とは、「心配するなよ。なるようになるさ」と楽観的に使うときの呪文のような言葉。

*3 大きな霊園:西武新宿線小平駅北口にある公営都立小平霊園のこと。

第一章――1


*1 桂太郎(かつら たろう):一八四八年~一九一三年。陸軍大将、政治家。第十一、十三、十五代の内閣総理大臣。台湾総督、陸軍大臣、内務大臣、外務大臣、文部大臣、大蔵大臣などを歴任。部下の誰にでも笑いかけてポンと肩を叩くので「ニコポン大将」と言われていた。日露戦争中の一九〇五年に桂が深く関わった「桂・タフト協定」は、日本が米国のフィリピン統治を承認、米国が朝鮮半島における日本の優越的支配を認め、後の北東・東南アジアの情勢を大きく規定している。

*2 一字拝領(いちじはいりょう):家臣が主君から諱(いみな=本名)   の一字を賜って、自分の名に用いること。室町・戦国時代に盛行した。

*3 字(あざな):男子が元服してつける名。わが国では、元服する年齢が一定しないので、字を名のる時期も一定しない。生まれたとき親がつける「本名」に対し、「字」は目上の者が本人の徳などを考慮したりなどしてつけられた。「字」ができると本名はあまり使われなかったため、本名を諱(いみな=口にするのが、憚られる言葉)とも言った。

第一章―――2

*1 『満韓ところどころ』(まんかんところどころ):漱石は一九〇九年(明治四十二年)に満洲・朝鮮を旅行した。紀行文である「満韓ところどころ」は、朝日新聞に一九〇九年(明治四十二年)に掲載され、一九一〇年(明治四十三年)に、「夢十夜」「永日小品」「文鳥」とともに春陽堂刊の『四篇』に収められた。引用箇所は本文中の「51」にある。引用は「青空文庫」から。

*2 スチュジオ:ロンドンで発行されていた美術雑誌。

*3 板垣征四郎いたがきせいしろう石原莞爾いしわらかんじ:板垣(一八八五~ 一九四八)は、陸軍軍人。満洲国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、陸軍大臣などを歴任。石原莞爾らと柳条湖事件や満州事変を起こした。柳条湖事件時は大佐。最終階級は大将。戦後の極東国際軍事裁判級級戦犯として死刑判決を受け処刑された。731部隊の前身である関東軍防疫部の設立提案者でもある。石原(一八八九~一九四九)は、陸軍軍人、軍事思想家。関東軍作戦参謀として、板垣征四郎らと柳条湖事件や満州事変を起こした。柳条湖事件時は中佐。最終階級は中将世界最終戦ロン最終戦論』。後に東条英機との対立で予備役に追いやられる。戦後は病気と反東條の立場が影響したのか戦犯指定を免れている。

*4 「偽満ウェイマン」:「満洲国」の歴史的な傀儡性と反人民性を示すために、中華人民共和国を中心に使われている呼称。「偽満洲国ウエイマンチュウグオ」とも言う。

*5 石橋湛山いしばしたんざん:(一八八四~ 一九七三年)。ジャーナリスト、政治家。内閣総理大臣、大蔵大臣、通商産業大臣、郵政大臣などを歴任。戦前は『東洋経済新報』にあって、一貫して日本の植民地政策を批判、「加工貿易立国論」を唱えた。戦後は「日中米ソ平和同盟」を主張して政界で活躍。保守合同後の自民党総裁選挙を制して総理総裁となったが、在任二ヵ月足らずで発病し退陣を余儀なくされた。退陣後は中華人民共和国との国交正常化に力を尽くす。

*6 清沢洌きよさわきよし:(一八九〇 ~ 一九四五)。ジャーナリスト、評論家。外交問題、とくに日米関係の評論で知られる。太平洋戦争下における日記が『暗黒日記』として戦後公刊されたことで名高い。

*7 「天の岩戸開く」:一九四一(昭和十六)年十二月十八日付「東京日日新聞」に、十二月八日の日米開戦にともなうアンケート「決戦の声」に発表された小説家・志賀直哉の回答。多くの人の支持があったらしく、私の回りにいた高齢の方たちのなかには、この記事を知っていた人も多い。一九八四(昭和五十九)年発行の『志賀直哉全集』第十五巻(岩波書店)に収録されている。

