自由は内にあるもの

こんばんは、こねこです。

今回は私が昔から求め続けてきた自由について、私の考えを述べようと思います。

自由と聞いて皆さんは何を思い浮かべますか。

かつての私は「束縛からの開放」を思い浮かべていました。しかし、倫理学の講義を受講した際に自由は本来仏教用語だということを知りました。自らに由るというのが元の意味。つまり、自分の軸を持ち、自分の行動に責任を持つことだと私は解釈しました。

幼い頃、親に「どこに行きたい?」と聞かれたら必ず私は「遠くに行きたい」と答えていました。遠くに行けば何かが変わると思っていました。この閉塞感から開放してくれるのではないかと期待していました。

しかし、実際「遠く」へ連れて行ってもらっても、そこに到達した時点でそれは最早「遠く」ではなくなってしまい永久に私の欲求が満たされることはありませんでした。

高校生で1年弱留学しました。念願の、文字通り遠くの国外へ行ってもどこか満たされない感じがいつまでもあり、澱が溜まっていきました。

そうした不満感は大学生になってもしこりのように私の中にずっと存在し続けていました。そこで、私はそれと向き合うことにしました。あんなに遠くまで行ったのになぜ私はまだ遠くへ行きたいと考えているのだろうかと。その時、私は自分が変わっていないからだという答えに至りました。

どれだけ場所や環境が変わろうと、自分の本質が変わらなければ受け取り方は何も変わりません。自分という人間は場所や環境によって影響を受けて形成されていきますが、感じ方は本質が変わらなければ変わらないのです。

自由を求めて遠くに行きたがった私ですが、自由は最も近い私自身の中にあったというわけです。

束縛されていると感じるのは、それは自分に確固たる軸がなく、他人の意見に左右され、流されているから。自分で選んでいないから。

私の中で「自由」が定義されたため、遠くに行きたいと思うことはなくなりました。海外旅行も以前は逃避の意味合いが強かったのですが、コロナ禍で行けなくなった今その価値を改めて問い質したところ、自分の現在地を確かめ調整する機会なのではないかと考えるように。

自由は常に調整して得ていくものではないでしょうか。自由は外に求めるだけ離れていくもの。自分の内面を見つめることで自らに由って、人生を謳歌したいものです。

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