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「フラジャイル 弱さからの出発」読書メモ10

以下、第5章「異例の伝説」第1節「欠けた王」の抜粋や、そこから感じたこと・考えたことである。

シャミッソーの『影をなくした男』のペーター・シュレミールは、ファウスト同様に、悪魔との取引で金貨と交換に自分の影を売ってしまっていた。(p.265)

この節では、様々な身体部位の欠落の事例が登場するのであるが、「影を自ら売ってしまった」というエピソードの物語の事例は非常に目を惹いた。生老病死が病院や介護施設、葬式場といった各施設の専門家に任され、合理化が進められた現代社会の中で、目立つのは、「生きること」「健康であること」「活躍すること」のような光や陽の部分ばかりで非常にまぶしく、しかしそれでいて何か空しいような時代となった。生老病死のような、合理的な価値観からすると厄介なものはその道の専門家に処理され、一般市民は忌み嫌うような傾向が強くなってしまった。上の抜粋文は、そんな傾向を見事に比喩しているような気もする。

スティグマはもともとは牛や奴隷に焼きつけられた刻印や烙印をさすギリシア語で、その後は、カトリック社会ではキリストが礫刑でうけた両手・両足・脇腹・額の傷とほぼ同様の傷があらわれたとき、これを特別にスティグマとよんでいた(最も有名なのはアッシジのフランチェスコのスティグマだ)。ただし、その傷はなんらかの外因外傷によるものではなく、体の内側から生じた不思議な兆候のことをさしていた。(p.266)

スティグマという言葉は最近、よく聴くようになった言葉であるが、どうも腑に落ちないわかりにくい言葉である。日本語では差別や偏見と訳されるらしく、上の抜粋文から考えると、何か本来の意味から変わってきているような気もする。差別や偏見ならば、外発的な要因から生まれる傷のように感じられるし、しかし、上の文では内側から生じた、という記載がある。内発的に生まれたなんらかの傷に対して、外発的にダメ押しをして傷をさらにネガティブな方向に深くしてしまう行為のことをスティグマというのかな?

一目小僧を論じた柳田国男は、不具であることは神の依坐(よりまし)であることの証拠であり、神との仲介をとれる者の資格のしるしだと考えた。(p.267)
弱点の相転移(p.267)
この、弱小の者が強大な者にしだいに転化するという経緯には、たいていイニシエーション(通過儀礼)がともなっていることも見逃せない。(p.268)
かれら英雄は何かを失わなければ何かを手に入れることは不可能だったのだ。(p.268)

以上は、「弱点の相転移」「欠落による獲得」に関する記述である。神話をはじめとする様々な物語で、このような類似する展開の記述があると書かれている。しかし、そのような物語が強く語り継がれる時代背景には、以下のような歴史的事実があったのではないか、とつづく。

一方では、そのような派手な経緯をもてず弱点や欠陥がそのまま強調され、周囲から誇張されて、ついに時代の敗北者や除外者にさせられていった人々の物語も、また数多くあった。(p.269)

歴史に名を残すことなく、ただひたすらに苦しみつづけて生涯を閉じた無名の排除された人々の存在、その人たちの怨念が、神話や物語に盛り込まれる背景にあるのではないか、と。

もっとわかりやすくいえば、支配のためにも、また排除のためにも、われわれの歴史には「弱さ」というものを極端に重視してきた裏側の眼というものがあり、その長きにわたる陰影の濃い歴史には、「弱い不浄」(ケガレ)を強い浄」(キヨメ)に転じるためのおびただしいしくみが隠されていただろうということである。排除の構造はどこかで逆転して聖化の構造にもなりえたということだ。(p.270)
さらに興味深いことに、そのような裏側の眼が見つめた歴史というものは、洋の東西を問わず、おおむね語り部たちの努力によって比類のない物語としてのこされてきたということである。(p.270)
多くの語り部たち不具者であったのである。(p.271)

語り部たちが不具者であったという事実があるならば、ますます、裏側の眼によって神話が紡ぎだされてきたことは濃厚な事実と言えるだろう。

癩病は非人の中でも最も不浄なものとみなされたのである。(p.278)
今日、歴史学がほぼ確認している中世社会の身分構成では、貴種、司・侍、百姓、下人という四段階のさらに下に非人があてられている。(p.278)

とにかく人類の差別の歴史は長く根深いのだなと改めて思う。それは単純なスローガンだけで克服できることではなく、無意識レベルのことに寄り添う繊細さ、アイディアが必要なことなのではないかと思う。

さきにのべた謡曲や説経節の弱法師の物語が清水観音に祈願している場面を入れている意味は、当時の社会構造を見るにはすこぶる重大な意味をもってくる。(p.279)
一方、ふたたび『今昔物語』のいくつかの物語によると、全身が皮膚病に冒されているような者が観音菩薩や文珠菩薩の化人・化身とみなされていたり、そうした者たちに施しをするときは、下馬したり一礼をしたりするという一種の儀礼があった。(p.279)
癩病や不具者に施しをすることが、じつは当時の人々が観音の慈悲や文殊の知恵にふれられる大きな契機でもあったということなのだ。(p.280)

弱さと真に向き合うことは、人間が人間らしくなる為に必要なことなのかも。

世界各地の神話にはかなり奇妙な足にまつわる伝説や異常な足に関連する昔話が数多くふくまれている。(p.282-283)

なぜ、足、なのだろう···?

ヒルコはイザナギとイザナミの両神が交合に失敗して生んだ最初の子である。(p.286)

日本の数々の神話にも、こうしたエピソードが盛り込まれているとのことだ。

このエビスをふくむいわゆる七福神は、腹が出ていたり頭が長すぎたりするような、いずれもが奇形を特徴とするフラジャイルな神々である。(p.287)

幸せを呼び込む象徴のような七福神が、奇形だったことに全くこれまで気づいてこなかった。面白いな。

案山子が足の萎えたシンボリズムを担っていることには変わりない。(p.288)

案山子が片足であることにも何か深い意味があったのか···。

動けないこと、動けないほど弱っていること、また、さまざまな場所を遍歴巡行してついにどこかへ辿りつき、いまはただそれまでの出来事をおもいめぐらしているということは、きっとわれわれの思索の起源のありかたを示唆しているはずである。(p.288-289)
私は、人間の存在の歴史というものは、どこかに「出遊」しようとしている者の歴史であり、逆にどこかから来訪してきた者から彼の地の「物語」をたずねようとしている者の歴史であるとみなしている。(p.289)

動きまわることと、不動なことと。どちらにも大きな意味があるのか。

以上、抜粋と、そこから感じたことや考えたことを綴ってきた。

強いこと、弱いこと、動くこと、動かないこと、あらゆることに意味があるのだなと。
私自身、いじめられたり差別された経験があり、病気で動けなくなった経験があり、だからこの節は特に自分を重ねて読み進めることができた。

中学生くらいのときとか、自分だけが不幸で孤独なように思っていたけど、歴史は人間の不遇をちゃんと語り継いできていたんだな。そう考えると、学校の歴史の授業は、あまりに上流階級の権力闘争の話に依りすぎだろうと思った。大事なことを語り部が伝える努力をしてきているのに、学校の歴史の授業は政治的な話ばかりだ。差別の歴史をもっと取り扱えば、学校で起こるいじめの現象と結びつけて伝えられるし、生きた授業を展開できそうな気がする。






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