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吾輩は、母である。




毒散布計画のキッカケ

今回の「吾輩は、母である。」誕生のキッカケは、しいたけ.さんの占いでした。

その中に、【乙女座は毒を含む】とあったが、「毒」という言葉から受ける印象は人によってそれぞれ違う。ただ、毒のある生き物たちって美味しかったり美しかったりするから、使いようなのだろうと思う。
それと同時に、「私の毒ってなんだろう?」と考えてみたのがことの始まり。

以前、子どもとの関わり方や子育ての話をした時に、それいいねと言って下さった方々がいたのを思い出し、「あゝこれは、私の毒(刺激)として散布できるのではないか」と思い至りました。

しかし、時間的に今書くのが難儀すぎる。でも出したい!
この想いを叶えるべく、ふと脳裏に浮かんだのが、“誰かにお話を聞いてもらい、それを文章にしてもらうこと”でした。

インタビュアーとライターをインスタで募集したところ、はるかさんとともえさんが挙手してくださり、更にさとまゆさんが校正を申し出てくださるという、ミラクル有難い現象が勃発。

【毒散布計画】と称し、「吾輩は、母である。」をお届けして参ります。
※全6話 15、30日に更新


はじめに

これは、どこにでもいる唯一無二の母の子育て?キロクです(本人の認識は生き物育て)。

2023年9月15日現在、長女18歳、次女15歳(どちらも受験生みたい)
一つのお役目の終わりがチラつきはじめたこともあり、18年前の記録をたどり、綴って参ります。

皆さんは、どんなお母さんだったら最高だと思いますか?
それは、どんなお母さんですか?

少しの間、目を閉じて想像してみてください。

想像のなかのお母さんは、あなた自身でしたか?
想像のなかのあなたは、どんな表情でしたか?

もし、今あなたが想像した表情と違っていたら、どんな違いがありましたか?

私は思うのです。

お母さんである前に、あなたはあなたと言う一人の人間で在ることを。

子どもが居ても居なくても、自分という生き物を育て続けていく。

時にクスッとしたり、ちょっぴり涙…はないと思いますが、肩に乗せているそれが少し軽くなったら幸いにございます。

どうぞ、ご自身の今と比べてみてください。

比べた後は、「吾輩は、どうしたいか?」
ご自身の中に問いを立て、身体がどんな反応を示すのか感じてみてください。


vol.1 赤ちゃんは動物だ(長女妊娠〜3歳頃)

ことの始まりは、いつものように会社へ通勤しようとバイクにまたがった時のこと。

「なんかお腹が…なんか…ヘン。おかしいな」

今までは生理痛などもなかったので、身体に違和感を抱いた。その後、生理が遅れ、妊娠が発覚。
それまでアメリカンバイクで毎日会社に通っていた私は、やむを得ず満員電車での通勤となった。

つわりの期間が1か月半ほどあり、その間は食欲はあるので朝ご飯は食べるものの、スッキリさせるために吐いてから出勤していた。お昼もアイスくらいしか食べられなかった。

ある朝、つわりがひどく、ごはんがのどを通らないような日があった。

「今日はちょっと無理そう」

そう思い、社長に電話で連絡すると、

「つわりは病気じゃないぞ」
という厳しい言葉がピシャンと返ってきた。

「確かに病気じゃないけど…電車に乗れるモチベーションでも身体の状態でもない…」と感じた私は、病院で点滴を打ってもらうことにした。
すると、点滴のおかげでみるみる元気になり、純粋にお腹が空いてきた私が「何が食べたいかな」と思った時に真っ先に出てきたのが

「…マック!!」

フィレオフィッシュとポテトとジュースのセットを頼んで食べた(後にも先にもこれが最後のマック(笑))
貴重な、とてもおいしく感じた食事だった。

翌朝からは、再び会社へ通う日々だったが、そこからはどんどんつわりも楽になった。
つわりが辛かった時期について、今になって考えてみれば、きっと、単純に会社に行きたくなかったのだと思う。当時の自分は気づいていなかったと思うけれど…(洋服を扱う仕事だったので、常に埃が舞うしんどい環境だった)。

その後は順調に過ごし、お腹も大きくなってきた。
そんな中、検診では毎回「はーい。順調でーす」としか言われない。

何かあれば来るし、別にずっと何もないし。後期になれば検診も多くなるし…と思い、検診に対して疑問を抱いた私は、とある検診の時に

「毎回何でもないから、来なくていいですか?」
と先生に聞いてみた。

渋々だが了承してもらい、最後の方は数回検診へは行かず。妊婦検診が自費の時代だったので、「お金も浮いてラッキー♪」くらいに思っていた。

出産は、実家の宮城での里帰り出産を選択。
予定日が過ぎ、何気なく出掛けた日の夕方にやたらと腰が痛い時があったが、珍しいなぁと思う程度で特に気にせず過ごした。

その翌朝、祖父母とご飯を食べていると、前日よりも強い痛みが再び腰にきた。

ただ、私の中では
【陣痛=お腹が痛い】という認識だったので
陣痛じゃないよね~と軽く思っていた。

が、ごはんを食べられる痛みと、食べられないほどの痛みの波が交互に来ている私を見て、祖母は言った。

祖母「よしみ!それは…陣痛きてるんじゃないのか!?」
私「え、陣痛はお腹が痛くなるんじゃないの?」
祖母「腰病みだ。そういうのもある」

…( ゚Д゚)!!

陣痛の感覚がまだ長かったのでその日は1日家で過ごしたが、翌朝、さすがに痛くて病院へ行くことに。そこから順調にお産が進み、陣痛も1分感覚になったため分娩台へ乗る段階になるも、分娩台の「あの体勢」になった途端に陣痛が遠のいてしまった。

その間、足元で話す助産師さんたちの話に耳を傾ける余裕もあった。
「凍らせたペットボトルをお弁当と一緒に入れておくと腐らないし、いい具合に飲み物も溶けるのよ~」と、こちらの陣痛が遠のいてしまっても通常運転で会話するベテラン助産師さんたちに対し、「そうなんだ~いい話聞いたなぁ」となるほどに(笑)

そうこうしている間に再び陣痛が来て、無事に長女を出産。
母乳はどうしても出ず、長女も吸うのが苦手だったので、諦めてミルクに切り替えることになったが、退院後は実家で赤ちゃんと同じサイクルの生活を送り、寝て食べて寝るという生活を穏やかに送った。

しばらくすると、実家での生活が終わり、東京に戻ってきて家事育児が始まった。そのころになると1日のリズムができてきて、人間らしくなってくる赤ちゃん。

「どうやって過ごそう?子育てどうしよう?」と考えた時に

夜は寝たいし、自分が楽な方がいい。
赤ちゃんは、生まれてきたばっかりで人間として何もわからないはず。
でも、動物だから動物を育てるみたいにしたらいいんじゃなかろうか?

と思いついた。

ということは、決まった時間に起こして、ごはんを食べさせ、夜は寝かせ、生活習慣のリズムを作ってしまえばいいんだ!という結論に至った。

その習慣を1年半くらい継続し、それ以降、生き物だから太陽を浴びせた方がいいと思い、外にも連れ出すようになった。

そんな時間をしばらく過ごしながら、長女が2歳くらいの時、事件が勃発する。
その頃には無事に復職していた私は、保育園へ娘を預けて仕事へ行き、夕方娘を迎えに行って帰宅、お風呂に入ってご飯食べて寝る。そんな日々の中で、ある日座れないくらいの激痛に襲われたのだ。

救急病院へ行くと、おマンティスにできものが出来ていた(8cmの長さと4cmの厚みで膿がたまっていた)。

翌日、産婦人科で膿を掻き出す処置をするも、夫の都合がつかず、術後に娘のお迎えに行かなければいけなかった。が、激痛で自転車にも乗れず、ごはんも作れない。

長女に「今日は手術をして、痛くてごはんが作れないから、夜ごはんはコーンフレークです!」と言うと、「いいよ」と返答があったのでコーンフレークを食べさせ、痛すぎて吐き気がするのを我慢しながら食器の後片づけをしていると…

娘が飄々と「夜ごはん何~?」と言ってきた。

…地獄だな、と思うと同時に
脳内では漫画の絵のようにガ〜ンとなった(笑)

