近藤4代

近藤4代

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商船学校卒業後

商船学校卒業後 卒業後の人生も父は記述を残している。 「結局青函連絡船に乗ることにして帰還した。ところが暖かい清水に慣れた体は厳しい函館の冬に適応しにくくなっていた。厚い敷布団2枚の上に二つ折りにした掛け布団を挟んでようやく凌げる厳しい環境に仰天した。 『南にゆくほど運が開ける。北はダメ』と教えた占い師の助言を思い出した。幸か不幸か( 青函連絡船への)乗船(入社)許可の通知はなかなか来なかった。洞爺丸の遭難で東京にゆくことを決めた。父(百松)はしょうがないと諦めていたようだ

    • 父と商船学校

      父は函館で幼少期を過ごしたが、中学を卒業すると、太平洋戦争終戦を迎える直前の1945年( 昭和20年)4月に清水高等商船学校に入学する。卒業証明書を見ると1949年(昭和24年)に商船大学高等商船学校( 現在の東京海洋大学)の清水本校機関科を卒業している。 商船学校への進学の理由に関して、父の記述に次のようなものがある。 「当時は太平洋戦争の真っ只中であり常に死を意識して生活していた。新潟高校の理三を捨てて高等商船に決めたのも打算が働いていた。どうせ死ぬなら予備少尉の肩章が

      • 父の生い立ちを探る 2

        父は函館で一代で財を成した近藤孫三郎の孫だったが、分家筋の孫だった。当時、本家は合資会社近藤という海産物を商う問屋を営んでいて、函館船場町の煉瓦倉庫街に店舗を所有するような大きな商家のひとつだった。父は商家の分家筋の三男に生まれたお坊ちゃんとして育つのだが、父が幼い頃に生母を亡くしたため母の面影は写真の中にしかなく、寂しい思いをしたと語っている。 合資会社近藤では既に本家筋の継承者が孫三郎の三男の彦作に決まっており、父は家業の商家を継ぐ必要はなかったが、一族の商売につながる

        • 父の生い立ちを探る1

          私の父 近藤國彦は大正15年7月に函館市住吉町に生まれた。 父の生家があった場所は、今では、落ち着いた住宅街の一角にある。今は一部が駐車場になっているが、近藤家の分家であった國彦の父、百松の地所を合わせるとかなり大きな屋敷である。函館港にある有名な観光スポットのひとつである金森レンガ倉庫群までは住吉町から徒歩で30分くらいの距離にあり、実家が営んでいた近藤商店は金森倉庫を使っていた大きな商店であったと父から聞いたことがある。 実際に現地船場町で調べてみると、商店は金森倉庫の並

        商船学校卒業後

          はじめに

          この文章は、父近藤國彦の供養のために彼の人生を振り返ろうとして、実は彼の人生を何も知らなかった彼の長男である私からのレクイエムであり、祖先の歴史について調べた一つのファミリーヒストリーである。  父は、自の健康論を展開した「がん治療の闇を拓く」(KKロングセラーズ )と言う本を残しているが、自分自身の先祖や生い立ちや人生に関する記述は殆ど残していなかった。 父の死後、子孫のための記録を残してやろうと思い立ち、書き始めてはみたのだが父の兄弟も亡くなり、親族の世代交代が進んだ状

          はじめに