他人でも身内ってことはある
無花果もケンジがケンジであり得たのはたぶんこの母のお陰ではないだろうか。ケンジの母はシロウに会うべくケンジにその旨シロウに伝えよと言う。ケンジは言いにくそうにシロウにそう伝える。シロウはふたつ返事で会うと言う。シロウはいろんなことを考慮し店を選び、ケンジ、シロウ、母、そしてケンジの姉ふたりと食事会となった。妹やったかな?とにかく女の中に女じゃなかった人がひとりという環境で育ったのがケンジなのだ。
ケンジは卑屈じゃない。男が好きとか女が好きとかを超越しシロウが好きなのだ。そう思わせる感がある。そういう大きな器は母親譲りのようだ。
母はシロウに会う前からシロウが思慮深く優しい人間であることを確信していた。
そんな母はケンジが死ぬ前に会っておきたかったと言う。もしケンジが死んだら身内として参列して欲しいのだ。
自分は他人だからと遠慮する。
そこで母は、他人でも身内ってことはある、と言う。
もっと言えば、他人とか身内とか関係なく、想いのある人がそこには居るべきだ。
もっと大雑把でいい。音楽が好き。人間が好き。動物が好き、芸術が好き、植物が好き、科学が好き、細かくカテゴライズされてなくても、しなくても、いいと思いませんか。
身内のはずなのに孤独を感じるなど、孤独な人より寂しい人なんだと思う。
寂しい人は少なくないと思いますよ。
ケンジの勝ち。
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