人ってこういう時に恨みの感情や殺意が芽生えるんだなぁということを実感し、衝撃が走った出来事だった。

この“コーンフレーク事件”が、長女3歳までのメイントピック。

vol.2へ続く…


はるか インタビューをしてみて思うこと 


想像以上の、おりょうさん(淑深さん)式子育て。

まず、印象的だったのはつわりや検診、母乳からミルクへ切り替えた話などで、全く動じず冷静な反応だったことでした。

自分に置き換えてみると、何か一つとっても落ち込んだり悩んだり苦しくなったりしそうな場面でさらっと乗り越えていかれるエピソードに衝撃を受けました。そこには、おりょうさんが「自分で決めている」ということが大きいのだろうな、と思います。決めていたり、自分の声や身体に耳を傾けているからこそ、他人の目や評価などは気にならないのだろうな、と感じました。

次に、以前からご自身の身体に対するアンテナが高い、違和感に敏感であられたことに、今につながるストーリーがあると思いました。なんだか宝物探しみたいな感覚で聞かせていただきました。身体は、気づきや教えを与えてくれる存在。だからこそ、大切にしていきたいと改めて感じさせていただきました。

最後に、なんといっても“コーンフレーク事件”(笑)。抱腹絶倒。おりょうさんが決めたことを、飄々と覆してくる長女ちゃんの姿が想像つきすぎました。子どもってそんなところも面白くて予想がつかなくて素敵だなと感じました。

私は現在、3歳と0歳の子どもたちを育てています。
日々の家事育児の中で手いっぱいになったり、完璧を求めすぎて苦しくなったり。そんなことが多くありました。しかし、このインタビューをさせていただいたことで、ものすごく肩の力が抜けた感じがありました。

「動物だから。生き物を育てるように」
「いやなことは嫌(妊婦検診のエピソード)」
など…。

私は、知らない誰かの、他人の目を勝手に気にして勝手にしんどくなっていたことが多かったなぁ、と気づかせていただきました。

子育ても人生も十人十色。
でも、誰かの経験を聞くことで、ふと楽になったり気づきを得られたりすることは大いにあるのだなと実感しています。

次回も楽しみです♡


vol.1
インタビュアー&ライター はるか

校正 さとまゆ


この時期の生き物係の様子

子どもを産む前は、お風呂で推理小説を読むことが多かったこともあり、基本長風呂派だった。自宅に戻ってからもここは譲れないと考え至った戦術が、“みのむし作戦”

裸にした長女をバスタオルにくるみ、半分開けたお風呂の蓋の上に置いておく。包まれているからか、幼いながらも一寸先は湯船と心得ていたからか、ドボンしたことはない。私は2分以上の頭皮マッサージをしながら洗髪をし、湯船にゆっくり浸かる。その後、湯船から出る少し前のタイミングで長女も一緒に入浴するスタイル。

お風呂あがりも同様、バスタオルに包んだ後は、縦型洗濯機(蓋は閉まっている)の上で待機。ここでも転がり落ちたことは1度もない(動いたら落ちるよ、と言うことは伝えてある)。お顔に化粧水やクリーム、ボディクリームを全身に塗った後、長女の着替えと水分補給を完了させ、お互いの髪を乾かしていた。


vol.2 比較検討し、定める(次女妊娠~次女保育園卒園)

長女3歳。このころはもっぱら自転車移動。
いつものように長女を乗せて自転車通園していた時、お腹に違和感を覚えた。

「あっ、これバイク(長女)の時と同じだ!」

予感は的中。妊娠検査薬で線が出たので病院に行き、妊娠が確定。
妊娠が分かってからもお腹が大きくなってからも、変わらず自転車生活を続けていた。

次女が産まれる1ヶ月前から、長女を連れて里帰り。
あいかわらず淡々とした日々を過ごしていた。

実家は牛さんのお世話をしている。
牛さんのお世話をする父母と少しタイミングはずれるものの、私と長女と祖母は一緒に過ごし、自分達のリズムを崩すことなく生活していた。

その後、長女と同じ病院で次女を出産。
長女出産時に顔が内出血でぶつぶつになったが、今回も顔がぶつぶつに…

「いきみ方が下手なんだなー、またなっちゃった~」

これが次女出産時に感じたこと。


次女出産後、岩手宮城内陸地震が起きた。
実家は震度6強だった。

地震発生当時、茶の間の掘りごたつに座って長女と朝ごはんを食べていたら…突然、身体が“浮いた”。
下から突き上げられるような縦揺れだった。
突き上げられた瞬間に横揺れがあり、物がたくさん落ちてきて、棚も倒れた。滅多にない状況に圧倒されながらも頭に浮かんだのは

「あっ…子ども(次女)!!!!!」

次女は別の部屋に寝かせていたので、部屋に向かうために縁側の廊下を長女を抱きかかえて走った。

まっすぐな廊下でそこまで離れている距離ではないのに、揺れで左右に振られ、なかなか次女のいる部屋に着かない。まるでスローモーションのような感覚で、着くまでの時間がすごく長く感じた。

やっとの想いで部屋に着くと、次女は部屋の真ん中でスヤスヤ寝ていた。

その部屋の端には、布団置き場にしている作り付けの棚がある。普段は扉が閉まっているが、激しい揺れで扉が全開になり、寝ている次女の真横に枕や布団が全部落ちていた。
少しずれていたら...と想像したら、一瞬ヒヤッとするような状況だった。

その後、いつでも外に出られるようにと次女を抱っこしながら、長女と縁側に座った。

人って、自分を守るために今まで植え付けられていた防災感覚がこういう時に自然と出てくるのか、「すぐ外に出たら危ない」「飛び出しちゃダメ」「ここで座る」等々を瞬時に判断し、その通りに行動に移していた。

少しすると、牛舎から母が心配そうに駆けつけてきた。
茶の間に戻ると、物は散乱して冷蔵庫の中身も全部出ているというようなひどい状態だった。

それから3週間以上、新生児がいるなか水が出ない生活を送ることとなる(電気・ガスは問題なく使えた)。

自治体の人が山奥の家まで水を持ってきてくれたので、バケツやたらい等のありとあらゆる物に水を入れるも、量が限られているため食器はラップをかけて食べたり、お弁当を買ったりと、節水生活を余儀無くされた。

次女は少量のお湯で沐浴、私たちは車で30分ほどかけて温泉へ。洗濯はさすがに川ではできないので(笑)、車で40分のコインランドリーへ。水が足りなくなった場合の最終手段は、家の近くの沢から水を汲めばいいと思っていた。

そのような生活をしばらく送り、産後1ヶ月半でやっと東京の自宅に戻ってきた。

今振り返れば、次女妊娠~出産直後までの間で、この地震の時が一番大変だったように思う。
長女が深刻な状況をあまり理解していないので、おふざけがあったりするのをイラっと感じていた。
単純に、「先の見えない状況下+産後」で精神的にきつかったのだと思う。ライフラインが正常になってからは、感情的になることはなくなった。

蛇口から当たり前に水が出ることもそうだが、何事もなくいつも通りに暮らせる環境自体が、心の安定には大事だということを体感した出来事だった。

その後、育休は1年半とれたので、長女は保育園に通い、次女とは家で日々を過ごしたが、2人の子育てをしながら今の仕事をするのは大変だからと、育休満了のタイミングで仕事を辞めた。

育児が理由で仕事を辞めたけれど、「子どもにかかりきりのお世話は1年ぐらいでいいかな~」と思い、次女が1歳になった頃に仕事を探し始める。

送迎のことを考えて徒歩圏内で働ける場所を探したところ、大戸屋で働くこととなった。
長女が通っている保育園に次女は入れず、仕方なく認証保育所に入った。

朝は子どもたちそれぞれの預け先への送りから始まり、9:30~17:00は大戸屋で勤務。
保育園に預けている時間帯は保育園様々で過ごした。

vol.1でも述べたように、子どもたちとの日々の生活のポイントは「生き物の生活リズムを作る、習慣化させる」こと。
ひとりでもふたりでも、生活のポイントを押さえながら淡々と過ごすという基本は同じで、朝ごはん、夜ごはん、寝かしつけの時間をなるべく一緒にすることを意識していた。