*8 エッセイ:題は「シンガポール陥落」。一九四二(昭和十七)年二月十七日に、NHKラジオで放送されたもの。翌三月発行の『文芸』第十巻第三号の巻頭に掲載された。一九五五(昭和三十)年に発行の新書判『志賀直哉全集』第九巻「随筆集一」(岩波書店)に初めて収録されている。

*9 渡辺清わたなべきよし:(一九二五~一九八一)。作家、反戦運動家 、わだつみ会常任理事・事務局長。高小を出て昭和十六(一九四一)年に十六歳で海軍の志願兵となる。戦艦・武蔵に乗りこみ、沈没で九死に一生を得る。戦後は結核で闘病生活を送りながら、『思想の科学』などで自らの戦争体験をほりさげる執筆を続けた。他の著書に「海の城―海軍少年兵の手記」などがある。日本戦没学生記念会“わだつみ会”事務局長となり、機関紙「わだつみの声」を編集した。

*10 こうの史代ふみよ:(一九六八~)。漫画家。イラストレーター。『街角花だより』でデビュー。二〇〇四年、『夕凪の街 桜の国』(双葉社)で第8回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞、第九回手塚治虫文化賞新生賞を受賞。同作は映画化され、二〇〇七年に一般公開された。二〇〇九年、原爆投下を扱う生活者の目で等身大に扱った『この世界の片隅に』(双葉社)で第13回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞受賞。同作はテレビドラマ化され、二〇一六年には劇場アニメ版も公開されている。

*11 「ままこ」:まだ幼いので、仲間うちで「(ルールのある遊びから)仲間外れ」にされる子のこと。昔の「餓鬼大将」のグループなどには、遊びで「ままこ」扱いされながら、それでもグループについていく「ままこ」がよくいたものだ。

*12 「今思うと、南極の犬みたいな名前だったわね」:タロとジロは南極地域観測隊に同行した カラフト犬の兄弟。極寒の南極に取り残されながら共に生存し、一年後に救出されて国民的な話題になった。一九八三年に『南極物語』として映画化された。

*13 文装的武備:後藤新平の造語。教育設備を含めた「植民地政策の間接設備」のことをこう呼んだ。「文化侵略」や「文装的侵略」の同義語として、「王道の旗を以て覇術を行う」ものとした。

第一章―――3

*1 中華料理店を軌道に乗せていた慎二:料理店の名は「三点鍾」といった(中国では鐘を叩いて時間を知らせていた。鐘が三つ鳴る「三点鍾」は、夕方の五時半をすぎて、六時に近いころ)。「満洲の餃子」は水餃子で、その日本人ヴァージョンが焼餃子であり、「三点鐘」の餃子は、焼餃子だった。そのレシピは、巻末の「附録」を参照。

*2 『聊斎志異』の「黄英」:『聊斎志異』は蒲松齢ぼしょうれい作の中国清代初期の短編小説集。「黄英」はその中の菊の精を扱った作品。

*3 『自由からの逃走』:(エーリッヒ・フロム著、日高六郎訳、東京創元社)

*4 『ジャマイカの風(A High Wind in Jamaica/Richard Hughes)』:引用部分翻訳は日高六郎。

*5 葬式躁病:精神科用語。 正式な学術用語ではないが、精神科医の間では広く知られている言い方。 近親者を亡くして悲しいはずなのに、妙に明るく振る舞い、多弁で笑顔を絶やさないなど、見かけも心理的にも気分が高揚している状態。

第一章―――5

*1 大陸浪人:敗戦前の日本のアジア政策の一翼を担うという志のもとに、中国、朝鮮などに居住、放浪した国家主義者、大アジア主義者の俗称。支那しな浪人ともいった。

*2 中国人労働者(苦力クーリー)たちのこんな姿もあったはずだ。:引用は漱石『満韓ところどころ』の「十七」から(青空文庫)。「苦力クーリー」は、当時の中国の労働者で、とくに荷担ぎ夫、鉱夫、車夫などをさす。「タミル語」の「雇う」という意味の言葉を、英語ではcooly, coolieと表記し、中国では「苦力」と表記したといわれる。

