「フラジャイル 弱さからの出発」読書メモ9
以下、第4章「感性の背景」第4節「ハイパージェンダー」の抜粋や、読んで感じたことや考えたことである。
今回の節はゲイの話が中心だった。女性には縁遠い話のようにも感じるが、最後の抜粋にもあるように、「ゲイ・フラジリティ」を繊細に感じ取っていたのはむしろ女性が多かったという話が面白かった。内面化してしまっていることについて、人間というものは自覚的になりづらく、外側の人間の方がかえって価値を見出しやすいのかもしれない、と思った。
アメリカでホモセクシャリティが社会化してきたのは、第二次世界大戦の戦場で男たちが徹底した男同士の世界を体験したことによっている。(p.234)
という何気ない一文があったのだが、本当なのだろうか。ゲイ文化の始まりって戦争だったのか・・・。
ゲイの世界では「別世界(アザーズ)」といえばもともと男同士の世界をあらわしていた。(p.236)
しかし、もっと正確にいえば、“ある事情”とは自分の内側に棲む別人を求める旅を約束することでもある。カポーティが「ぼくの中には二人のちがった人間がいるようだ。一人はきわめて聡明で想像力に富む成熟した人間、もう一人は十四歳の少年だ」と言っていたことは、すでにこの章「感性の背景」第一節の冒頭に引用した。では、別人とは誰のことなのか。どんな男性にも多少はひそむ、あの少年時代にめざめていた仄かな同性への憧憬である。それは分身としての「半身」を請求したいという欲望からおこるものではなく、いわばあまりに希薄でよく見えない「半神」(あるいは両性具有としてのアンドロギュヌス)へのあこがれなのである。(p.256)
このような感情が男性の中には共通してあるということも知らなかった。ゲイ文化の根底には憧憬があるということなのか。
フランスが独特のゲイ感覚を育てた理由のひとつには、レズビアンの感覚がつねにパリを中心に広がっていたという事情もあった。(p.246)
アメリカのゲイ文化とは違う文脈で、フランスではゲイ文化が広がっていたということらしい。
「美女の容姿に、男の頭脳」と噂されたバーネー(p.247)
なんとなく、アンジェリーナ・ジョリーみたいな容姿を想像したが、実際、どんな人なのだろう・・・。
このようなフランス的ホモセクシャリティを代表する文学者は、なんといってもジャン・コクトーなのである。(p.248)
フランスは、男女とも同性愛文化が豊かに根付いているようである。
「僕はオリジナリティが大嫌いだ」(p.249)
これはコクトーの言葉だ。もっとその言葉の奥にある詳細を知りたいと感じたが、己の想像力に任せることにする。
両性具有の街パリに、コクトーが、ジャン・ジュネが、ロラン・バルトが、ミシェル・フーコーが生まれていったのである。(p.249)
エイズ発覚直前のゲイ思想の一端なら、渡辺守章らによって新たに編集されたフーコーの「同性愛と生存の美学」がわかりやすい。(p.249)
伝説的に名を残す人には、両性具有の人が多いということなのだろうか・・・。
ともかくもこうして、もはやカミングアウトをすることこそが流行で、自分がホモセクシャルであることあるいはバイセクシャルであることを堂々と表明することが、一種の「強い文化」のスタイルになっていったのだ。(p.254)
私はこうした「強い文化」としてのゲイ・カルチャーを否定しないが、本書のテーマにはふさわしくない。(p.254)
一方、日本では深い理由はわからないのだが、そもそも「強い文化」としてのゲイ・カルチャーよりも、なぜか「弱い文化」としての感覚が愛われていたようにおもわれる。(p.254)
私自身、「カミングアウト」「告白」といった、何か関係性や正体を決定づける言葉を発する行為が非常に苦手であるし、違和感が常につきまとう行為だと思っている。昔は、それは私が弱いからだとか、核心から逃げているからだとか、そういう風に卑下するようにとらえていたが、人間の存在という得体のしれないフラジリティに富む存在感に言及するときに、何か確定的な表現をすることはむしろ必ずズレを生むのだろうし、だから弱いわけでも核心から逃げているわけでもなく、本能的におかしさに気づいていた自分を誇りたいと今は思う。「強い文化」は苦手だ。それが好きな人は勝手にすればいいけど、他人に強要するのはくれぐれもよしてほしいと願う。