ふたりだから大変とかではなく、既にできている流れにひとり加わった、という感覚。
物理的なことが増えたら、「その分をどこで巻こうか」と冷静に考えていた。

例えば、保育園から帰宅したら即お風呂に入り、夜ごはんを食べるという一連の流れがある。
その中で、夜ごはんの準備に時間がかかり、いつもの時間に間に合わなかったら、次回からは朝のうちに仕込みをするようにするなど、必ずどこかで帳尻を合わせていた。

全ては、自分がラクに、淡々とした生活を続けていくために…。


とある日の保育園のお迎え時。
それまでは私が靴を履かせていたが、次女が急に

「自分で靴を履く!」
と言い出した。

その日は見たいドラマがあったので、「急いでいるのに~!」と心の中で思ったけれど私の口から出ていた言葉は

「どうぞ!」

次女は自分で靴を履き始めた。

口で履き方をガイドするけれど、手は出さずに見守っていた。
今ここで私が手を出すと、次女がチャレンジしようという意欲を消すことになってしまうためだ。

目先の利益(ドラマのために早く帰ること)と、今の損(5分遅くなるが、本人の意欲がある時に自らやらせること)を比較した結果、“今の損”をとった。この“今の損”は、長い目で見たら次女の自立に繋がるし、履き終わった後に自転車を鬼コギすれば巻けると感じたからだ。

履き終わったら、「はい!行くよ!」と言って次女をママチャリの後ろに前向きになるように乗せ、“今の損”で失った5分を全力で取り戻すために、自転車を鬼コギしていた。

そんな帰り道、信号で止まった時にふと後ろを見ると、前向きに乗せたはずの次女が、後ろを向いていた。
乗せた時と逆向きに座っていたのである。

あれだけ鬼コギで暴走していた最中、どうやって向きを変えたのか?
どこでどうしたらこうなるのか?

いろんな疑問が頭を駆け巡ったが、冷静になった瞬間にゾッとした出来事だった。


ともえ インタビューをしてみて思うこと

おりょうさんとお子さんたちの絆に感銘を受けていて(現在進行形)、ストーリーズで書き手の募集を見た時に「おりょうさんとお子さんとの話が聞ける!これはやるしかない!!」と速攻でやることを決め、その理由をDMで送り付け、参加することになった毒散布計画。

話を聞いて、おりょうさん節が全開。面白さと「なるほど~」の連続でした。

次女ちゃんが「自分で靴を履きたい」の場面は、わたしも同じような経験ありです。こういう場面になると、「早くして!」「違う違うそうじゃない、こうだよ!」と口だけではなく、手も出てしまいがちでした。急いでいるということが加わると、なおさら…。
そこを、おりょうさんは手を出さずにガイドという形で見守ってくれている。こういうことが絆を作っていくのだなと改めて感じました。

靴を履き終わった後の自転車鬼コギとの豹変っぷりが笑えますが、それもどうしたら出来るかを考えた末のこと。そこに子どもを“巻き込む・どうにかする”のではなく、自分が“できる・やれる”範囲でやり、それをお子さんたちに“見せる・ついてきてもらう”。これがお子さんとの信頼を築いていく過程に見えました。

こういうことが淡々とした日々の暮らしのなかで繰り返し行われていたのだなと思うと、おりょうさんが“決める・決めている”という揺るがないものが、お子さんたちの安心感につながっているのだなと思いました。

わたしも目の前で思いがけないことが起こると、「まじで!」「わーーーー」となり、それしか見えなくなりがちです。一言余計に言ってしまったり…
そうは思っても、深呼吸したり、ちょっと上をみて…
わたしならどんなパターンで乗り切るのか。わたしの暮らしにあったものを、もっともっと研究していきたいと思っています。

おりょうさんとお子さんたちの絆ができあがっていく過程を垣間見させてもらえた気がしたvol.2。
これからは、お子さんたちが自立していく時代へ。おりょうさんとお子さんたちの絆がどんな形で見られるのか、楽しみで仕方ないです。


vol.2
インタビュアー&ライター ともえ

校正 さとまゆ


この時期の生き物係の様子

夏の暑い日、働いているお店が空いてきたので「暇だから先にあがりま〜す」と30分早めに退勤。

早めにお迎えに行ってもよいけど、時間が少しある。ただ、カフェでコーヒーという気分じゃない。喉が渇いているしシュワシュワしたのがよいな。

う〜〜〜〜〜ん…そうだ!

ごうぴー(当時、心のオアシスだったお好み焼き屋さん)いるかな?
開店前だし、仕込みをしているか、終わっているかの時間なはず。

そんな事を考えながらお店の前に行くと、シャッターが開いている。案の定、中にごうぴーがいた。

「開けて〜」と言いながら訳を話し、レモンサワーを注文する。
「まだ開いてないけどな」と言われながらカウンターで1杯頂く。

「今日もお疲れ様」という自分自身への労いと、「これからお迎えに行って、ご飯作りますか〜」という応援の意味を込め、夏の間はちょこちょこ行われていた、私にとって大事な儀式である。


vol.3 “自律”は突然に(長女・次女 小学生時代①)

子育ての先輩方がよく「今だけだから」「すぐ終わるよ」「みんな通る道だから」と言っていたが、ここにきてようやくその意味が分かってきた。
(渦中にいると全く意味が分からず、「は?」と喧嘩腰感満載に思っていた)

小さい頃は、物理的に一緒にいる時間も多いため、事件的要素(コーンフレーク事件や自転車後ろ向き事件など)が多くあったが、小学校へ行くと娘たちを見られる時間や場面も少なくなり、実際に娘たちから手が離れるからか、自身の精神面での変化が多くなった。

下の子が小学校に入学するタイミングでふと、「ここ(大戸屋)じゃなくてもいいのかも」と感じ、転職先を探し始めた。

転職先の候補として、週7でヨガに通っていたのでヨガのインストラクターも検討したが、なんだかあまりしっくりこなかった。
ヨガは好きだけれど、教えるのかと言われれば「なんとなく違う」という感覚があった。

そんな時、「ストレッチ」というキーワードが目に止まった。

「ストレッチ…何だろう?」

言葉自体は知っているし、何をするかは分かるけど、不思議とそこに新しさを感じ、その場で面接を申し込んだ。
その後、あれよあれよと言う間に複数回の面接を見事通過し、お店に通いだすことになった。

転職活動は無事終了したものの、技術を教えるためには研修を受けなければならない。
研修時間は10時から19時。娘たちが学校に通っている平日には入れられないため、夏休みの1か月間、娘たちを実家に預けて研修を受けることを計画。

日常の移動が登校のための徒歩5分のみだった小学1年と3年の娘たちだったが、初めてそこで、2人だけで新幹線に乗せることにした。東京駅までは私が送り、実家の新幹線の最寄り駅には妹に迎えに行ってもらうことに。

出発の日。東京駅へ行き、指定席のチケットを買ってホームへ。
リュックに、おもちゃや塗り絵、飲み物、おやつを仕込み、困ったことがあったら近くの大人に言うよう娘たちにレクチャーもした。

ここで、娘たちの自立を確信する出来事が起こる。

指定席で買ったのはホームから遠い、奥側の席。
新幹線に乗り込んだのを確認し、「こっち見るかな」としばらく発車まで待っていた。

娘たちは席に座って、リュックからおやつやおもちゃをテーブルに出している。
「いつこっち見るんだろ。さすがにいってらっしゃいするよな〜」と待っていると、発車のベルが鳴っても一切こっちを見ず…

えっ、えっ、ええええええええぇ(・・?
ここにいるんだけど…

こっちを見て、手を振ってくれるだろうという淡い期待をよそに、そのまま新幹線は出発していった。
見送りに来たのに、寂しさと悲しさと切なさと、フクザツな想い…。

0歳児の時からそれぞれの実家を行き来していたので、新幹線に乗ること自体は慣れている。
だからなのか?手を振って見送ろうと思ってたのに、こちらを見もしない娘たち(笑)

