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『シンプルな世界』十二

十二
 最後の出勤日が終わった。和貴は小林とシフトが被った。幸か不幸か斉田とは重ならなかった。
「え?辞める?」
 辞めたら俺が美里チャン貰うのに、と小林が言う。和貴は「お好きにどうぞ」とだけ言うと、挨拶回りのためにキッチンへと向かった。皆、和貴が唐突にやめる理由は店長から聞かされていないようで、彼を惜しむ声が多かった。中には不躾に「何かやらかしたわけ?」と聞いてくる輩がいないでもなかったが、大半は何も聞いてはこなかった。
「今日で最後だな、シノー」
 休憩室で荷物をまとめていると店長がやって来た。その顔は重苦しい。
「三年間、お世話になりました」
「送別会をやるかってキッチンの方で盛り上がっていたけど……」
「ご好意はありがたいですが、辞退します」
「そうか……」
 店長は胸ポケットに入れている煙草の箱の線を忙しなく指で撫でている。
「……悪かった、最低なんて言って」
「いいんです。自分でもそう思っていましたから」
「お前が俺に打ち明けたのは俺を信頼してのことだったんだろう。後から気がついたんだ」
「信頼……それもあったかもしれません」
「も?他に何かあったのか」
「……いえ、きっと全てひっくるめて信頼って言うんだと思います。さっきの言葉は忘れてください」
 和貴が鞄に手を掛ける。
「では、ありがとうございました。店長もお元気で」
「おう。たまには店に顔出せよ」
「はい」
 和貴はもう二度とこの店に来ることはないだろう、と心の中で思った。店長を背にして従業員出入口まで歩く。途中、小林とすれ違ったが、和貴の会釈を一瞥しただけでそれ以上の会話はなかった。特に腹も立たなかった。斉田が来て以来、妙なライバル意識を向けられて辟易していたせいもあり、あっさり終わらせてくれたことに感謝の意すら覚えた。
 扉がギギギと音を立てて閉まるのを背中で聞きながら、従業員出入口から外に出ると、世界が全く違うように感じられた。三年間過ごした空間の扉が閉じられた。これからまた別の世界が始まっていく。古いものに別れを告げた、そんな感覚だった。カフェの休憩室内のロッカーにはもう、和貴の私物は一切残っていなかった。

