見出し画像

『シンプルな世界』四


 愛が来て、一週間が経過した。今日も猛暑というニュースにうんざりしつつ、和貴は出掛けるための準備を始めた。
「バイト?」
 愛が朝食の用意をしながら彼に尋ねる。彼は寝ぼけ眼を擦りながら、「ああ」と一言だけ答えた。
「今日も遅くなる?ご飯は?」
「いや、今日は夕方には帰ってくるよ」
「わかった。そうしたら、ご飯作っておくね」
「うん」
 会話はそこで終わった。暫くの間、目玉焼きがジュウジュウとフライパンの上で焼ける音が聞こえる。良い香りも漂ってきた。和貴が準備を終える頃、ちょうど朝食も完成した。
「朝ご飯できたよ」
「ありがとう」
 和貴は床に直接座り、折り畳み式の机の上に並べられたハムエッグのサンドイッチとサラダ、それからコーヒーを眺めた。
「いただきます」
 習慣化したその言葉が、自分の言葉なのにやけに他人行儀に聞こえた和貴だった。朝食をすっかり平らげると、歯を磨いて鞄を持った。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
 愛に見送られて家を出る。このことに和貴はもう違和感を感じていなかった。しかし、それと同時に自分の中でどうしようもないモヤっとしたものが芽生え始めていることを感じていた。
 学生の一人暮らしは甘くない。和貴の場合、親から援助してもらっているとはいえ、生活費は自腹だ。ヒューマノイド恋人をレンタルするまでは特に無駄遣いをするわけでもなかったため週二回のバイトでもよかったものを、週四回に増やさざるを得なくなった。今日は彼の全休日で、週のうちでも稼ぎ時と言えた。和貴が働いているバイト先は自宅近くのカフェだ。そこへ従業員用入口から入ろうとすると、扉の手前でおろおろと立ち往生している若い女がいた。
「あの……うちの店に何か?」
「あ!もしかして、ここの方ですか」
「えーと、ただのバイトですけど。一応、はい」
「よかった!このまま遅刻しちゃうかと思って泣きそうだったのです!実は私、今日バイトの採用面接を受けに来たのですが、入口集合としか聞いてなくて。行けばわかるかと楽観視していたのですけれど、いざ来てみると入口が二つもあってどっちの入口なのかと困惑しておりまして……」
「あー、多分、正面の入口の方ですよ。こっちじゃない方」
「え、あ、そうですか。そうですよね!ああ、恥ずかしい。すみません、ありがとうございました!」
 彼女は頭を下げると、慌ただしく正面入口の方へと向かっていった。おっちょこちょいな人だなあ、と思いながら従業員出入口から入店し、更衣室兼休憩室に入室すると和貴のバイトの先輩が前掛けをつけているところだった。
「おはようございます」
「うっす。あ、聞いた?今日、店長がバイトの面接だから昼のホールは俺らだけで回せって」
「聞いてはないですけど、さっきバイトの面接に来たっていう女の子には会いました」
「もう会ったんだ!で、どうよ?可愛かった?」
 男が目を輝かせて「期待しています」とありありと書かれた顔を前にしながら先ほどのことを回想する。
「うーん、おっちょこちょいな人なのかなあとは思いましたけど、顔は可愛かった……はずです」
「何だよ、はずって」
「だって、そんな初対面の人じろじろ見ないでしょ、普通」
「それもそうか。あとでお冷や出す振りしてこっそり見てこよう」
「それ、もうこっそりじゃないですよ」
「それもそうだ」
 ハハハ、と爽やかに笑いながら先にタイムカードを切るとホールへと向かっていった。その先輩は和貴の三歳年上だ。所謂、フリーターで職を転々としている。ここの店長とバーでバーテンダーをしていた際に知り合い、働くことになったという。そのため、昼はカフェで、夜はバーテンダーとして働いている。明るめの茶髪に、両耳に光る三つのピアスは彼の甘い顔立ちを際立たせるだけで、嫌味なところは一切ない。彼についての話は、カフェで働いている同期の女子大学生がよくしているため、カフェで働いていれば自然に耳に入る。和貴は自分の荷物を指定のロッカーに入れると、クリーニング済みと貼られた籠から前掛けを取り出す。黄色いタイムカードが並んだ壁ポケットから東雲を見つけ出すと、タイムカードを切る機械に吸い込ませるように入れ、出勤時刻を打刻する。八時という文字が黒く印字されるのを確認したらそのカードは元に戻し、彼もホールへ向かった。