「あぁ、自立したんだぁ」と感じた出来事だった。

彼女たちは、新幹線に乗り込んだ瞬間からもう、目的地に気持ちも向かっていた。
この時が、2人それぞれの自立を味わった瞬間。

娘たちは40日間の夏休みを実家で過ごした。
しかし、研修はその期間では終わらず、夏休みが終わっても平日は10時から17時まで研修の日々。

一番しんどかったのは、毎日のレポート提出。
「頭がもげるんじゃないか」というくらいに0時過ぎまでテーブルにレポートを広げながら、何を書いているのかもわからない状態でこなしていた。

後々考えると、娘たちもママが必死でレポートをしている姿を見ていたのかなと思う。
というのは、今は娘たちがごはんを食べ終わった後、夜に勉強していることがあるから。
できれば、脳的にも身体的にも朝早く起きてやってほしいけれど、もしかしたら、記憶のどこかにあの時の母の姿が残っているのかも(笑)

しんどいこともあったが、「これやりたい!」という直感から見ず知らずの世界に飛び込んでやってみた日々は新鮮で、楽しかった。

結局、私は卒業試験に合格するまで2か月かかったが、3度目の正直で受かり、晴れて店舗デビューを果たした。

ここでも生活は変わらず、淡々と。

朝6時に起き、ご飯を作って、娘たちを送り出し、私も出勤。帰ってきたらご飯を作って、お風呂入って食べさせて、寝かせて課題をやるか、ドラマを見るか。
特にお出かけもせず、長期休みに両家の実家に行くくらいだった。

この時代のメイントピックは、自立の瞬間。
それは突然、想定もしていないところで起こるものなのだな、と感じた。

vol.4につながる話だが、この頃、自分自身の巻き肩が改善しないことが気になっていた。
今までの経験や得た知識から、どこがどうなっているのかも頭では理解できていたのに、何をやっても改善しなかった。

仕事を始めて2,3年ほど経った頃、同じようにお客さんの症状が改善しないケースがあった。
「肩が痛い」と言って来られて、「よくなった」と言って帰っていくが、次に来ると「腰が痛い」と言う。一つ解決するとまたどこかに症状が出てくるという、いわゆる“桐箪笥”状態。
技術練習をしたり、解剖学を学んだり、セミナーに行ったりと色々受けまくったが、何をやっても解決しないし、しっくりこない。

その場はよくなるけど、根本的な解決にはならない。そしてそれは、私の巻き肩も同じだった。

そんな時、何気なくインスタを見ていると、とあるワークショップ開催の投稿が目に入った。なんとなく気になり、「おもしろそ♪」というノリで参加を決めたが、ワークショップ当日、私の目の前で、ただ姿勢を変えただけで劇的に人が変わる瞬間を目の当たりにした。

具体的には、男の子2人(0,2歳くらい)を連れた育児ノイローゼっぽいお母さん。子どもたちがずっとお母さんにまとわりついていて、大変そう。お母さんの顔も暗く、「大丈夫かな」と心配になる感じだった。

それが、お母さんの姿勢を変えた途端、それまでグズグズしていた子どもたちがそれぞれ別々に、お母さんから一番遠い場所にワァーーーっと離れていった。

「これはどういうこと?」と疑問しか残らない状況。これがアレクサンダー・テクニークというものに出会った、最初の出来事。

お母さんも、子どもの様子も、全く違うものになったという衝撃。
そして、身体で表現する「非言語」の威力。

なぜ巻き肩が改善しないのか。なぜお客さんの症状が移動するばっかりで一向に良くならないのか。色々話を聞いてみたら、「私に必要だったのはこれか!」と腑に落ちた。

その後、アレクサンダー・テクニークを伝えていた木野村先生のレッスンを数回受けていたが、ある時、先生の本の出版を記念して読書会が開催されると言うので、参加することに。

読書会の前日、長女のお菓子を私が悪気なく食べてしまった。すると…長女が、リビングとは離れたところにある暗い階段でうずくまってシクシク泣いていた。

「食べちゃったのはごめんやけど、そんなに?」そう聞いても、ずっと階段でシクシク。
「また買ってくるから」ということで、一旦その日は落ち着いた。

次の日、読書会は「今、何か困ってることや悩みはありますか?」という投げかけから始まった。シチュエーションを再現するワークがあったのでそこで手を挙げ、昨夜の出来事を話すと「じゃあやってみよう」ということになった。

私が長女役、参加していた方が私役を。
とにかく、誰にも見えないところでうずくまっている状況を作りたかったので、正面のテーブル前に私役の参加者さんに立ってもらった。

長女役の私が視界に入らない場所として選んだのは、テーブルと同じラインに立っている柱の陰。その柱と窓との狭い間に、無意識に入って行った。

先生に「なんでその場所を選んだの?」と言われた瞬間、フラッシュバックが起こった。
小学生の頃(当時の長女と同じくらいの年齢の時)、実家の階段にうずくまっている【私】のビジョンが思い浮かび、思わず「ハッ」とした。

ちなみに、それ以降は巻き肩が改善してしまった。

子どもの内側で起こったことと、子どもの姿をきっかけに私の内側で起こった変化。時系列が一緒なのがまた不思議。

変化するきっかけをくれた長女。娘たちは娘たちで「自立」がみられた小学生期。
そして母である私は、淡々とした日々を過ごす中で

人はなぜ身体に痛みを抱える状況にあるのか?
その身体の癖はどこから来ているのだろうか?

という問いが、自分の中に立った。

そこから、アレクサンダー・テクニークをベースとした理論を学んでいくことになる。


はるか インタビューをしてみて思うこと

今回のメイントピック「自立の瞬間は、突然に」

私自身も、最近その瞬間を子育ての中で体験しました。それは、3歳の息子のおむつが急にとれたこと。
これまで、促してきても頑なにパンツをはかなかった息子。トイレに座ったことも数回だった彼が、突然「今日から、トイレでおしっこするから。もうおむつは履かないから。お兄さんになったからお兄さんパンツ履くの」と宣言。本当に、翌日からは一切オムツを履かなくなりました。
驚きと、嬉しさと感動とすこしの寂しさと。その瞬間は突然で、これからもこういう風にどんどん自立していくのだろうなと感じました。変に親が先回りして邪魔をすることなく、目の前にいる子どもを見守り育てていきたいと改めて思いました。

でも、さすがにおりょうさんの“新幹線案件”は衝撃的(笑)
娘さんたちがすでに「新幹線に乗りこんだ瞬間から気持ちは目的地に向かっていた」という言葉も印象的で、その当時の情景が思い浮かぶような感じがしました。そして、娘たち2人だけで新幹線に乗せる選択ができるおりょうさんと娘さんたちの信頼関係も素敵だなと♪
子どもは、正直でまっすぐで。ある意味残酷というか、さっぱりしている面が多々あるなと、日々の子育ての中でも今回のエピソードでも思いました。

最後の方のシチュエーションを再現するワークのお話について、「やっぱり身体ってすごい…」と強く感じました。過去に自分で蓋をした感情が、目の前にいる娘さんを通してもう一度見せられるという出来事。そして、何をしても改善しなかった巻き肩が実際に改善したこと。すべてつながっているのだなと考えさせられるお話でした。

詳しく、どんなことがフラッシュバックして、巻き肩が改善していったかはvol.4で解き明かされていくと思うので、次回も楽しみです(´-`).。oO


vol.3
インタビュアー&ライター はるか

校正 さとまゆ


この時期の生き物係の様子

淡々とした日々の中で、長女と次女の小競り合いが勃発した時があった。
長女は「同じじゃないと嫌だ」「平等じゃないとダメ」みたいなところがあって、女の子同士のケンカに対して、大人だろうが子どもだろうが「なんか醜いわ〜」と感じていた。

そんな醜い争いをリビングで繰り広げる娘たちの声が、忙しなくご飯を作っていると聞こえる。「いい加減にしなさいよ」という意味でキッチンから、「あぁぁーーーー!」と叫びながら菜箸をペキーーンと折り、「あぁ、折れちゃった」と言って、ゴミ箱にボーーンっと無残な姿になった菜箸を捨て、その後は淡々と料理を再開する。

