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生きる意味とわたし
「だから、人に生きる意味などないのだ。」
私は高校2年生の時、作文の最後をそう締めくくった。
現文の先生に提出したことは覚えているのだが、それが何の作文だったかはよく覚えていない。読書感想文だったか、それとも別の何かだったのか。
ともかく、高校2年生の私は思春期真っ只中だった。よくある「親に愛されていない」「だれも私のことを好きじゃない」などと考えた時期だったのだ。
閑話休題。
生きる意味とは、何だろう。
高校2年生の私は、「生きる意味はない」というところに着地(?)して、そのまま動けなくなってしまった。
昨年、私は友人に勧められて大学で哲学の授業を取っていた。
突然だが、私は哲学が大の苦手だ。高校3年、つまり受験生の時に、進路に悩んでいた時のことだ。担任の先生が哲学科を卒業していたため、何を学ぶのか軽い気持ちで私は聞いた。どんな説明をされたかは忘れたが、それを聞いて私は「それで、その後どうするの?」と言った。先生は、数拍おいて「お前、哲学むいてねぇわ」と言い放った。
その時は「そんなことないよ~」などと返したが、大学1年の時に試しにとった宗教哲学の授業で、その先生の言葉が間違っていなかったことを悟った。
まあつまり、哲学はからっきしだったのだ。それでも「楽単」という魅惑的なワードに誘われ、履修登録申請をしてしまった訳なのだが。
そこで私は、3年ぶりに「生きる意味」について考えることになる。
「そもそも、生きる意味がある人なんているのだろうか」というところから、私の思考は出発した。
だって、首相だって替えがきく。例えば現任者が急に亡くなったとしても、代わりをたてて早急に選挙を行えば済む。それを言えば、英国王もローマ法王も替えがきくことになる。後継はいるのだ。
首相も国王も替えがきくなら、ただの大学生の私に生きる意味なんてある訳がないじゃないか。そう、思った。
人生は結局、自己満足だと思う。どれだけ自分が自分のことを嫌っていようと、この世で最も自分を愛せるのは自分以外にいないのだ。親もパートナーも、絶対に私以上に私を愛せる人はいない。だから、その自分の人生を満足させるために、人は生きるのではないか。生きていいのではないか。
「生きる意味」は、求めるものではない。
探すものだ。
生きる意味を探しながら生きて、いつか振り返った時に「人生」ができている。そういうものではないだろうか。月並みだが、それが3年ぶりに人生について考えた私が出した、結論だった。
私の人生って、なんだろう。
私が生きる意味って、なんだろう。
生きる意味は、求めるものではない。
その辺に転がってはいない。
探しながら生きて、いつのまにか作っている。
きっと人生は、そういうもの。
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