 開店前なため、まだBGMも流れていない店内。普段であれば小銭をレジに入れる作業音とモーニング用のドリンクやカトラリーを用意する音だけが静けさの中で宙を漂うのだが、今日は違った。
「はい、斉田さん。今日はよろしくお願いします」
「よろしくお願いします!これ、履歴書です」
「ありがとう。拝見しますね……A大二年生ってことは、うちの東雲くんの後輩だね」
「A大の先輩がこちらにいらっしゃるんですか!」
「うん、いるよ。ほら、あそこの黒髪の方」
 視線が和貴に集中した。聞こえていた彼としては無視するわけにもいかず、営業スマイルを浮かべて「どうも」と会釈をした。その際見た彼女の顔に見覚えがあったが、誰かわからないまま次の瞬間には忘れていた。
「あ……!」
「知り合い?」
 店長が「おっ」と嬉しそうな顔をするが、すぐに斉田が否定する。
「いえ、先ほどお会いしたんです。私が従業員出入口と正面入口とどちらで店長をお待ちすればいいかわからなかった時、それは正面入口の方じゃないかって教えてくださいました」
「へえ、そうだったの。じゃあ、今日まで面識はなかったんだ」
「はい。今日、初めてお会いしました」
 斉田が和貴をじっと見た。彼はその時には背を向けて別の作業をしており、その視線に気づくことはなかった。
「お待たせしました」
「お、小林くん。ありがとう。はい、斉田さん。お水」
 宣言通り小林はお冷やを出すという口実を利用して、斉田の顔を見に行ったようだった。斉田は今時珍しい黒髪ロングヘアの純真そうな女だった。高校生と言われても納得してしまいそうな瑞々しさが体全体から発せられている。素に近いメイクをしているからか、そのような印象を受けるのだろう。お冷やを出し終えた小林が早速和貴のいるバックヤードに興奮気味に戻ってきた。
「おいおいおいおい、シノー。とんでもない美少女じゃんか!あれを『はず』で片付けたお前は一体これまでどんな美女に囲まれて生きてきたんだ?」
「従業員出入口って暗いし、俺と彼女の身長差それなりにあるし、そんな顔見えなかったんですよ。許してくださいって」
「そ、うだよな。ごめん。久々にあんな可愛い子見ちゃって興奮しちゃった。いやあ、店長雇ってくれないかなあ。そしたら、俺、今まで以上に頑張っちゃうのに」
「給料変わんないのに?」
「おうよ。金じゃねえ」
 小林は現金すぎる発言をしながらも、着々と九時の開店準備に向けててきぱきと動く。作業に集中していると、和貴が気づいた頃には店長も斉田の姿も店内にはいなくなっていた。その代わりにパラパラと客が席に座っていた。
(今日はいつもより客が少ない。雨が降り出しそうな天気だからだろうか。傘立てを出しておかなくては。)
 和貴は小林に断って、休憩室に置いてある傘立てを取りに向かった。休憩室に入ると、店長がパソコンに向かって作業をしていた。
「お疲れ様です」
「ん?ああ、シノーか。お疲れ」
「傘立て持っていきます」
「よろしく」
 画面から目を離さずに、店長は生返事をする。しかし、はたと気づいたのか「そうそう」と傘立てを持って退室しようとしていた和貴を呼び止めた。
「さっき面接に来ていた斉田さん、採用したよ。だけど、向こうも考える時間欲しいだろうから一週間、猶予をあげたんだ。もし、彼女がここで働きたいって言ってきたら、同じ大学だし、シノーに指導役頼もうと思っているから、よろしくな」
「了解です」
「話はそれだけ。小林が痛く斉田さんを気に入っているみたいだし、守ってやってね。アイツ絶対手が早いから。まだ未成年の彼女を危険に晒すわけにはいかない」 
「未成年……」
「まだ十代だってさ、彼女。手を出したら犯罪に近いよ」
「そうっすね」
「ああ、ごめん。話逸れた。まあ、そういうことだから」
「はい。失礼します」
 店長を残して部屋を出ると、そのまま玄関口に傘立てを置いた。ポツリポツリと雨が降り出した。