それを見た娘たちは一瞬「ぎょっ」とし、こそこそ二人で喋って小競り合いは終了した。どんな反応をするだろうかという興味も少しあっての行動だったが、このようなサイコパスな出来事が、確かにあった(笑)


vol.4 繋がる(長女・次女 小学生時代②)

木野村先生の読書会前夜、私が長女のお菓子を食べてしまい、長女がいじけて階段の隅に体育座りで小さくなっていた。

そのシーンを読書会で再現した時、フラッシュバックした情景があった。

小学校中学年の時、同居していた祖母がぼけて「お金がない」「これがない」と言うことがたまにあった。そうなった時、祖母は母に「盗ったんじゃないか」と詰め寄り、よく言い合いになっていた。
そんな緊迫したやり取りを、実家の階段で縮こまり、“母が出ていってしまわないか”と心配しながら聞いていたことを思い出した。

私は母がとにかく心配で、怯えもあって縮こまっていたが、その時の私と長女の体勢がシンクロしていたのだ。

長女があの時の私と同じ体勢をとって見せてくれたことで、初めてあの時感じていた感情を自覚できた。
そして、自覚できたことで、巻き肩の原因となっていた“縮こまっていた小さな自分”を解放することができた。

巻き肩は、未消化のままの感情を抱いていたことで、その時の身体の状態がロックされていただけだったのだ。

「そっかぁ~」という、霧が晴れた瞬間だった。

一連のことがわかり、読書会が終わって帰る頃にはあんなに気になっていた巻き肩が自然と改善され、とても清々しい気持ちになっていた。長女にはお菓子食べちゃってごめんやで、という気持ちだったけど、感謝の気持ちが溢れ出てきていた。

元から、しっかりしていてちょっと正義感がある長女。
そんな長女が、私の子どもの頃の感情を消化できるタイミングで見せてくれた。そして、過去の自分を解放できたことで子どもに戻ったような不思議な感覚があり、そんな自分から見て、そのきっかけを作ってくれた長女はお母さんみたいな存在だと感じた。

もっと言うと、“お母さんに救ってもらった”ような、そんな感覚だった。

後々、守護神鑑定をしてもらった時、私と長女の関係性が親子のような位置になっていて、納得がいった。起こるべくして起こった、必要な現象だったと思っている。

その頃に、勤めていたストレッチ屋さんに自転車で行ってみようという考えが頭に浮かんだ。
電車が遅延することが多く、自転車で行ける距離だったからだ(それでも10kmはある)。そこから、自転車で40分の通勤が始まった。

行きはよくても、一仕事終えて疲れた帰りも自転車をこぐことになるし、帰宅してから夜ごはん作りもある。普通は10kmの道のりを自転車で行こうとは思わないだろう。
それでも、自転車通勤してみようと思ったのは、巻き肩が改善したこともひとつの理由としてあると思う。

当時、地域のゴミ拾いをしている非営利団体があり、勤めているストレッチ屋さんがその地域を担当することになった。月に1回、地域のゴミ拾いをすることになり、その時には子どもたちも一緒に参加していた。

普段はあまり公園やテーマパーク等に行かないので、このゴミ拾いがちょっとした子どもたちとのイベント的感覚だった。
ゴミ拾いのあと私は仕事なので、2人は電車で帰っていたが…(ちなみに、新幹線デビューの方が先である)

この頃になるとこれといった大きな事件はなく、私が外に意識を向けて動けるようになってきていた。

具体的に言うと、身体や栄養などに興味がわいてきて、当時流行りだった糖質を摂らない生活を試してみたりしていたが、Instagramでその界隈の人たちとやりとりをするようになったことで繋がりができ、今までいたフィールド外の情報にアクセスすることが自然と増えてきていた。

栗本 佳音さんの「らくに生まれてらくに育つ」のリアル講座に参加したのもこの頃。
子どもたちもある程度大きくなっていたのでなんで参加したのかは定かではないが、今になって考えると、いいとか悪いではなく「あれでよかったんだぁ~」と感じるための答え合わせのためだったのかな、と思っている。
子どもも小学校生活が終わる頃だったから、無意識に脳内を整理整頓していたのかもしれない。

長女は変わらず家で地味に遊び、次女は玄関にランドセルを放り出してそのまま遊びに行くから家にいない。

そんないつもの日常が流れていたある日、玄関を開けたらいつもひっくり返っているランドセルがない。
静かだから誰もいないのかな?と思い、2階のリビングに向かって階段をのぼっていったら、次女がテーブルに白いティッシュを敷いて、無言で何かをパリパリ食べている。

次女の手元をよくよく見たら、“にぼし”の頭とはらわたを取って食べていた。

その様子を見た時に、誰もいないと思ってたのも相まって私はゾッ…としてしまった。それと同時に、「お菓子がなくてごめんね」と思った。
いつもお菓子を用意している家ではなかったので食べるものがなかったのかもしれないが、「にぼしかぁ~…」と申し訳なさが出てきた。

ゾッとしたのと、申し訳なさが混在した、複雑な感情だった。

最近になってこの“にぼし”の話を次女にしたら、「最初はそのまま食べていたけれど、苦くて頭とはらわたを取ることにした」のだと言っていた。お味噌汁のときは一匹そのまんま入れていたから、最初何もせず食べたようだ。

こうやって子どもたちは、自ら学んでいく。


ともえ インタビューをしてみて思うこと

おりょうさんとお子さんたちは絆で結ばれていると思っているけれど、今回の話は長女さんがおりょうさんを解放したことで、より太い一本の絆が築かれたのかなと感じました。

身体からシンクロを感じるのもまさにおりょうさんといったところですが、次女さんのにぼしのエピソードも、おりょうさんはゾッとしたと言っていたけれど、わたしは「生きる術を身につけている~自分で生きている~」が咄嗟にでてきた一言でした。
食べるものがないと母をなじるわけでもなく、あるもので腹を満たそうとする。今自分ができることをやろうと思うのは、そこが安心の場だからだと思うのです。

毎朝ごはんを作り、休みの日は掃除をみんなでする。日々の暮らしで、いわゆる“思い出になるようなこと”をしていなくても、淡々とやっていくことの効果。そういう日々が繰り返されているなかに幸せがあり、だから安心感や信頼関係が築かれていったのだと思うと、感嘆の言葉しか出ませんでした。

生きるためにやっている娘さんたちの行動を、おりょうさんはただただ観察し、見守っている。それを見て感じるものはあるけれど、それを本人たちに伝えるでもなく、ただ見守る。

子どもを観察・見守りしていると、【子どもが覚悟をもって自立していく瞬間(本人はそうとは意識していなくても)】と【親がそれを送り出せる瞬間】はおのずと一致していくのかな、とおりょうさんの話を聞いて感じました。

先日、わたしの長男が、西武線の多摩湖駅に行きたいと言い出しました(我が家から2時間ぐらいかかる)。なぜそこに行きたいのかさっぱりわからないけれど、「その駅に行って帰ってくるは出来る!」と、日頃の彼をずっと見てきて思ったので、送り出しました。5時間後、無事に帰ってきて、その5時間のことをひたすら話して聞かせてくれました。

我が家のこのエピソードのあとに前回を読み返し、今回の録画をもう一度聞いたので、この息子のエピソードも「“その瞬間”が一致した時かも」と思いました。わたし自身も、あり方が変わりつつある時でもあり、以前に比べておりょうさんの“淡々と”の要素が加わっているからかな!?と感じています。

おりょうさんをマネするとかではなく、「なるほど~」と思いつつ、わたしに合いそうなところをいいとこ取りしていけたらいいなと思っています。

これから娘さんたちは思春期になり、母娘のあり方はどうなっていくのか。このあとの展開が楽しみです。


vol.4
インタビュアー&ライター ともえ

校正 さとまゆ


この時期の生き物係の様子

トイレットペーパーや綿棒、油だったり醤油だったりを切らすことが多々あった。

ない状態でもどうしたら代替えできるか、いかに知恵を絞れるかを考え、楽しんでいる節もなくはない(単純に買い忘れなのだが…)