*3 『シーシュポスの神話』:『異邦人』『ペスト』などを書いたフランスのノーベル賞作家、アルベール・カミュが、第二次世界大戦中の一九四二年に書いた哲学的エッセイ。神を欺き、その怒りをかったシーシュポスは、大きな岩を山頂に押して運ぶという罰を受け、神々の言い付け通りに岩を運ぶ。しかし山頂に運び終えた途端、岩は転がり落ちてしまう。何度繰り返しても同じだったにも関わらず、彼は「これでよし!」と叫ぶ。カミュはここで、皆いずれは死んで全ては水泡に帰す事を知っているにも拘わらず、それでも生き続ける人間の姿を肯定的に描き出した。

*4 安西冬衛(あんざいふゆえ):(一八九八~ 一九六五)。日本のモダニズム詩を牽引した詩人の一人。一九二〇年に父の赴任先だった日本の租借地、大連に渡り、翌年に関節炎で右脚を切断。文学に興味を示し、北川冬彦らと詩誌「亞」を創刊した。

*5 八百屋お七を気取って、棘を抜く代わりに:井原西鶴の『好色五人女』は、自ら積極的に恋愛行動に出る町娘を描き、八百屋お七の原典として名高い。『好色五人女』では、火事で焼け出された本郷の八百屋八兵衛の一家が、駒込の吉祥寺に避難するが、その避難生活の中で、お吉が寺の小姓である小野川吉三郎の指に刺さったとげを抜いてやり、それを機縁に、二人は互いを意識する。

第一章―――6

*1 加藤典洋(かとうてんよう):(一九四八~ 二〇一九年)文芸評論家。日本の戦後を論じた『敗戦後論』以外に、『可能性としての戦後以後』、『戦後的思考』、『戦後入門』、『9条入門』、『9条の戦後史』などがある。

*2 『仁義なき戦い』の広能昌三(ひろのうしょうぞう):『仁義なき戦い』は、日本暴力団史上で最も多くの血を流したと言われる戦後の“広島ヤクザ抗争”を、その渦中にいた“美能組”元組長の獄中手記をもとに飯干晃一が書いた同名のノンフィクション。深作欣二監督がドキュメンタリー・タッチで映画化し、一時代を画した。一九七三年に第一作が発表された実録ヤクザシリーズだった。広能昌三は菅原文太が演じたその主人公。

*3 「ちゃんころ」や「露助」:「ちゃんころ」は、対中戦争中に中国人に対する蔑称として定着した兵隊用語。「露助」は、ロシア語の「ルースキー」に由来する語で「ロシアの」を意味し、元は差別的な言葉ではなかったが、日露戦争、シベリア抑留などを通して、「露助」に姿を変えてロシア人に対する蔑称として定着したらしい。

*4 『野火』:一九五一年発表の大岡昇平(一九〇九 ~ 一九八八)の小説。作者自身のフィリピンでの戦争体験をもとに、死に直面した際の人間のありさまを非情なタッチで描き、昭和二十六年度の第三回読売文学賞・小説賞を受賞した。

*5 『審判』:一九四七年発表の武田泰淳(一九一二~一九七六)の小説。一兵卒として中国戦争に参戦した作者自身の戦場での体験告白であり、誰にも裁かれない自分の犯した戦争犯罪を自身の手で裁くために描かれた作品と言われる。

*6『日本鬼子リーベンクイズ』:『日本鬼子(リーベンクイズ) 日中15年戦争・元皇軍兵士の告白』(発売元:ローランズ・フィルム)。二〇〇一年制作の中国大陸での旧日本軍の残虐行為を伝える、松井稔監督によるドキュメンタリー映画。加害者である十四人の元兵士が当時の加害体験を振り返り、略奪や虐殺に根ざした侵略戦争の実態を証言する。「リーベンクイズは「日本鬼子(日本の鬼たち)」の中国語読みで、中国の人々は日本兵をそう呼んだ。

