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『シンプルな世界』十六

十六
 夏休みが終わり、大学の後期開始、初日。案の定和貴と講義が被った仁は、一緒に講義を聞くと昼食を共にして帰宅した。すると、いつもは出迎えてくれるはずの凪の姿が見当たらず、慌てて部屋の中へ入った。ダイニングテーブルの上には置き手紙だけが置いてあった。その手紙曰く、仁に愛想が尽きて自ら返却手続きを行ったとのこと。また、お見合いをするならこの女性にすべきだ、と写真付きでアドバイスも書かれていた。
「嘘が、下手なんだよ、凪……」
 置き手紙を握りつぶしながら涙をぐっと堪える仁だった。犯人がいるとすれば、両親としか考えられなかった。つい最近、訪れた父親の去り際の言葉をこの時、仁は思い出したーー「次会う時はお前が実家に帰って来た時だ」。それがこの凪の失踪と無関係とは思えず、仁はすぐに実家へ連絡を入れた。使用人が電話を取り次ぎ、今週末に実家へ帰ることにした。

 週末になり、手ぶらで実家へ戻ると、母親が涙目で出迎えた。「おかえりなさい……。やっと、やっと、帰ってくる気になったのね。母さん、信じていたわ」
「ただいま」
 仁は母親の言葉に返事はせず、そのまま書斎へと向かおうとしたが、使用人が慌てて「ご主人様は応接間においでです」と言った。息子を迎えるだけなのになぜ応接間に、という疑問はありつつも素直に応接間へ赴くと、そこには皮張りのソファにどっかりと腰を据えた父親の姿があった。仁の姿を見るや否や、勝ち誇ったような表情で彼を出迎えた。
「やあ、仁。俺の言った通りになったなあ」
「凪はどこですか」
「そうかっかするなよ。まずは椅子にでもかけたらどうだ」
 父親にソファに座るように促されたが、仁はそれを気にも留めない。
「ここにそう長居するつもりはないのです。……凪はどこですか」
 仁が話を聞く素振りを一つも見せないため、側に控えていた秘書を呼び寄せ、何か指示を出す。頷いた秘書は静かに退室した。そして、仁が何かを問い質す間も無く、秘書が一人の女性を伴ってやって来た。彼女は凪が置いていった写真の女性そのものだった。
「あの、初めまして。曽良美緒と申します」
 扉付近に突っ立ったままの仁に挨拶をした曽良は「えっと……」と困ったように秘書に目配せをした。
「曽良さん、腰をかけて。さあさあ」
 それに気づいたのか気づいていないのか、父親が立ち上がって彼女をエスコートすると、ソファに座らせた。秘書は仁を無理矢理曾良の向かい側に座らせると、父親が仁の隣に腰掛けた。
「わざわざ出向いてもらってごめんなさいね。仁、挨拶しなさい。こちらは曾良不動産のご令嬢の、曾良美緒さんだ。お前の見合い相手だ」
「見合い相手ですって?」
 仁が驚いて父親を見ると、その声量に驚いた曽良が小さな体をさらに縮こませる。それに気がついた仁は「あ、申し訳ございません」と彼女の方に向き直って謝ったが、それも一瞬のこと。すぐに父親を睨みつけた。だが、見知らぬ女性を家庭の事情に巻き込むわけにもいかず、仁は何も言うことができなかった。応接間に仁を呼んだのは見合い相手に合わせようと父親が目論んだからであった。父親は仁のことなどお構いなしに、とんとん拍子に話を進める。
「今日は曾良ご夫妻ともお会いできるかと思ったのですが」
「申し訳ございません。どうしても外せない海外出張が重なりまして、両親共に国内にいないのです」
「なんと、そうでしたか。いえ、問題ありませんよ。元々、そうなるかもしれないと聞き及んでおりましたからな。ハハハ」
 近年稀に見るくらいの上機嫌さに、薄気味悪さを感じつつ仁は平然とした顔で、後々使用人が運んできたブラックコーヒーに口をつけつつ目の前の曾良美緒を観察した。凪が勧めるだけあって、仁の好みそのものだった。顎周りで揃えられた黒髪ボブのワンレン前髪。目は大きくてキラキラと輝いている。鼻筋もすっと通っており、唇は形のいい桜色だ。身長は少し高身長だろうか。先ほど一瞬だけ並んだが、一六十センチは超えているように思えた。
「あの、何か……?」
 仁の視線に気づいた曽良が不思議そうに、首を傾げて彼を見つめる。仁は慌てて「いえ、何でもないです」と答えると、父親がニヤニヤと息子を見た。
「それじゃあ、年寄りはここらで退散して、若い者同士で話してみなさい。行くぞ」