ある夜のこと、さすがに耐えきれず、綿棒を買いに出る。薬局が閉まるギリギリの20時40分。自転車をせっせとこいで坂道をのぼる。

無事に綿棒を購入し、ふと携帯電話の画面で時間を確認する。

さぁ帰るか、と来た道を戻る途中の分かれ道、信号が赤なので立ち止まると、ふと天の声が聞こえた。

「ん~…せっかくお外に出たし、喉が渇いたなぁ。一杯飲んで帰ろうかな♪」

そう思い、分かれ道を家とは真逆の方向にハンドルをきり、何時ものお好み焼き屋さんに向かう。

お店に入ると、大将が「おう!いらっしゃい」と声をかけてくれ、1人かと問われたので「うん、綿棒買いに行ってきて、1杯飲みたくなったから来た」と返す。

大将の表情は「あぁ、はいはい」と呆れたような、何か言いたげな表情で半笑いだった。

もちろん、家には連絡をしていない。
⁡その日帰宅したのは、結局0時前だった。


vol.5 実りの秋(長女中学生・次女小学校高学年

長女は中学生、次女は小学校高学年になったが、相変わらず淡々と日々を送っていた。
これと言って特に大きな変化はなかったけれど、子どもたちよりも私自身の変化が大きかった。

どのような変化かと言うと、「お足とくつと」の宇都 果歩さんと色々な場所へ出張に行って、外に出始めた時期だった。

栗本 佳音さんの「クリモトと一緒に夢をかなえる講座」の1期が終わった2020年。その頃は、講座の内容も感覚的に理解できていなかった。

ストレッチ屋に勤務していたことから、果歩さんと一緒にイベントをしていくうちに「自分でストレッチを仕事にしていいんだ」という思いが芽生え、そこから【骨屋・のばし屋】としてフリーランスで仕事をしてみる、という段階になっていった。

自分達で会場を探して借りて、近くのホテルをとり、イベントのスケジュールを立て、実際に開催する。
今振り返ると「すごいな」と思う。

ちょうどその頃は、長女の受験の時期と重なる。
長女が受験を意識して、実際に受験勉強を始めたのは中3から。

私の中の“一般的な受験生の親”のイメージは、夜食を作り、風邪をひかないように半纏を着せるという、昭和な感じ(笑)
ただ、そのような親では全くない私は泊まりで出張も行くし、眠かったら先に寝るなど、今までと変わらず好きに過ごしていた。

一応、「脳みその働きも悪くなるから早く寝なさいね」と声かけしたこともあったが、彼女のやりたいことだから「別にいっか」と思い、途中からは何も言わなくなった。

長女も、淡々と勉強していた気がする。
塾には行っていなかったので、参考書を買い、家のロフトにテーブルを運び、ごはんの後は黙々と勉強する日々。

結局、私はどこの高校を受けるのかも全く知らなかったが(笑)、聞いたところで良くも悪くも興味がないし、高校に行くのも勉強するのも結局は本人。落ちたとしたら働いてもいいわけだし、「入ろうと思えばどこでも入れるでしょ~」というスタンスで、特に心配もしなかった。

たまに、勉強ばっかりしている長女に「どっか行かない?」「カフェ行こうよ」「ここにプリンがあるよ~」と言ったり写真を見せたりしてみても「いい。一人でどうぞ」と拒否られる(笑)

そして、合格発表の日。
仕事から帰ると「合格してた…」と、長女が涙を流しながら言ってきた。

やることはやらないと、と淡々と受験に向き合っていたように見えていた長女。
しかし、実際に目標を達成し涙する彼女を目の当たりにして、そんなに切羽詰まった状態だったのか…と感じ、「よかったねぇ~」と嬉しい気持ちを共有するかのように、抱き合った。

長女は硬派なところがあり、正義感も強い。彼女の中で「こうと言ったらこう」というようなこだわりがあるので、見えない部分でも色々あったのかもしれない。

そんな長女は、基本的に家にずっとこもっていて、最寄り駅にペン1本買いに行くにも妹についてきてもらうような、シャイなタイプ。

もちろん、長女のすごいなぁ~と思うところも、たくさんある。
自分で決めて、黙々と目標に向かって行動し、達成できるところ。そして脇目も振らず(母のちょっかいもかわして)“自分はこれをやる”ということを貫き通す精神力はすごいなぁと感じている。

もしかしたら、これから彼女が大人になっていくにつれ何かが解放されるような経験を経て、極端な人見知りみたいなものは変わってくるのかな。変わるといいよね~くらいに思っている。そこはちょっと楽しみなところ。

一方、次女は小学校高学年になり、ついに反抗期…くる!
胸が膨らんできたり、少しずつ見た目が女性らしくなってきて「そろそろ生理がくるのかな」と思っていた。心や身体、脳も成長し、高学年になって友だちとの関わりも変わってくる時期。

様々なものが発達する影響か、モヤモヤして本人も処理しきれない何かを抱えていたのかもしれないが、こちらが何かを言っても、目も口もまっすぐ横棒みたいな無表情で「別に」の回答(-_-)(沢尻エ○カのような…笑)
何かあってもあまり関わろうとせず、距離を置きたがる感じ。長女にはなかった反抗期が来ていた。

環境が一気に変わるのも、一つの要因なのかもしれない。
東京では早い子だと5年生から受験準備が始まる。塾へ通い始めた子も多数いたからか、次女がランドセルを玄関に放って遊びに行くことも無くなっていった。

6年生になると、塾に通う子たちは勉強するために学校を休んで塾へ行き、夏には勉強合宿。3学期にはクラスが半分以下で授業をすることもあった。

子どもたちにとっては、突然友だち関係や学校での環境も変化することになる。
そこに関して、何かあれば次女が言ってきたことに対して受け答えはしていた。もちろん、「別に」と言われる日もあったけれど。

たまに、学校の先生から次女が指導を受けた連絡もあったが、私的には「それが何か?」な内容だったので、「ああ、そうなんですね~」で終わらせていた。

そんな日々の中、私のやることに特に変わりはなく、朝はごはんを出し、学校へ行ったら私は仕事、イベントで出張もしていた。

時代は少し戻るが、長女が小学校中学年、次女が低学年のとある夏休みに「お昼ご飯作りません」宣言をした。

厳密には、夏休みで子どもたちが家にいるので朝のうちに昼の支度をしていたけれど、大変だなぁ…と感じ、「夏休みのお昼ご飯は作りません、各自でお願いします」と言ったのだ。

そこから、“夏休みは自分たちでお昼を用意する”ということが始まった。

もちろん、突然投げたのではなく、小さい頃からお手伝いで玉ねぎの皮むきをさせたり、調味料の場所を確認したり、何かの折に共有したり…細かいことを積み重ねてはいた。
また、食事だけではなく、出張で大人が不在の時に子どもたちが洗濯出来るよう洗剤の位置なども教え、次の日に着たい物があった場合には自分たちで洗濯をしていた。

そんな中、長女が受かった高校は給食が無いので「高校はお弁当いるんだよね~何作ろうかな~」と言い出した。
思いがけない言葉に驚くと同時に、内心しめしめ…という思いを秘めつつ、とりあえずは納豆と卵さえ切らさず冷蔵庫にあれば大丈夫だろう、という感じでいた(笑)

長女は、前日の夜のうちに半分作っておいて、朝にごはんを詰めて卵焼きを焼くというセッティングにしている模様。
そうすると、長女を見ていた次女も「高校入ったら私は何のお弁当作ろうかな」と妄想している…。

このような棚ぼた的な現象が、立て続けに起きたのだ。まさか、ここにきて私の「お昼ご飯作りません」宣言がこんな効果を生むとは…!