モノセクシャルな感覚(p.254)
検索をかけても、モノセクシャルという言葉を解説する日本語ウェブページは出てこない。ウィキペディアの英語ページの日本語訳をみる限りでは、異性愛者・同性愛者に関わらず、ひとつのどちらかの性を愛する性のことで、バイセクシャルやパンセクシャルと区別するための用語なのかな・・・。
日本がこのような「弱い文化」あるいは「美しい存在感覚」としてのホモセクシャリティに関心をもった背景には、男性だけが演じる歌舞伎と女性だけが演じる宝塚歌劇という世界でもめずらしい両性両極の芸能文化が現代の日々の中に共存して生きているということが特筆できるかもしれない。この奇妙な虚構の領域ではハイパージェンダーだけがリアリティなのである。(p.255)
私は、あえてこの感覚の起源を求めるなら、もともとは仏教と謡曲と浮世絵のなかにあったものだとおもっている。(p255)
しかしその背景には、中世このかたの稚児愛の感覚、江戸時代では衆道とよばれた男色の感覚、大奥や遊郭にみられた女たちの戯れの感覚、さらには次章でのべる任侠の感覚などが、なんとも混然一体となって脈打っていたことも忘れてはならない。(p.255)
日本文化は面白いなと思った。何か、他の海外の性文化とは一線を画しているような感じがする。ふりきっているというか。違うもの(性)になることを面白がる文化、理解を深めようとする文化があるのかな。
以上、稲垣足穂によるA感覚への招待を嚆矢に、欧米の主要なゲイ文学をひろいながら綴ってきたことは、人間の強さと弱さの本質的な逆転というものが、ならびに最深部における生と性の現象というものが、プラトンからフーコーにおよぶ(そして同時にサッフォーからナブラチロワにおよぶ)ホモセクシャリティの歴史の内側に、あきらかにひそんでいると確信できるからである。(p.257-258)
「人間の強さと弱さの本質的な逆転」とは非常に惹きこまれる表現ではあるものの、よく意味はわからない。頭の片隅に置いておこう。
ここでふれたかったことはただひとつ、人間の奥にはきっと「ゲイ・フラジリティ」ともいうべきたいせつな感覚領域がひそんでいるはずだということである。(p.258)
フーコーの言うように、ゲイ・フラジリティは生の様式を拡張するための戦線のひとつなのである。(p.258)
ゲイ・フラジリティの機微について、私はかなり疎いと思うが、この本を読んだことを契機として、興味を持ち始めてみたいと思う。
能に流れる少年愛のゆらめきを最初に本格的に綴りえたのが白洲正子であったこと、萩尾望都らの少女漫画家たちがまっさきにゲイ・フラジリティを独特の表現力でストーリー化できたこと、森茉莉、倉橋由美子、矢川澄子、中島梓、中野翠、松浦理英子、笙野頼子、小谷真理らのまなざしにはときにハイパージェンダーを従来にない感覚で哲学化する方向があること、あるいはゲイ文学の紹介にすぐれた方針を見せたのは柿沼瑛子や栗原知代らの仕事であったことなどなど、なぜか女性こそがすぐれてゲイの感覚を一足先に見抜いてきたからだ。(p.258-259)
冒頭で述べたように、女性が女性であればあるほど、全く異なる男性という存在の魅力の本質にかえって迫ることができるのかもしれない。
しかし、いまなお同性愛が激しく蔑まれ、あるいは男色や女装をたんなる特殊な風俗とみなすという社会もまだたくさん残っているのも事実なのである。仮に本気でゲイ感覚が議論されるばあいでも、そこにネオテニーの問題から免疫の問題まで、言語論の問題から皮膚自我の問題まで、人種や性差(ジェンダー)の問題から衣装や化粧の問題まで、すべてが同じレベルの問題として同時に議論されるには、まだまだ時間がかかりそうなのだ。(p.260)
全くこのようなレベルの議論には世間はなっていないし、私自身もこのような意識レベルには全く到達していない。しかし、人間理解にとって重要な鍵を握っているような話だと感じたので、これからは注意を向けていきたいと思う。
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