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『シンプルな世界』十三

十三
 前期のテスト週間が終了した。つまり、夏季休暇に突入した。大学生の夏休みは二ヶ月近くあり、長い。多くの学生はバイトを半分、遊びを半分という風に休暇を使う。和貴もその例外ではなかった。八月は新しいバイトに打ち込み、それなりの給料を稼いだ。九月に入り、愛が来てから二ヶ月ほど経った頃、初めて二人きりでの遠出が実現した。日帰りで河辺に遊びに行くことにしたのだ。愛が川に触れたことがないと言ったことがきっかけで決まったことだった。
「レンタルしたシェアカー、そろそろ家の前に来ているはずだけどな」
 和貴がスマートウォッチでシェアカーの現在地を確かめようとしたところで、彼のスマートウォッチに到着したという通知が来た。
「お、来たみたいだ。愛、出るぞ」
「うん」
 愛と和貴は荷物をまとめて外に出る。エレベーターを降りて、マンションの正面玄関を出るとすぐの脇道に白い車が停車していた。シェアカーを運用している会社のロゴマークと『シェアカー』と車体に印字されている。
「あれだ」
 和貴と愛が近づくと、シェアカーが愛を認識し、扉が独りでに開いた。荷物を積み込み、後部座席に二人とも乗車するとすぐに愛の瞳が何度か青く点滅した。シェアカーと交信しているのだ。
「シェアカーとヒューマノイドの同期を開始します。目的地、はS
川河原キャンプ場、でお間違い無いですか?」
 車内スピーカーから聞こえてくる声に和貴が「それでお願いします」と答えると「畏まりました。これより、目的地までの、運転を開始いたします。目的地、まではおよそ一時間三十分。料金は……」と説明が続いたかと思うと運転が開始した。
 現在、首都圏では様々なシェアリング活動が盛んで、オフィスをはじめとして車も共有する時代になった。そのため、首都圏で自家用車を所持しているのはよっぽど車に拘りがある愛好家や蒐集家といった一部の人に限られていた。公共交通機関によって運用されているものもあれば、民間会社に運用されているものもある。タクシーやハイヤー会社が消滅した代わりに、シェアカー会社が数多く設立され、公共交通機関では賄いきれないルートを網羅している。今回、和貴たちが使用したのは民間会社によって運用されているシェアカーだ。
「一昔前までは、運転免許を持ってないと女にモテないとか色々あったらしいけど、今ではすっかりそんな話も聞かないな」
 和貴が窓の外を眺めながら何となく言うと、愛はくすりと笑った。
「パラダイムシフトね」
「そんな大層なものじゃないだろ。でも、まあ、中学の必修科目の中に『運転』が入って来たから大層と言えば大層なのか」
 シェアカーが利用できる地域が拡大されるに連れて運転免許が不要になってきた。しかし、運転に関する基礎知識がないままシェアカーに乗車してしまうと、不測の事態―例えば、交通事故など―に遭遇した場合、どうすればいいか分からず立ち往生してしまう。また、責任問題が生じた際に裁判で誰を責めれば良いのかわからない。そこで、義務教育の一環として『運転』を導入することで、全員が運転に関する知識を持っているということにし、全ての問題を解決することを試みた。現在のところ、それは上手く機能しているようだ。
「愛の存在だって、きっとパラダイムシフトだ。きっと、これからヒューマノイドにとっていい時代になるはずさ。今はまだ偏見や差別が多くたって」
 和貴は隣に座る愛の手を握りしめる。彼女もそっとその手を握り返した。
 
