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Everybody finds love, In the end.

友人の母が亡くなった。

2年半前、こういう文章を書いた。読んでいただかなくていい。

人生で最初に友達になった、幼稚園の同級生5人と今も関係が続いていて、その中のひとりの母が、また去った。それだけの話である。

別の1人の母親は、彼女が40歳付近の時に亡くなっている。俺たちはもう40だから、「もう誰が死んだっておかしくないよな」という話をした。人の死に触れることは、自分の死を思うことだ。自分が、死の連鎖としての人類史の砂粒の一つであることを教えてくれる。

一方で、3歳で出会った俺たちの子どもは、もうとうに3歳を超えた。夜中に故人の写真を探して幼稚園のアルバムを引っ張り出し、自分の子より小さい頃の自分を見つけたあとで寝床に戻り娘の寝顔を見たら、時空がぐにゃっと曲がり人生が小さく一周するおりんの音を聴いた気がした。

知人の葬儀に参列すると、悲しい。悲しいのは二度と会えなくなるからだし、自分の一部が死んだように思うからだ。でも、そうではない。むしろ逆で、人生の中で出会う無数の人々との毛細血管のような関係群の枝の中で、故人との一本が絶たれないまま永遠になったことを静かに感謝する場なのだ。

俺はよく他人から「今野って、頭いいのかバカなのかどっちなの?」とか「インテリとマイルドヤンキーのあいのこ」とか「やさしそうだけど冷酷に人を埋めそう」とか「達観してそうなのに子どもっぽい」とか「ビジネス書の出版社にいるのに、ビジネス書っぽくない本ばかり作る」とかの、「◯◯だけど××」的な裏切りフォーマットの評をもらうことが多い。

そう言われるたびに、少しうれしくなる。俺はその全てだからだ。俺は頭がよくてバカでインテリでマイルドヤンキーでやさしそうで人を埋めそうで達観してそうな子どもっぽい39歳としてビジネス書っぽくないビジネス書を作っている。

ここで、一緒に参列した5人の幼なじみの中の1人をご覧ください。

「神輿が勝手に歩ける言うんなら歩いてみないや、おぉ !?」

「人を埋めそうだ」って「ならお前を埋めてやろうか」と思うようなことを言われるとき、俺はこの男を思い出す。実際は繊細で優しい男なのだが、そう見られてもおかしくはないアウトレイジーな風貌と体格ではある。この男との関係が続いていることが、人をして俺をそう見せているような気がする。

こいつじゃない。俺が本当に人を埋めてきた。もちろん殺めてはいないが、何人もの自分自身を埋葬してきた。「ある人の前で現れる俺」の総体が俺であり、生まれてしまった人間関係を断つのは自分の一部を埋葬することだ。二度と会いたくないと思った人間を自分の人生から消そうとするとき、連絡先からある人のデータを削除するとき、SNSで誰かをブロックするとき、それらの主客が逆転して自分が誰かの人生から消されるとき、私たちはそうと気づかないまま本当の死を味わっている。私たちの死は、生きながらにして訪れる。

幼なじみと37年の関係が続いているのは、別に誇ることでもなんでもない。友達は選べるし、付き合いたくない人と付き合う必要はない。ただ、俺はこの5人との関係を殺さずに生きてきた。本当の自分などいない。出会う人々ごとに違う顔を見せる自分の一部の、埋葬されなかった部分で練り上げた暫定の肉団子にすぎない。

大学を卒業して社会人になり、ぼーっと地元を歩いていた。そこで故人と鉢合わせ、「おー、良介。元気?」と笑いかけられた。渋谷で家族ぐるみの納豆チャーハンを食べた帰り、山手線に乗り込もうとして列車とホームの間に落ちそうになった友人の妹を片手で引き上げ「危なかったー!」と笑った。

あの時の笑顔が、俺の命が潰える日まで俺の一部を形成する。そして俺の笑顔がまた誰かの一部になるなら、それは人類が滅亡する日まで巡り続ける。

ところで、葬儀業界の方々へひとつお願いがある。葬儀に参列するたびに俺を僧侶だと勘違いしてみんなと違う場所に案内しようか一瞬戸惑うのをやめてください。

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