生きるために必要な要素は、しっかり身についていくのだなぁと、ひしひしと感じた。

自分のことは、まず自分で。大人への準備として“物理的な自立”はなるようになるもの。
最低限のことだけ教えて先回りしすぎずにいれば、自然と出来ていくし、自ら考えていく(納豆と卵は切らさずに…笑)

あとは、やはりネットがあるので「0から10」教えなくても「0から1」だけ教えておけば、自分たちで勝手に調べてやりたいようにやっていく。

だから、ネットも一概にダメとは言えない。うまく使って自己管理することが大事。
要は、使い方次第だなと感じている。

子によって使い方はそれぞれで、長女はiPadを流しながら勉強するスタイル。次女は、テスト前の本気モードになるとiPadを封印して見ない状態にして、スマホのSNSもTwitter以外はアンインストールしている。

「自分で決めて実行する」というのが身についているというのは、これから大人になるにあたり、とても良いなと思う。

それが身についていった一つの大きな要因としては「NOを言わない」ということ。

例えば、「スライムを作りたい」という要望に対しては“ご自由にどうぞスタイル”なので「やめなさい」と言うことがない。
ただ、私に「材料買ってきて」と依頼するのではお金が絡むことで話が通らないので、そういう時は夫に「こういうの買ってきて」と材料を検索し、写真を投げてみる子どもたち。

達成するかしないかは分からないが、やりたいことをやるために自己決定し、とりあえず行動する。この場合は、交渉術の1つである“通るところに話を通す”という戦法を巧みに使い、その辺の見極めも上手くなっていた。

こちらは先回りもしないし、心配もしないし、受験する高校も知らない。
合格が決まり、喜び合っていた時に一応高校名を聞いて、初めて調べた(笑)

私自身も、専門学校に行く時は自分でこっそり願書を出し、面接に行き、合格の状態を作ってから初めて親に「ここ行きたい」と言ったことを思い出す。その血なのだろう。

干渉したり先回りしない=信頼を置いている ということ。そして、何かあっても「まぁ~大丈夫っしょ」というスタンス。
期待するわけでもなく、何も求めず、「ただ、在る」という状態。

それは確実に子どもたちの「自立」と「自律」につながっていくのだろう。

今回は、今まで日常で淡々とやってきた“種まき”が思わぬ形で実った、そんな収穫の秋のようなおはなし。


はるか インタビューをしてみて思うこと

この『毒散布計画(おりょうさん式子育て記)』に参加したい!やってみたい!と決めてから3ヶ月が経ちました。

3回のインタビューをさせていただき、おりょうさん節に衝撃を受けつつ、熱量そのままに文章にする。そんな贅沢で唯一無二な経験。
どの回も宝物のように愛おしく、書いている側なのに何度も見返してしまいます。笑

書き進め読み進めているうちに、おりょうさんの娘さん達を親戚のおばさんのような気持ちで見守っている自分がいました。

かと思うと、自分自身が娘さん達の年齢の頃やその時の両親のことを思い返している自分がいたり。
そして、その思い出を母と「こんなことあったよね~」なんて共有してみたり(母もしっかり毎回読んでいるファンです笑)

さらに、将来わが子たちをどう育てていきたいのか、どんな力をつけていって欲しいかなどなど未来を想像する時間になったり。
聞く⇨書く⇨読むというサイクルの中でたくさんの学びあり気づきあり、そして何より癒しあり、でした。

私は、島根県奥出雲町という小さな小さな田舎で子育てをしています。自然豊かで人も温かく恵まれた環境で子育てをさせてもらっていて、日々感謝です。
でも、田舎ならではの閉塞感やコミュニティが狭くなりすぎてしまうことも多々。そんな中で今回の機会をいただき、何というか、見える世界が広がった気がしています。

都会に住む子育てのちょっと先輩の話。異世界感もありつつ、「これは真似してみたい!」という部分はインストールしてみることもしばしば。 

息詰まりそうな時には“淡々と”日常を過ごしてみる。そうすれば、冷静になれたり普段の自分では気づけないことが見えてきたり。
効果は絶大、工夫は無限大です∞

おりょうさんの子育てを追いつつも、自分の育ちを振り返り、これからの子育てを見据えていく、素晴らしい機会をくださったおりょうさんに感謝です。

そして、右も左もわからず飛び込んだ私に優しく寄り添ってくださり、「一緒にやってみよう~楽しもう~!」と言ってくださった安心&安定感抜群のともえさん。

いつも、拙い文章を読みやすくわかりやすく校正していただいたさとまゆさん。スナイパーのように必殺仕事人でかっこよくて惚れます。

何よりも、読んでくださり嬉しい感想をくださる読者の皆様に感謝感激です。
次回は遂に最終回!ぜひぜひお楽しみに♪

ありがとうございました!

vol.5
インタビュアー&ライター はるか

校正 さとまゆ


この時期の生き物係の様子

「ママさ、変だって言われるでしょ?!」

娘たちから時々放たれる言葉。
こう問われると決まって返答は、「うん、よく言われる~。でもみんな変じゃん?変の基準はなによ?」

普段の私はと言うと、道端で見知らぬ子どもに話しかけようとするし、一緒に歩いているのに突然消えるような母である(何かを発見して吸い寄せられる)

この頃には、“この人はこういう人間なのだ”と、半ば諦めていたのではないかと思う。が、ある時彼女たちの中で、何かが変わったらしい。

そう、変な人から“面白い人”に昇格したようだった。

一体何がそうさせたのかは分からないけれど、この頃からお家に遊びに来てくれる方々のおかげもあるだろうなと思う。
“こんな変な人にもつき合ってくれる人がいる”と言う認識が、徐々に生まれた結果なのであろう。


vol.6 在り方(長女高校生・次女中学生)

女の子から女性になっていく準備期間であった次女の反抗期は、ゆるやかに終わっていった。

淡々とした生活は変わらないながらも、2年半前くらいからは私が家をあけたり、家に人が来ることが増えていた。

娘たちのなかでは、私が家をあけることに対して“月1~2回外泊をして、どこで誰と何の仕事をしているの?”という疑問が出てきているようだったが、そう思いつつも“店舗勤務のストレッチ以外にも何かしていて、それを頑張っている”と思ってくれているようだった。

家に人を招くという点では我が家に来る人たちは頻度も人数も様々だが、娘たちにとっては母親の交友関係に触れると同時に、小さい子と関わる機会も増えた。
最初は“ママの知り合いとその子ども”だったところから、最近では“自分の友達”という感覚が芽生えている様子。

娘たちの人間関係は学校という狭い枠内での付き合いが主である。しかし、ファーストプレイスである“家”に私の知り合いをぽーんと入れることで、普通に学校に通っているだけでは出会えない人たちに触れる機会を得られていた。

そしてそれが、良くも悪くも彼女たちの概念や価値観をちょっとずつ外に広げる要因となっている。

彼女たちにとって家に誰かが来るということは、淡々とした日常のなかにしずくが落ちるような、そんな体験なのだと思う。

面白いのが、誰かが来るとなると、たいてい娘たちのテスト前とかぶること。
しかし、人を招き入れる回数をこなしている彼女たちはリビングで少し話をしたら自室に行って勉強し、美味しいものを食べるとなるとリビングに出てきて一緒に食べたりと、人が来ても自分なりのペースで過ごしている。

また、最初は私が家に来たちびっこに注意するのを傍観していたけれど、最近は「子どもだからと言って甘やかさない」と言い始め、必要であれば注意をするなど、子どもとの関わり方にも変化が見られた。
注意をすることはエネルギーを使うし、言わない方がラクだけれど、これもしずくを落とした結果なのだろうと感じている。

ごはんを作っている…いや、なんなら産んだだけで母としての役割は終わっているのだが、最近はそこにプラスして、“娘たちにGiveしてあげられることはこれかも”という感覚を覚えている。


時々、娘たちは「友達がいない」と悲壮感もなく言っている。「だって友達いないもん」とふたりとも、はっきりと言う。
話を聞くと、価値観のあう友達がいないだけなのだろうと思う。

私たち世代は“友達がいない”ということ自体に抵抗がある人が多いと思うが、悲壮感もなく「友達がいない」とはっきり言える彼女たちのスタンス・在り方がすごいなと感じている。

“わたしがどう在るか”、そこにぶれがないのだ。

しかし、在り方に堅さが見える時もあって、若さだなと感じることもある。

次女は今年の夏に修学旅行に行き、お寺巡りは良かったけれど、ホテルで思うところがあったようだ。

お部屋でごはんを食べるとなった時、ホテルの人が部屋に運んできた料理を見て、その人の目の前で同じ班の子が「まずそ〜」と言った。よく一緒に登下校するお友達も一緒になって言っていたそうだ。

それが次女は嫌だったようで、修学旅行から帰ってきた時にどよーんと何か重いものを背負っているのが、見てわかった。
「どうしたの?」と聞くと泣き出して、そのことを話してくれた。