 講義を受けるために教室へ向かうと、そこには仁の姿があった。「よおっす」と気の抜けた返事に和貴も「おはよ」と返す。席につくなり、仁が和貴に顔を近づけた。
「で、どうなったのよ。事の顛末は」
「決着はまだついてない。だけど、取り敢えず斉田さんと同じバイト先は辞めた。あそこの人間関係を滅茶苦茶にはしたくないから」
「そうか……。向こうが別れたくないって?」
「ああ」
「完全に事の発端は俺が相談に乗ったことだよな……。本当悪い。お前がそんなにヒューマノイドに入れ込んでいるとは思ってなくて。寧ろ、どこか鬱陶しげだったから違約金が発生しない期間まで押し入れにでも仕舞っておくつもりなのかと勝手に推測してさ……」
「いや、それでも最後は俺が決めて行動したんだ。斉田さんと付き合うことも。愛と向き合おうって思ったことも。それに伴って、斉田さんと別れるってことも。お前が誰かのキューピッドだったとしても、お前は火薬を播いただけで火をつけたわけじゃないよ」
「和貴……」
 仁は涙目になって和貴を見つめた。「気持ち悪いからやめろよ」と和貴が仁の顔を掌で覆い隠す。
「……もう、万に一つも美里ちゃんが付け入る隙はお前にはないんだな?和貴」
 和貴の手を顔面から引き剥がしながら最後の確認のように念を押して問う仁に、和貴は静かに、しかし明確な意志を持って頷いた。それに対し、仁はため息をついたかと思うと「和貴の考えはわかったよ。俺はもう何も言わねえ。お前が最低な悪役だろうとも、俺も共犯者になる。友っていうのはそういうもんだ」
「違う」
「え?」
「仁は俺の親友だ」
 仁は意表を突かれたように目を丸くしていたが、すぐにその眦を下げた。「まあ、そういうことにしておこう」と鷹揚に腕を組みながら満足そうにしていた。あまりにも頬に締まりがないので、そろそろ表情を引き締めろと注意しようかと思った時、和貴の隣の席に影が落ちた。ふと隣を見ると、斉田がいた。
「斉田さん……」
「和貴先輩、どうして急に苗字呼びなんですか?私、先輩の彼女なのに」
 周囲にも十分聞こえる声量で何食わぬ顔で言い張る彼女を見て、和貴は困ったような顔をした。その奥にいた仁も痛々しいものを見るような目で斉田を見た。
「あ、仁先輩。おはようございます!」
 ニコニコと笑う斉田はまるで別れ話などなかったかのようだ。もしかして俺は言いそびれたのだろうかと自分の記憶を和貴は疑ったが、そんなはずはないと思い直した。
(この状況はどうにかしなければならない。幸い、この講義後はすぐに昼食だ。昼を二人で食べて、その時に話を切り出そう。)
 心の中で立てた作戦を和貴は実行することにした。
「斉田さん、この後暇?よかったら、一緒にご飯食べない?」
「空いています。食べましょう!」
 よかったと安堵したのも束の間、「仁先輩も一緒に!」と付け加えられた。仁は「えっ!」とあからさまに迷惑そうな顔をしたが、そんな彼の表情にも斉田はどこ吹く風だ。
「俺は昼、ちょっと用事があるんだけど……」
「えー、どんな用事ですか?今日は委員会とかイベントごと、一切ないですし、そもそも仁先輩は何かの委員会に属しているわけではないですよね?サークル含め」
 先手必勝とばかりに斉田に詰られ、結局仁は誘いを断ることができなかった。仁が隣で「すまん」と小さく和貴に謝ったが、彼は気にするなと仁を慰めた。
(どうしても和貴と二人きりになりたくはないようだ。また別れ話をされることを察しているのだろう。この際、仁がいる前でも構わない。彼女ともう一度話をしよう。)
 そう心に決めた和貴だった。
 講義が終わり、三人で大学近くのカフェへ向かう。昼時なためそれなりに混んでいたが、すぐに入ることができた。全員日替わりランチを頼み、店員が去ったところで和貴が口を開こうとすると、斉田がさせないとばかりにマシンガントークを始める。和貴は仁と目を合わせ、今は諦めることにした。ランチが運ばれて来て食べ始めると、先に和貴が食べ終わった。斉田はまずいと思ったのか、食べる手を止めてひたすら喋り続ける。だが、喋り続けるにも限界がある。話すぎて喉が乾いたらしい彼女は水に口をつけた。その隙に、和貴が切り込む。
「斉田さん、前にも話したけど、俺たち別れようって。もう俺は君の彼氏じゃいられない。これ以上、最低野郎ではいられないんだよ。わかってほしい」
「……わかってほしいって何ですか?勝手すぎじゃないですか……!私の、この好きって気持ちはどうしてくれるんですか」
 怒りを抑えるかのように声を低くしながら言う斉田の両手は震えていた。
「勝手だということはわかっている。でも、これ以上俺が君を傷つけていい理由なんてないだろう」
「そうやって綺麗事並べて俺が悪いって言って、終わるとでも思っているんですか?」
 怒りが最頂点に達した斉田はバンッと持っていたフォークを叩きつけるようにして和貴を睨みつけた。彼はそれを真正面から受け止める。周囲は気づいているのか、気づいていないのか知らぬ振りを決め込んでいる。しかし、どことなく聞き耳を立てられているような感覚を三人とも感じていた。
「場所が悪い。美里ちゃん、それ、食べ終わったら出よう」
「もう要らないです」
 斉田はそう言うなり立ち上がると、伝票を持ってレジへ向かう。皮のカルトンに自分の代金だけを乗せてそのまま扉を出ていく。和貴が彼女か代金支払いどちらを優先すべきか考えていると、仁が側にやって来た。
「もうお前が何を言っても火に油を注ぐだけだ。ここは俺に任せろ。その代わり、支払いよろしく!」
 早口でそう言うなり、仁はカフェを飛び出した。
(あいつ……金がなかっただけだろう。)
 ほんの少しそんなことを思った和貴だったが、それは心の奥底に仕舞い込んだ。
「お会計はご一緒でよろしかったですか?」
 店員さんのその声で我に帰った和貴は「大丈夫です」と答えて仁の分も支払った。

 仁が前方を全速力で駆ける斉田の肩を掴み、スピードを落とさせると斉田が涙を浮かべながら振り返った。
「なんで……なんで仁先輩なんですか。どうして和貴先輩は来てくれないんですか……」
 仁はそれには答えず、ただ「みっともないね」と言った。その言葉に斉田の目がクワッと見開かれ、心底軽蔑するように憎悪の目で仁を睨みつけた。
「信じられない……!あなたが和貴先輩と上手くいくって言ったんでしょう?彼がヒューマノイドの恋人を無碍にしているから大丈夫だって。私の恋心を弄んだのね。和貴先輩はロボットに唆されていることを知っていたのに!そうよ。先輩は今、洗脳されているんだわ!」
「美里ちゃん!君は!」
 仁がここに来て初めて大声を張り上げた。その声量に自分を見失っていた斉田もビクッと肩を揺らして睨むのをやめた。
「君はもっと素敵だったはずだ……。和貴にヒューマノイドの恋人がいると知っていたのにも関わらず、俺が君の恋を応援したことは事実だ。それは認めるし、反省もしている。だけど、結末なんて結局誰にもわからないじゃないか。一瞬それらしく思えても分解したら本当は違ったなんてよくある話だ。シンプルなものを複雑に捉えているだけ。都合のいいように捉えているとも言う。……もう潮時だよ」
 斉田はそれを聞いて泣き崩れる。仁は彼女の背中を撫でて介抱する。「本当に嫌になるよね、この人間の自分勝手さ。傲慢さ。でも、これが人間なんだろうね。この業を背負って俺たちは生きていかなくちゃならない」

 その後、大学付近で斉田と小林が一緒に歩いている姿を和貴は見かけた。楽しげに歩いていく二人の手はしっかりと繋がれていた。あるべき鞘に収まったことに安堵した。彼女たちから目を離そうとしたところで、ちらりと斉田が和貴を見た気がした。
「和貴!講義、遅れるぞ」
 仁が遠くで和貴を呼んでいた。「今行く」と小走りで仁の元へ走っていこうとして、やはり最後に感じた視線を確かめようと後ろを振り返ったが、そこにはもう斉田たちの姿は見当たらなかった。


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