父の生い立ちを探る1

私の父 近藤國彦は大正15年7月に函館市住吉町に生まれた。
父の生家があった場所は、今では、落ち着いた住宅街の一角にある。今は一部が駐車場になっているが、近藤家の分家であった國彦の父、百松の地所を合わせるとかなり大きな屋敷である。函館港にある有名な観光スポットのひとつである金森レンガ倉庫群までは住吉町から徒歩で30分くらいの距離にあり、実家が営んでいた近藤商店は金森倉庫を使っていた大きな商店であったと父から聞いたことがある。
実際に現地船場町で調べてみると、商店は金森倉庫の並びで、日本郵船の倉庫の脇にあり、現在は旧茶屋亭と呼ばれる喫茶店になっている建物として一部が保存されていることがわかった。

住居があった住吉町は、函館の地図を見るとよくわかるのだが、函館の夜景で有名な函館山の東側の麓にあり、海に面した漁港のある町である。町の南の方には立待岬があり、天気が良い日にはマグロ漁で有名な青森の大間が見える。函館駅からは車で10分も掛からない距離にあり、近くには谷地頭温泉があるエリアであり、元は富豪の別荘であった家だと聞く。父の祖父の孫三郎が、融資の担保として差し出されていた家を回収して住まいにしたようである。

住吉地区にも漁港は存在するのだが、青函連絡船(現在は津軽海峡フェリー)などの大きな船は、住吉からは見れず、北に上がり函館駅よりも更に北に上がった函館港に行かなければ見ることはできないが、函館港から大間に向かうフェリーも運行されていて、こちらは住吉からも見える。いずれにしても、函館は長い間、本州から渡る人々を迎える玄関であったし、北海道新幹線が運行し始めてもその役割は残っている。
その函館の地で、新潟から移り住んだ國彦の祖父孫三郎が商売を始めたのは、まだ明治時代だった。

祖父百松や曾祖父孫三郎のことは、改めて別の項で詳しく述べるが、ともに新潟の出身である。生まれた新潟から函館に渡り、函館で近藤商店を始めた近藤孫三郎のニ女の近ハルと、新潟から函館に渡って近藤商店に勤め、ハルの婿養子に入った青木百松との間の三男として父は生を受けた。
西暦でいえば1926年、大正15年の夏の事だった。その年の年末に大正天皇が崩御され、元号が大正から昭和元年に変わった年である。

父は、干支でいえば丙寅( ひのえとら)、十二支では寅の年生まれで、血液型はO型。私からみた父の性格は、器用になんでもこなし、始めるととことん極める人で、器用で多趣味、多才な人であった。物事ついてからの父は、商家に生まれたものの、音楽が好きで作曲家になりたいと思っていたようだが、「音楽など男子の仕事ではない」と説得されて断念したという。


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