 早朝に家を出たせいか、目的地に到着するまで和貴は深い眠りについていた。愛に揺り起こされて、初めて水のせせらぎに気がついた。
「着いたのか?」
「うん、着いたよ。降りようよ!」
 愛がいつになく上擦った声で、降車する。和貴も後に続いて眠たい目を擦りながら車を降りる。彼らがトランクから荷物を下ろしたのを感知したシェアカーはそのまま走り去っていった。「あ!」と慌ててスマートウォッチで車を呼び戻そうとする和貴を愛がやんわりと制す。
「シェアカーには十六時にここに来るように指定しておいたよ」
「何だ、そうだったのか……。まあ、また新しいのを呼び出せばいいだけなんだけどな。焦ったよ。ありがとう」
「いえいえ」
 愛がはにかみながら微笑むと、和貴の体温は少し上昇したような気がした。
「あれ?和貴の体温が急激に上昇したよ?太陽光が強いからかな?陰を探しましょう」
「ああ」
 和貴は参ったなと困りながら、さっさと影を探しに行く愛の後をついて行った。

 適度に陰がある場所を見つけた二人は、レジャーシートを広げ、服を脱いで下に着ていた水着姿になった。
「愛は防水なんだよな?」
「ええ、そうよ。でも、ちょっとでも傷がついたらおじゃんね」
 和貴が「それを早く言えよ」と言って、愛を横に抱き抱える。
「きゃあ、お姫様抱っこ」
「喜んでいる場合じゃないだろう。お前がダメになるなんて冗談じゃない。水には入れさせないぞ」
「嫌よ、下ろして。私は川に浸かることに憧れていたんだから」
 不服そうに和貴の腕の中でジタバタと暴れる愛に彼は折れた。そっと彼女を爪先から下ろすと、ハラハラした様子で彼女の様子を観察していた。
「そんなに見張ってなくても大丈夫よ。岩石が降ってきて、皮膚が傷つくとかしない限り」
「わからないじゃないか。いつそれが起こるとも」
「和貴ってばそんなに心配性な質だったっけ?」
 愛はおかしそうに笑ったかと思うと、足元の水を掬って、和貴に向かってかけた。水飛沫が彼の熱った体を冷やす。
「やったな?」
 和貴も愛に乗せられて、すっかり二人で水の掛け合いを楽しんでいた。ハッと気がついた時には愛の体はずぶ濡れだった。慌ててタオルを取りに行こうとした和貴だったが、彼の目の前で彼女はさらに深い場所へ歩いていき、全身潜って見せた。唖然とする彼の前で、水面から頭を出した愛は殊更楽しそうに歓声を上げる。叱ろうとした和貴だったが、愛がふと真面目な顔になったため叱る気も失せてしまった。
「どうした?愛」
「……水と機械は共にあれると思う?」
「何を唐突に……」
「お願い、答えて。水と機械は共にあれると思う?」
 愛の真剣な目に射抜かれて、和貴は彼女の真剣さを悟った。少し考えを巡らせたかと思うと、彼は彼女の近くまで歩み寄った。彼の肩まで水に浸かっている。二人は互いに触れられる距離で向かい合った。
「あれるさ。水はただずっとそこに存在しているだけ。共にあろうとすれば自らが変わればいい。それだけのこと。それに、今現在、愛自身が水と共にある。何よりの動かぬ証拠じゃないか。違うか?」
「そうね……そうだわ。一緒にいたいと思った方が変わればいいのよね」
 愛の言葉はスッと和貴の胸の真ん中に突き刺さった。きっと彼女は水と機械のことだけを言っているわけではない。様々な対立している事象に対して言及しているのだ。これはプログラムなのか。それとも、彼女自身の考えか……。彼女にそれを問い詰めたところで、愛は困るだけだろう。きっと自分自身だって確かめようのないことなのだから。しかし、和貴にとってはそんなことよりも、愛がそういう問題意識を抱き始めたことが重要だった。愛は和貴の元へ来た時から少しずつ変容している。自立学習能力を備えているから当然だと言われれば当然だ。しかし、人間も同じようにして変わっていく。和貴にも同じことが言えるからだ。
「俺は変わるよ」
 愛を抱きしめるように両手を伸ばし、腕の中に閉じ込めた。愛は大人しくその胸に抱かれながら「私も」と目を瞑って静かに答えた。


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