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匿名の言葉が人を殺す

Twitterにおける匿名の悪意について。

Twitterは俺にとってひとりごとを流す場で、自分の考えを整理したり、物事を自分なりに捉え直したり、自分を元気づけるために使っている。しかしTwitterは「ひとりごと」のためだけに作られていない。「つぶやき」という表現もほとんど使われなくなった。

そもそものTwitterのアルゴリズムは、大まかに「ニュースの発見」と「ポジティブな会話」を促すように設計されていると感じている。結果として自分のタイムラインは「自分自身の広告」になる。ニュースの発信や会話の集積から人格が立ち現れ、その人格を好む人はフォローし、好まない人は離れていく。企業がTwitterアカウントを開設する目的もそこにあると思う。俺自身、あるアカウントのひとりごとを見て、ポジティブな会話を交わして、実際にその人に声をかけて会ったことも本を作ったこともある。それは現実世界への逆向きの延長線上にある人間関係の始まりとして機能しているような気がしている。

しかし、アルゴリズムがもたらす結果は使い手の意志にかかっている。匿名で他人を攻撃し、精神的に追い込まれるところまで攻撃し続け、現実世界から退場させることすらできてしまう。匿名には、人が人に向ける最低限の敬意や礼儀すら忘れさせ、誰にも見られたくない検便に提出する排泄物のような言葉を他人に投げつけてもなんとも思わなくなるようなダークサイドへと人を堕としていく誘惑がある。その誘惑に負けず、匿名で実名と同じくらいの敬意を持って人と会話しているアカウントを見るとすごいとすら思う。

俺はTwitterで匿名の人と会話することもある。しかしポジティブな内容に限り、最少限にとどめている。それは、話しかけてくる人が、自分自身の人格を背負って発言する責任を負っていないと思うからだ。たとえポジティブな内容でも、現実世界で知らない人が覆面をかぶって話しかけてきたら身構えるのと同じことだ。もちろん言いたくても言えないことを自分のタイムラインでひとりごととして流し他人からどう思われようと全く自由であるし、そのために匿名のアカウントを作る気持ちも理解できる。そういう気持ちになることだってあるから。

しかし、だ。匿名で他人を攻撃する人だけは本当に許せない。許せないというか、人間の卑しさの結晶のように思えて、人として認められない。それらが寄せ集まり集団的攻撃権みたいなものを捏造して行使する人々は皮肉ではなく写実的な意味でピラニアの歯を持ったウジ虫のように見える。当然会話などできない。

周囲で、悪意と憎悪が先鋭化していくTwitterに嫌気がさしてアカウントを消す人がたくさんいる。匿名の悪意はTwitterに巣食う癌細胞のようで、自分に転移する前に立ち去る決断は賢明だと思う。しかし、そもそもTwitterが人の悪意を増幅させ人を死に追いやるために作られたものではないなら、俺は俺のやり方でTwitterを続けようと思う。Twitterに救われたこともあれば、Twitterで知り合えた大切な友人もいるから。人間は悪意なしに生きられず自分の中にも悪意はあるから、アルゴリズムを変更してテクノロジーで外科的な切除手術をしたところで悪意は消えないと思う。それを前提に不活化を目指すしかない。

自分の言葉が人を殺す。その返り血は生涯消えない。

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