*7 引用文は、『21世紀のマダム・エドワルダ』/「危機論 希望への想像力を獲得するために」(大岡淳・編著/二〇一五年、光文社)中の社会学者・大澤真幸の発言を、今野(筆者)が抜粋して掲載。

*8 『聞き書き ある憲兵の記録』:一九九一年に刊行された朝日新聞山形支局による取材構成本。東北の一農村の青年が、「日本鬼子リーベンクイズ!」と叫ぶ中国の人びとの声を聴きながら、どのようにして優秀な憲兵となり、どんな手段で反満抗日分子を弾圧し、殺したのか。そして戦後十年の抑留生活の中でどのように罪を自覚したのか。本人が聞き書きの形で語る真摯なドキュメント。

第二章―――1

*1 中立条約:日ソ中立条約。日本とソビエト連邦が一九四一(昭和十六)年に締結した中立条約。相互不可侵、および一方が第三国に軍事攻撃された場合における他方の中立などを決めた条約本文と、満洲国とモンゴル人民共和国それぞれの領土の保全と相互不可侵を義務付けた声明書で構成される。有効期間満了一年前までに両国のいずれかが廃棄通告しなかった場合は、五年間自動延長されるとした。有効期間は五年。日本の敗色が濃厚になりつつあった一九四五(昭和二十)年四月五日に、ソ連政府は「一九四六年四月二十四日に期間満了するソ日中立条約を破棄する」と日本政府に通達した。

*2 日本新聞:ソ連でシベリア抑留者向けに発行されていた邦字新聞。後に『日本しんぶん 』。

*3 チャンコロ:中国人中華民族=漢民族)対する蔑称。「中国人」の中国語音( Zhōngguórén チョンクオレン)の転訛。(『広辞苑』)

*4 閉じ込めてしまう話:『王様の耳はロバの耳』のこと。

*5 DDT:一九三九年に開発された最初の有機合成殺虫剤。防疫および農業用殺虫剤として世界中で使われ、終戦後の日本でもその白い粉が多用されたが、後に「農薬取締法」によって販売が禁止された。

*6 まて:「ていねいに」の意を持つ仙台弁。

*7 ずんだ餅:すりつぶした枝豆に砂糖を入れてあんに用いる餅菓子で、以前は夏のお盆のころに食べることが多かった.。宮城県の郷土菓子。 

*8 カストリ雑誌:終戦直後に刊行されていた、セックス記事と読物を中心とする大衆娯楽雑誌。「カストリ」の由来は、粕取り焼酎三合飲めばつぶれるように、三号出して廃刊するような安直で質の悪い雑誌だったから。

*9 五衛門風呂:かまどに釜を乗せ、その上に石や陶器の風呂桶を取りつけて、下から焚いて沸かす昔ながらの風呂。木の底板を利用して浮蓋うきふたにし、その板を足で踏み沈めて入る。

*10 おらい:「俺の家」を意味する仙台弁。

第二章―――2

*1 ごっしゃく: 仙台弁。自動詞として「怒る」、あるいは他動詞として「叱る」という意味で使う。

*2 おどけでねぇ: 仙台弁。「ものすごい」、「楽ではない」の意。「おどけるでない」で「ふざけるな」という意味で使われるときもある。 

第二章―――3

*1 「日本の戦後は戦争の記憶を忘却することからはじまった」:白蓉著「武田泰淳『審判』論 ―人間の自覚を求める心―」にある言葉。

*2 冊子:『批評』(一九四七(昭和二十二)年、四月)。以降、武田泰淳泰淳『審判』の引用は、『上海の蛍・審判』(二〇一六年、小学館)より。

*3 マッカーサー元帥のおかげで、軍人・軍属の恩給もなくなったのに」:一九四六年、連合国最高司令官の指令により、重症者に係る傷病恩給を除き、旧軍人軍属の恩給が廃止された(勅令第68号)。


 

 

 

付録

 最後に、鵜飼家の三代にわたる食彩の象徴、「満洲餃子」のレシピを掲げて、本編の結びとします。

満洲餃子(「三点鐘」ヴァージョン)