 父親が秘書を伴って、応接間を後にした。残された二人には気まずい雰囲気が流れた。意外にも、その静寂を破ったのは曽良だった。
「先ほどからご様子を伺うに、佐々木さんは私との見合いをあまり望まれていないように思います……。これは強制ではございませんから、お嫌でしたらお断りしていただいても」
「ああ、僕の失礼な態度でそう思われてしまったのですね。大変申し訳ございません。あなたとの見合いを望む、望まないの前にまず、あなたと見合いをするという話を今聞いたばかりなもので、心の整理がついていなかったのです。そのせいであなたにご不快な思いをさせてしまっていたのなら謝ります」
「そんな!謝らないでください。こちらこそ、余計なことを」
「ただ……あなたとのお話を進める前に、僕の父に確認しなければならないことがあるのです。お話はそれからでもよろしいですか?」
「はい、勿論です」
 曽良は少し頬を染めながら頷くと、嬉しそうに笑った。その後、二人は世間話を少々した後に、彼女は用事があるということで仁は彼女を玄関先まで見送った。曽良を迎えに来た車の姿が見えなくなると、仁は顔を引き締めて再び父親に会うため、今度は書斎へ向かった。
 父親は煙草を燻らせながら、窓辺で寛いでいた。仁が入って来たのを横目で確認すると、「何だ?」と尊大な態度で尋ねた。
「まだ、凪がどこにいるのか教えてもらっていません」
「曽良美緒、とてもいい女だろう。実はお前より三歳年上なんだがな。そのくらいの歳の差はどうってことない。お前のことがなければ俺が貰っていたのにな」
「そんなことを聞きに来たわけではありません」
「察しが悪いなあ、お前は。彼女との見合いを受けるならあのヒューマノイドの居場所を教えてやると言っているのだ。曽良不動産との繋がりは我が佐々木不動産にとっても重要なものだ。何としてでも関係を結ばねばならん」
 仁は背に腹は変えられぬ、と思った。凪さえ見つけることができれば、あとは見合いの話を揉み消すことも、国外逃亡することも可能だと踏んだのだ。
「わかりました。曽良さんとの見合い、受けます」
「……よかろう。ならば、ここにサインをしろ」
 父親が引き出しから一枚の紙を取り出すと、ペンと一緒に仁の前に置いた。彼は気もそぞろにその紙にサインをする。彼の名前が書かれた誓約書を満足気に取り上げると、徐に煙草を灰皿の底に押し付けて言った。
「あれはこの屋敷にいる。精精探し回ることだな」
 それを聞くなり、仁は書斎を飛び出した。屋敷中の扉という扉を開けて回った。使用人は何事かと驚いた様子で、次期当主の奇行を見守っていたが、母親だけは目を伏せて涙を堪えていた。
 やがて、彼女は見つかった。屋敷裏の倉庫内で作業をしていた。
「凪……」
 仁は感涙で前が見えなくなっていたが、彼女の方へと一歩、また一歩と近づいていった。ようやく彼女の顔が見える距離まで近づいた時、仁は恐怖を覚えた。そう、彼女の表情につい先日までは見られた人間らしい感情という感情が抜け落ちていた。まさに、ロボットという表現が今の彼女には相応しかった。
「はい、仁様。何か、御用でしょうか?」
機械的なその声で、仁は全てを悟った。メモリーは消され、スペックも落とされた。もう、昔のように「仁くん」と呼びながら照れる彼女を見ることは叶わぬのだ、と。
「凪……ごめんなあ。本当に、ごめんなあ」
 仁は凪に抱きついて泣きじゃくった。すっかり処理能力が低下した凪は「エラー発生。エラー発生。処理できません」という言葉を繰り返すだけだ。それがまだ仁の胸を締め付けた。
 散々涙を流した後、仁は凪からそっと離れた。それと同時に、エラーコードが解除され、予め父親か母親に命令されていたのであろう、倉庫整理を再開した。
 陽はもうすぐ沈みそうだった。茜色の光が二人の体をすっぽりと包み、何もかもを燃やしていくようだった。それまで二人で過ごした記憶も、経験も、何もかもを。
 涙が枯れ果てた仁は、その後夕食も取らずにそのまま実家の自室で気を失うように眠りについた。翌朝起きると、自室の机には昨日署名した誓約書のコピーが置かれていた。そこには、卒業と同時に婚約者と結婚することを誓う旨が書かれていた。


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