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演劇の要素の話

僕は自分の作品が演劇ではないとよく言われる。

(過去の作品とかはこちら

確かに僕は劇場も使わないし、俳優も出てこない、照明も音響もない、脚本もない、作品の時間的な始まりと終わりもない。ないものだらけだ。

それでも確信を持って演劇として作ってきた。

劇場で行われる「いわゆる演劇」だけが演劇ではない。と思う。


僕は演劇を構成していると思われる要素をいくつか挙げてみることにした。

キーワードになるのは演劇を「芝居」や「舞台」と言ったりするということ。また「演劇」を英語にした時にDramaだったりPlayだったりTheatreだったりすること。

おそらく世界のいろんな言語でも同じ用に演劇は多様な呼ばれ方をしているのではないか。

演劇も芝居も舞台もどれも多少ニュアンスは違えど演劇を指す言葉だ。

演劇は演劇行為そのものを、芝居は「芝に居る」と書くからこれはきっと観客に由来する。舞台は文字通り、「舞う台」だから劇場の構造のことを指すのではないだろうか。

こういった言葉を足がかりに演劇を分類していく。

物語性(Drama)

これは文字通り物語のこと。原始的な頃からあったんじゃないかと思う。

出来事を誰かに説明する時に、順序立てて伝える。それが最も原始的な物語だと思う。

そこから長い時間を人類とともに歩んできた人類の相棒でもあると思う。

今ではその技術は非常に高度に発達しているような気がする。

職業作家でない人であっても物語を書くことでき、職業作家たちは多く人の感情を揺さぶったり、とても複雑なことをわかりやすく伝えたりできる。

物語性の誕生は言葉が生まれた時とほとんど同時だったんではないだろうか。

物語は演劇だけでなく表現の基本形のひとつだ。小説も映画も演劇にとっては血縁者のようなものだと思う。

集まる(Forum)

かつて演劇は政治だった。

古代のギリシアでは、参政権のある男性が演劇を観たあとに政治の議論を重ねた。それに伴って演劇の内容も政治的な内容だったはずだ。

また時代によっては演劇はニュースメディアだった。識字率が低い時代、教育も行き届かない時代において、遠方のニュースを分かりやすく楽しく伝えたのだと思う。そしてその場はニュースについて市民たちが語る場にもなったはずだ。

そういう意味で、井戸端会議もSNSも国会も演劇的と言える。人と人が会って何かを語り合えば演劇たりうるのではないか。

見る見られるの関係(Theatre)

演劇の成立条件として目撃者がいるというのが大切だと思う。

観客は今でこそ多くの演劇に置いてお客様であることが多いけど、同時に演劇を作る上での共犯関係でもある。

美術の文脈だけど、ハプニングアートもこの見る見られるの関係によって成立している。

見る見られるの関係、というのは観に来た人かどうかは関係なく、その場に居合わせて見せられてしまう人も含む。

どうあれ演劇にはそれを見届ける人が必要だ。

この章についてはあまり充分に語る知識がない。

たぶん寺山修司とか土方巽とかの時代のできごとを勉強しなきゃいけない気がする。

演じる・成る(Act/Play)

演劇には「見立て」という言葉ある。何もないフラットな空間を舞台設定に合わせて教室に見立てたり、町中に見立てたりすることだ。

ただの木箱が椅子になったり机やベッドになったりするのも見立てだ。

落語家が扇子ひとつでそば啜ったりするのも見立て。

この見立てをもう少し広義で捉えてみる。リア王に出ている豪華な服を着ている俳優はリア王ではない。登場する王女達とも血縁関係はないし、誰も王族ではない。

あるものや人が全く違うものになっているというルールを作ることと受け入れることがこの演じる・成るのエッセンスだと考えている。

枯山水も見立てを楽しむアートだし、人形浄瑠璃は人形師をいないものと見立てて楽しむ舞台芸術だ。これは日本文化に生きる人にとっては割りとよくわかるようではないだろうか。

これも物語性と同じく古くからある。宗教の神事などは人間が神様を演じたり、自然現象を神と見立てたりしてきた。

あるいは最近だと参加型の演劇などもあり、参加者(観客)がなにか別のものに成るということもある。

終わりに

僕が考えるのは、これらの要素が揃っているものがすなわち演劇ではないということ。かといってどれかひとつだけあればいいというものでもないということ。

演劇を定義するものではないけれど、演劇を考えていく上で大事にしたいエッセンスだと思っている。


こういうことを考えるきっかけは自分の作品制作のだけど、それを演劇と呼び続けようと思ったのは高山明氏の作品を体験したのが大きい。

高山明氏の作品とか、とにかく演劇ではあるんだけど、多数派の上演する形式の演劇とはかけ離れている。

彼の代表的なスタイルであるツアーパフォーマンスは、上にあげた要素で言えば物語性が非常に抑えられているものの他の3つの要素はとても強く出ている。そういうところが彼の作品が演劇足り得る所以なんだと思う。


ここに書いたことは、ずっと考えていたことだけど改めて文章にしてみると知識も足りないし、根拠も足りていない。

ここからまた勉強し直してまたまとめ直す予定。

よろしくおねがいします。

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