 三年前、還暦を過ぎてからのこと。友人が経営する或る食堂に、50名ほどの近しい人たちに集まってもらって開いた集まりで、「満洲肉餃子=豚饅頭」を披露した。

 そのときの配布用に作ったレシピを紹介する。祖父母と両親と私たちの三代、さらに満洲と日本国を跨いだ鵜飼家の人々に、「誰もが好きなもの」として受け継がれてきたものだ。

満洲肉餃子レシピ (60~70個、4人分)

材料 白菜    1/2株

   長葱    2/3本

   豚挽肉   1200g(できたら赤身70%くらいのもの)

   大蒜    特大3粒(60gくらい、ただしお好み次第、うちではかなり多めに使っていた)

生姜    大蒜と同量  

ラード   大匙すり切り四~五杯(後述するように、ラードを使うのがこの餃子のポイントの一つ)

醤油    30ccていど

塩     少々

    

Ⅰ. 白菜

① 白菜は、葉の緑の部分を落とし、白い部分だけを刻んでみじん切りにする。

② ①を大きな俎板に乗せ、両手に持った二本の包丁で細かく叩く。

→最初のうちは飛び散った白菜の切れ端が飛び散るので、ときどきかき集めて叩く。白菜が細かくなるにつれ、自ら出す水気で飛散が少なくなる。切れ端の一粒の大きさがわからないくらいに小さくなったら終了。

この作業は、白菜の変化の様子が手に持った包丁に伝わってとても面白く、餃子づくりの醍醐味の一つなのだが、手間がかかるのが難点。面倒ならミキサーなどを使っても構わないし、さらに白菜を叩く前に軽く湯通しすれば叩いても水気が出ず、飛び散ることもないから大分楽だ(ただし、鵜飼の家では白菜のミキサーと湯通し、とくに白菜の風味を変える湯通しは邪道扱いでした)。

③ 両掌で白菜を搾る→お握りをつくる要領で搾るが、搾れさえすれば手拭いでくるんで絞るなど、他の方法でも構わない。

ただ、絞りが甘いと、水気が残って具が白菜臭く、しかも柔らかく崩れてしまうので、注意。満洲餃子の最大の特長は、具がコロッとして脂っぽい(肉っぽい)ことにある。

Ⅱ. 葱

白菜と同様。ただ、白菜ほどの水分はないので、叩きと絞りは白菜よりも甘くてよい。

Ⅲ. 大蒜と生姜

おろし金でおろす。

Ⅳ. 具の調合 

豚の挽肉とラード、大蒜、生姜を合わせ、できれば摺り鉢で摺る。豚肉の脂身とラードで、具全体に白味と粘りが出てきたら、いったん手を休め、醤油を注ぎ、塩を振って、もう一摺りする。

→このときに、滿洲帰りの母・綾は左手の小指の先で生の具に触れ、舌先にあてて醤油と塩の加減をみていた。幼い目にはそれが儀式のようで、いかにも「滿洲」という感じがした(ここで、母は「これも邪道なのよ」と言いながら、「味の素」も入れる時があった。「グルタミン酸とつけ汁に使う酢醤油の頃合いがいいと、とても旨いの」と)。

全体に「滿洲餃子」独特の(「醤油」の醸造香に、大蒜その他と豚肉の香りがほどよく混じった)香りが匂い立ってきたところで終了。

→ラードを多めに入れることで、焼き上がった餃子を食べるときに、コロッとした具と一緒に、溶けたラードが豊富な肉汁に混じってピュッと跳び出る。好きな者には、これがたまらない。


Ⅴ. 皮

皮が市販されている今では、手作りする人はほとんどいないが、父・巌のいた頃の鵜飼家では手作りだった。「三点鐘」ではカウンターの客の前で、慎二伯父が強力粉を練って作った塊から、大きな俎板の上にまいた粉のうえで、麵棒で丸くちぎった塊を皮に伸ばしながら、客と世間話を交わすのが売りの一つになっていた。

