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なにが「試合の流れ」をつくるのか

ソフトボールや野球やサッカーやラグビーなどのチーム戦に顕著だが、テニスや卓球などの個人競技でも「試合の流れ」というものは確かにあって、流れに乗れた方が勝つ。解説者はあたかもそれが目視できたかのように「流れをつかんだ」などと表現し、しかし何がその「流れ」を作るのか不思議だったのだが、「個人がその状況をどう捉えているか」の集積が作る空気だろう。

ワンプレーで流れが変わるのは「いける」という思いがみんなに芽生えるからであり、勝ってる側がなぜか押されているような気がするのはチーム内の少なからぬ者どもが「やられるかも」と思う気持ちの拭いがたさが全体に伝播するからだろう。それはビジネスの競争でも同じだ。結果の前に精神がある。

昨日のオリンピック女子ソフトボール決勝で言えば、日本が四回に一点先行していたにもかかわらずアメリカの選手には笑顔があって、この時点でアメリカには「逆転できる」と疑わない空気があった。しかし攻勢に転じるべく五回途中から抑えで登板した絶対的エースのアボットが変わりばなにタイムリーを打たれてからアメリカベンチから笑顔が消えた。

信じていたものが崩れた時に、人は希望を失いがちになる。ピンチはチャンスだとか野球は9回裏ツーアウトからだとかはおまじないのように語られるが、全員が本気で勝利を信じられない限り、負ける可能性はゼロにできなくても勝てる可能性が限りなくゼロに近づくのが勝負の世界なのだ。

それは究極の個人競技であり、実力差が結果にモロに直結すると思われている陸上競技ですら、実力が一定の範囲内で拮抗している場面では「流れ」が結果を左右することを俺は何度か体験している。

高校の時に400mを専門にしていたのだが、後に全国大会決勝に残ることになる絶対的な実力者と地方予選決勝で戦った時に、前半200mで15mの差をつけられた。そもそもベストタイムに1秒以上の開きがあり、俺は胸を借りるつもりで臨んでいた。

自分よりも内側のレーンを走る者が15m先を走る姿が視界に入るというのは絶望的で、遥か前を走る彼を見て俺は明らかな実力差を感じ「やっぱこいつはえーな」と第3コーナーを回っているときにふと、「ならばこいつをどこまで追えるかやるしかねーだろクソが」とレース中に笑いが込み上げた。

第4コーナーに差し掛かってもそれ以上距離が開かないことを感じ、彼に十分な余力はないと察知した俺はレースの目的を彼を差すことに切り替えた。ベストタイムがどうか知らんが俺が減速を最小限に留められれば今このレースで勝てる可能性があると思った。陸上短距離は争いに見えてその実ただ自分のレーンを走るだけなのだが、その時の俺はホームストレートの直線を身で敵を討ち抜くためだけに息を止めて走り、ラスト5mで彼を追い抜きそのまま俺が先にゴールした。

彼に勝てたのはその一回きりだったのだがあの時の感覚は身体に残っていて、それが今の自分にどう活きているかというと、絶望的な状況に追い込まれた時に1%未満の可能性を自ら切り拓くためには恥ずかしき炎を自家発電するしかないということだ。

それは「勝ちを信じる」とか「自分を信じる」とかいう美しく汚れなき信念ではない。「ばかやろうおもしろくなってきやがったぜ」「みとけ見せ場はこっから始まんだよ」という根拠なき粗暴な野心だ。勝負すら忘れて現在に燃え散る急性アドレナリン中毒に身を侵すことだ。

セオリーを打ち破って勝利する者には、どこか絶望に愉悦する狂気の笑みが宿っている。

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