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『シンプルな世界』十五

十五
 仁の家は良いお家柄だった。所謂、旧家だ。仕来りが数多くあり、幼い頃から抑圧された上に父親から暴力を振るわれる環境で育った彼は、無理矢理大学から一人暮らしを始めた。当初は家賃も光熱費も全て仁が自腹で払わなければならない約束だったが、息子可愛さに母親が父親に頼み込み、遊ぶお金だけは自分で工面することになった。世間から見れば十分贅沢な方だったが、何せこれまで何不自由なく生きてきた仁には少々窮屈だった。しかし、その窮屈さよりも仕来りのない自由さの方が彼にとっては魅力的だったため実家に戻ることはなかった。
 これまで彼に彼女はいたことはない。良家の令嬢でなければ交際が認められなかったということもあるが、それよりも幼少期から受けてきた父親による暴力が彼を縛っていた、自分にもその凶暴性が遺伝していることを恐れて恋人を作らなかったのだ。しかし、成人してからも未経験というのが、男同士の猥談に参加する中でどんどん恥を感じるようになっていった。大して恥を感じるべきものでもないのだが、プライドというものがあった。そんな折、目にしたのがヒューマノイドの宣伝だった。ヒューマノイドでも性交渉可能だという噂を聞きつけ、早速調べてみるとタイプによっては噂が誠らしいということがわかった。仁に迷いはなかった。早速、バイト代を貯め、足りない分は貯金を切り崩して念願の女性型ヒューマノイドを手に入れた。彼女には凪と名付けた。凪を見ていると不思議と仁の心が落ち着いたことに由来する。
 凪と日々を過ごす中で仁の焦りも消え、彼女を人間の恋人のように感じていた。というより、寧ろ、仁の中で人間とヒューマノイドの境が曖昧になっていた。実際、凪と体を繋げた時、一つに溶け合うような感覚がして境がなくなってしまったのではないかと疑うほどだった。
 だが、世界は残酷だった。
 
 玄関の扉が開き、両親が初めて家にやって来た。滅多に緊張した面持ちを見せない仁が表情を固くしているのを見て、凪の顔にも緊張が走る。
「いらっしゃい、父さん。母さん」
「ああ」
「お邪魔しますね、仁さん」
「こんにちは、初めまして。凪と申します」
 凪が二人に向かって挨拶をすると、父親はそれを華麗に無視し、ダイニングテーブルの席についた。母親も目を泳がせながら父親の隣に腰掛けた。凪は気分を害された風でもなく、すぐにお茶を汲みにキッチンへ向かう。
「父さん、あんまりです。彼女が僕の大切な恋人の凪ですよ」
 仁の父親が一瞬、キッチンの方へ向かった凪の方へと視線をやったがすぐにテーブルの中央に戻した。
「……お前ももう大学三年生だ。次期社長として何をすべきかわかっているだろう」
「何を仰っているのか僕にはさっぱり……」
 父親の目が吊り上がったところで、隣にいた母親が制する。
「あなた、抑えて。いくら何でも、もう年頃の男には力業では勝てませんわ……。仁さん、端的に言うとね、お見合いの時期が来たのよ。あなたの婚約者をそろそろ正式に決めないと」
「見合い?婚約者?僕には立派な恋人がいるのに?」
「あれはただのおもちゃにすぎん。そんなに気に入っているのであれば、使用人に加えればいいだろう」
 父親が事もなげにそう告げた。
「仁さん、あなたにはお世嗣が必要よ。ヒューマノイドとか何とかでは子どもはできないのだから。人間の女性と結婚しないと」
「そもそもだな、恥ずかしくないのか?お前は。ロボットなんかと疑似恋愛をして。俺は心底恥ずかしいぞ。俺の息子がロボットに入れ上げているってことを知られぬよう、どれだけ金を使って揉み消しているのか、お前はわかっているのか?」
 怒気を孕んだその声に、ぴしりと空間が歪んだ気配がした。しかし、実際は父親のせいでそのような気配が生じたわけではなかった。仁の堪忍袋の緒が切れたのだ。
「さっきから聞いていれば、あんたらは何様なんだ?ロボットなんかって凪のことを知りもしないでバカにしやがって。凪だって感情があるし、思考能力だってある。俺という他人がいる時点で、もう立派な人間なんだ。あんたらみたいな子どもと権力にしか興味がない人間よりよっぽど人間らしいぞ!」
 これまで声を荒げたことのない息子の様子に両目を見張っていた両親だったが、父親がすぐに咳払いをして空気を戻そうと試みた。
「……だが、お前はその凪とやらと連れ添ってどうするつもりなんだ?」
「一人暮らしの条件でしたから。社長にはなって責任は負います。子どもに関しては養子を貰えばいいでしょう」
 はあ、と父親がため息をついたかと思うと立ち上がった。
「お前と話をしていても埒が明かん。話し合いで解決したかったが……。残念だ。……悠子、行くぞ。全く、お前が子どもを二人産んでいたらこんなことにはならなかったんだぞ」
「心得ております……。仁さん、それじゃあ、またね」
「あれ?お二方とももうお帰りなのですか?お茶が今入ったのですが……」
 凪がお盆にお茶と急須を乗せて現れたが、相変わらず二人は彼女の存在を無視したまま玄関口へ向かった。
「次会う時はお前が実家に帰って来た時だ」
 父親が振り向き様にそう言い残すと、バタンと扉が閉まった。部屋には静けさだけが満ちていた。嵐が過ぎ去った後の静けさなのか、それとも嵐の前の静けさなのか。仁はこの時、知る由もなかった。


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