洗濯物を出しながらその話を聞き、リビングに着くとちょうど泊まりに来ていた果歩さんも心配して声をかけてくれ、「嫌だったね」「いい気分ではなかったね」と話を聞いてくれた。

長女は「そっかそっか。そんなこともあるよ」と肩をポンポンと叩き、みんなでテーブルを囲んでごはんを食べた。


日々の出来事は凸凹と色々あるけれど、ごはんを出して「おはよう」と言うような、“淡々と、ただ生きるだけの暮らし”が、何があってもそこには在る。

その状態が子にとっての“安心”を生んでいる。
それは、ニュートラルに戻れる場所が在る、ということでもある。

母は残念ながら偉大だから、いるだけでいい。

「吾輩は、母である。」

母であるとはそういうことなのだ。


のちのち、次女は一緒に登下校していた子たちと一緒に学校に行かなくなっていた。修学旅行でのことをその友達に言って、一緒に行かなくなったようだ。
どんな話し方をしたのかわからないけれど、人の目を気にせず「これが嫌だった」と友達に伝えるのもすごいし、自分に嘘をつかない姿勢は素敵だなと思う。

自律している次女。
淡々とした生活のなかで培われるものがあるのだなと感じている。

彼女の価値観や在り方がわかる出来事だった。


最近は、娘たちが夜ご飯を手伝ってくれることが増えてきていて、調理中のものを完成までやってくれたり配膳したりと、彼女たちにちょっとした変化が表れている。

精神的な自律というのか、“まもなく、手が離れるのかな”というのを肌で感じている。


娘たちの認識では、私は変な人。
3年前くらいから“面白い人”に格上げされている。

「母親の認識がないから」と言ったら、長女に「自分で育ったから」と言われた。

そういう意味でこちらの意図は子に伝わっている。
母の在り方で、子は子なりに在り方を模索している。

最近では、そんな彼女たちの在り方を色んな角度から眺めることで、自分の在り方を見せてもらってもいる。

これからも、やっぱり私は自由を抱えながら生きていく。
娘たちは、私が何をやっても、もう驚かないだろうだから。


ともえ インタビューをしてみて思うこと

“最終回、着地した!”

これが話し終わったあとの第一声の感想。
あぁ、母はそこにいるだけでいいのだ。

おりょうさんも、“母だから”といったことはしていないし、娘さんたちも“お母さんがいるからなんでも出来る”とも思っていない。

娘さんたちは覚悟が先にあって、そのあとに安心・甘えがあると感じた。
母がいるとなると甘えも出てくるけれど、おりょうさんの在り方があったから、覚悟が先にある。だから自分の想っていることを余すことなく出来る。
その順番が成り立つのは、淡々とした日々を送った上での見えない絆があるからこそ。

だから「吾輩は、母である。」なのだ。

このインタビューの前から、おりょうさんと娘さんたちのあいだには見えない絆があると感じていたけれど、この一連のストーリーを通してそれが作られていく流れと、その絆の強さが見えた。
そういうことだったんだ、と最終回で合点がいき、感動しかなかったです。

この連載中、日々の暮らしを営むなかで「淡々と生きる生き物係」の小さいおりょうさんがわたしの肩に鎮座していて、これでいいんだ!と思えたり、自分をちょっと緩めるきっかけになったりしています。

おりょうさんから直接この話を聞き、その場でわたしが感じたことを何も考えずに出すことが出来ていて、それを録画であとから聞いて、こんなことを言っていたのか!と自分でもびっくりすることもあり、いかにリアルでおりょうさんの言葉を聞くのがいい機会だったのか…と痛感しています。
おりょうさん、この機会を本当にありがとうございました。

一緒に執筆をしていたはるかさん。このストーリーと出雲の壮大な自然との暮らしの照らしあわせを垣間見せてくれていて、こうやって暮らしに落とし込んでいくのかというひとつのケースを見せてもらえた気がして、いつもほっこりしていました。

毎度立派な校正をしてくれているさとまゆちゃん。出来上がりがあがってくるたびに感嘆の声しか出ませんでした。細部にまで目を光らせて文章を校正してくれていたさとまゆちゃんは、もうかっこいいの一言です。

そして全6回を読んでくださった読者の皆様。あちこちから感想の言葉を耳にし、とてもとても嬉しかったです。感謝申し上げます。ありがとうございました。

vol.6
インタビュアー&ライター ともえ

校正 さとまゆ


長女からみた生き物係

鈴木好美という人間に育てられて、良かったなと思った。

様々な環境で、沢山の経験をすることができたこと。
幼い頃に叩き込まれた食事のマナーなどが、成長した今にも活きていること。

私自身が当たり前だと思い行動していたことは、当たり前に全ての人間が出来ることではなかった。

これらが、私の自立を促したのではないかと思う。

「子は親に似る」というのは性格や行動などで、良い意味でも悪い意味でも、本当に似るんだなと感じた。 

幼い頃は、周りの人間と違う行動をとる母が好きではなかった。
私は周りの人間に合わせることが大事だと思っていた。

が、今は周りの人間と同じではつまらないと感じる。周りの人間と違うことに喜びを感じるし、気楽に生きることができていると思う。

そう感じるようになったのは鈴木好美を間近で見てきたから。
自分の思うままに、自由に生きている鈴木好美を見てきたから。だと思う。

私はそういう考え方が似て良かったなと思う。
私は鈴木好美に育てられて、幸せ者だと思う。


次女から見た生き物係

正直、昔から育て方が良い意味でユニークだなとは思っていましたが、物心がついた小学生頃から、より明確にそう思うようになりました。

その一つとして呼び方です。
ある子は“呼びすて”や“ちゃん付け”で呼ばれるなか、私たちは“さん付け”でした。もちろん、昔はなぜそう呼んでいるのかわからなかったのですが、最近聞いてみたら、まぁまぁ理解ができたような気がしました。

「対等に一人の人として扱っている」と、そう言っていました。
それがいかに大切なことなのか、私は身をもって知っていました。

小学一年生の時、私は明日の準備を毎日自分自身でしていました。私にとっては当たり前のことだったし、みんなそうであるのだと思っていました。
ですが学校で、自分で準備ができる私は先生や友達から褒められました。なぜ褒められたのでしょう。

答えは簡単。
私が“一人の人として立派”だったからです。

準備を自分でしていないのが悪いというわけではないですが、それを当たり前の事だと理解できていた私になれたのは、母の育て方のおかげなのです。

今でもたまに思いますが、母の育て方により自立が早く、精神年齢の高い人物になれたと思います。それは人との関わりなど色々なところにおいて役に立ちますし、生き物係の話を聞いていたらわかるように面白おかしくやっていたのも、良い思い出になりました。

生き物係、ぜひご参考までに。


終わりに。

全6話という長い文章をご清覧いただいた皆さまありがとうございます。

インスタのストーリーズを見てくださったり、DMでお言葉を頂戴したり本当にありがとうございました。
たくさんの方に目を通して頂けたこと、心拍数があがり足元躍る思いです。

毒散布計画に加担してくださった、はるかさん、ともえさん、さとまゆさん。皆でなければ『吾輩は、母である。』は形にできなかった。

お願いごとや頼みごとが得意じゃない私が、かなり思い切ったことをしたなと、今でもふと思い返しています。

はるかさんの書いた文章に、「あゝよかったのだな」と肩をそっと抱かれる気持ちになりました。

ともえさんの書いた文章に「大丈夫!」と背中をポンと押されたような気持ちになりました。

さとまゆさんの校正に「誇り高くあれ!さぁ、お行きなさい!」と(書いていて泣けてくる)ジャケットを羽織らせてもらったような気持ちになりました。

なんてことない毎日が、どれほど自分が大事にしてきた時間か。そして、大切にしていきたい時間であるのか、再認識することができました。

私たちは、母である前に一人の女性であり、女性である前に一人の人間という生き物です。
あなたという生き物係は、あなたをどんなふうに育て、生かしていきたいですか?

どうあろうとも自由で、どう在っても美しいのです。
その上で、あなたという生き物係は、どう在りたいですか?


生き物係 鈴木淑深

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