Ⅶ.  包み方

できた具を1個あたり25gの見当で包む。総計1600g強の具に対して60~70個分の見当。

Ⅷ. 焼き方

熱した鍋に餃子を並べ、焼き始めに餃子の1/3まで被るくらいのお湯を入れ、蓋をして蒸し焼きにする。最初は強火、泡が立ってジュージューいったら中火に落とし、お湯がほぼなくなったところで適量の差し水を落とし、再び蓋を。やがて油を残して水が消え、焼く音が乾いた騒がしい叩くような音に変わり、半透明の皮の中で油が沸騰して踊っているのが見えたら火を止めて出来上がり。

焼きたてが旨いのは当然だけれど、食べるうちに時間が過ぎて少し冷め加減になると、また一味違った旨さが楽しめます。

    

終わりに

 この一文の大半は、二〇二二年の二月末、生涯で三度目の脳梗塞の発作に襲われて二か月ほど入っていた急性期病院を退院し、以来約五か月に及んだリハビリテ-ション病院への入院中に書いた。ラフな構想はそれ以前の比較的元気なときに、骨格だけは箇条書きの形ででき上がっていて、怠け者でさしたる能力にも恵まれていない私が、脳梗塞再来の恐怖と圧力とを前に(二〇一一年の最初の発作以来、不自由な右の手足に加え、梗塞の再来が左の手足まで巻き込むのを怖れていたのだ)、これ以上時が経たない(発作を繰り返さない)うちに、残しておかねばと思って書き出したものだ。「一寸の虫にも五分の魂」的なうざったいろうという、柄にも合わぬ、はやる気持ちがあったのだと思う。 

 退院から、さらに一年余りをかけて漸く書き終えた今……、三度目の発作はさすがに手強く、発作の直後に呼吸停止による命の危険を伴ったせいもあってか、今の生活は、車椅子と連れ合いの介護の負担抜きには語れなくなっている。にもかかわらず、ともかくも書き上げたのには、上の事情とは異なる、もう一つの理由があったことが大きい。

 それは、今回の発作で左右の目の運動能力に違いが生じ、そのせいで、両目を開けていると視野に混乱が起き(簡単に言うと、全てが二重に見える)、リハビリで歩くときにも世界が揺れ動いて、恐怖が拭えないという事実があることだ(かと言って、両目を開けておかないと視野が狭まり、車椅子で公道を動くには、他者とぶつかる危険が生じるのである)。
 つまるところ、「複視」と言われる今の状態を抱えて心が休まるのは、片目を閉じて焦点を一つに絞り、視界は狭いが、集中して入って行ける二次元の異世界、つまり語り手として左手一本で触れるパソコンの中の文字の世界だけだったのだ。
 しかし、私は、書き終わってから、たとえば登場人物たちの一つひとつの行動を、今の自分には何一つ再現できないという単純な事実に気がついた(或いは気づかぬうちに抑圧していたのかもしれない)。と同時に、ほぼ一年半の間、その事実を真剣に考えなかった自分の迂闊さに呆れた。なにせ、今の状態で私の歩行能力は、四本足の杖を使って四、五〇メートルがせいぜいなのだ。

 動けなくても想像力があるだろうなどと、それ自体は正しくとも、酷な気休めは言わないでほしい。今の私は、そんなコメントの遥か手前、自分には何ができ、何が残されているかという大問題が大蛇おろちのごとく鎌首をもたげて、まるで禁断の木の実に手をつけて放り出された、悪しき幼子のような気分なのだ。 

 「複視」については、障害者専門の大病院で検査をしてもらい、若い優秀そうな医師に、「今の医学では<どうしようもありません>」と手短かに宣告された。

 さて、どうするか。<どうしようもない>のなら諦めるしかないのか。しかし、諦めるとは、そもそも何か。一方ではリハビリを続けながら、この問題アポリアにどう立ち向かおうかと、今は「からだ」の内と外から、繰り返し「できること」を探っている状態なのだ。――一方では、俺もやっと人並みという、奇妙な思いも抱えながら…… 
                     二〇二三年十一月 今野哲男

チャールズ・テイラー『<ほんもの>という倫理』(田中智彦訳、ちくま学芸文庫)を読み始めた日に。 


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