 気づけば雷雨になっていた。窓に打ちつけるように降ってくるのは大粒の雨だ。風も強く、ガラス製の扉がガタガタと揺れる。
「雨やばいねえ。これ、大雨洪水警報出ていてもおかしくないよ?」
 小林がそう言って、店用のタブレットから気象庁のホームページにアクセスする。案の定、大雨洪水警報が発令されていた。
「これじゃあ、閑散とするのも納得だ」
 しみじみと小林が言う。実際、店内には今客が誰一人としていなかった。客がいない際に言う「ノーゲスです」と発してから一体どのくらいの経過が経ったのか二人にはわからなかった。昼休憩を終えてからはほとんどサーブもしていない。
「シノー、お前、どうやって帰るんだっけ」
「俺は徒歩ですよ」
「傘、持ってきたのか?」
「あ。そういえば持ってきてないですね。猛暑ってところに気を取られてすっかり雨のことを気にかけるのを忘れていました。近い距離なので、走っても帰れます」
「そうか……俺、どうするかなあ。今日はバーの方が休みだし、パーッと遊ぼうと思っていたのに」
「傘はあるんですか?」
「いや、ないけど、休憩室に客が忘れていって取りに来なかった大量のビニール傘が放置されてあるし」
「ああ、あれですね」
 休憩室の端に追いやられている大量のビニール傘の山を二人同時に思い浮かべた。
「こういう時に役立つんですね。そろそろ廃棄処分するかってこの間店長と話していたんですけどね」
「役には立つけど、絶対あんなに要らないから多少は処分しないとな」
 二人は暴風雨で荒れ狂う外の様子を店内からじっと黙って見つめていた。

 結局、その日は二人のシフトが終了するまでの間に数組の客が来たものの大して忙しくはならなかった。夜シフトの人に交代して、和貴と小林は着替えて従業員専用の出入口に立っていた。ドドドという轟音立てながら雨樋から落ちる雨にため息を漏らしながらも小林は地下鉄の方へと傘をさして歩き始めた。和貴も帰ろうかと休憩室から拝借したビニール傘をさそうとした瞬間、前方から手を振る誰かの姿が見えた気がした。雨と風で視界が悪く、彼はもう一度目を凝らした。やはり、誰かが傘を高く上げて手を振っている。後ろを振り返ってみたり、周辺を見渡してみたりしたが和貴の他に人を認めることはできなかった。
「誰だろう」
 ちょっとした恐怖を覚えながら固まっていると、段々近づいてきたその人物の顔が見えた。愛だった。
「和貴、今日、傘忘れて行ったから迎えに来た」
 ニコニコと笑う愛は傘をさしていないもう一方の手に大きな黒い傘を握っていた。
「あ、ありがとう」
 どうしようかとさしかけていたビニール傘を下ろすと、彼女も和貴が握っている傘の存在に気がついたようだった。
「それ、どうしたの?」
「お店がくれたんだ。雨だからって」
「そうだったの。じゃあ、私、必要なかったね」
 先ほどと同じ笑顔で言っているはずの彼女の顔が酷く寂しげに見えた。彼は胸が急に苦しくなって、その場を立ち去ろうとビニール傘を一気に開けた。屋根があるところから一歩踏み出した途端、物凄い轟音が頭上から降ってきた。はあ、とため息をついて歩き始めたところで誰かが従業員出入口に向かって走ってくるのが見えた。
「あれ、先輩?」
 和貴が声を掛けると、ずぶ濡れの小林が顔をあげた。か、と思えば驚いた顔をして彼の後ろを見やる。和貴がその視線を追って後ろを見るとそこには愛が立っていた。
「斉田……さん?」
 その一言で、和貴が斉田を見た時に覚えた既視感の正体がわかった。愛は斉田にそっくりだった。違うのは、人間か人間ではないか。その点だけだ。
「これは俺のヒューマノイドですよ。斉田さんじゃないです」
「そうか……そうだよな。いや、ごめん。俺ちょっと忘れ物して戻ってきたんだわ。それじゃあ、またな」
 小林はそう言って再び店へと従業員出入口から入っていった。黙って和貴は歩き始め、愛もその後に続いた。




気負うことない、空気のような場所であってほしい。 記事に共感していただけたら、 サポートしていただけると幸いです。