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”絆”頼みは、神頼み。(阪神、SPYxFAMILY、参政党)

絆(きずな)。東日本大震災の後、良く聞かれるようになったフレーズだ。『東北地方を中心に、家族や地域の繋がりがしっかりしていたからこそ、この被害で収まった』などとも言われていた。
確かにそうかもしれない。首都圏や京阪神圏などに比べ、そばに住む人、働く人同士の連携が成り立ったケースは多かっただろう。
それでも私は、絆、絆と、連呼される風潮に疑問を感じていた。

以下、執筆途中ですが、公開してしまいます。

被災地。女子高生の本音

震災があった2011年の9月。筆者は、宮城県沿岸部のある町で地域おこしイベントを運営すべく、当時の勤務先から派遣された。会場となった公民館では、紙細工作りコーナーを受け持った。敬老の日向けにメッセージも書ける仕様になっている。

子どもたちに混ざって、女子高生の二人連れがやってきた。
ほどなくして一人の子が、震災直後から同居の祖母が痴ほう症になり、徘徊が続いて困っていると語りだした。どうにもならさをぼやき続けた挙句、彼女は、
「おばあちゃん、死んで」とつぶやいた。

私は、彼女の気持ちを否定することなく、穏健な聞き手に徹した。
作った紙細工は、祖母にあげるのだろうか。
しぜんと現実に戻ったのか、彼女は何事もなかったような表情で会場を後にした。

被災地域のご老人が、急に痴呆症を発するケースは良く見られたらしい。
職場の先輩のお母様もそうで、沿岸の漁師町から避難後、仙台市内の住宅街にあるお姉様の家に移った途端に変わったという。
ただでさえ、高齢になってからの環境変化への対応は難しい。それが長らく住んできた町ごとなくなる事態になれば、これまでの記憶と実際に見聞きする風景の落差についていけるはずもない。

先ほどの女子高生のおばあ様や、先輩のお母様に、いたく同情する一方、お世話をする義務が生じたご家族の苦しみもまた計り知れない。
義務の理由が「絆」であれば、なおさらだ。

「絆」は、束縛やしがらみの意味から始まった。

「本当に”絆”は幸せだけをもたらすものか?」
10年来モヤモヤとしていたところ、知人の著書に「絆は断つもの、縁は繋ぐもの」との引用があって、なんとなく晴れてきた。

あらためて「絆」の語義を調べると、家畜をつないでおく綱のことを指したそうだ。要は、強制的なつながり、束縛を伴う関係の意味になる。
転じて、家族として同居している、同じ地域に住んでいるなどの条件下においては、束縛すらある互助機能が発生した。「絆」のもとでは、たとえ一方がサイコパス的な厄介者だったとしても、人間関係を断つことは許されない。たとえ共倒れになっても、相互扶養の義務が発生した。

「絆」は、自分が求めても求められるものではない。特に地域や家族については、生まれながらの運も必要だ。
また、勤め人で言う職場の「絆」は、語弊を恐れずに言うなら『社畜』との表現があるように、本来の意味により近い。自らを使おうとする者の意図で作られたコミュニティを、存立の絶対条件としている。決して、当事者の意思だけで得られる「縁」ではない。

参考:かつて「絆」はいい意味の語ではなかった

絆を避ける人、望む人

この日本で、単身世帯が増えたのは、まさに「絆」発想を神聖化し過ぎたからではないかと思っているの
口にこそ出さないが、同居者との「絆」を周囲から強要されるデメリットを感じた人も多いのではないだろうか。日本社会特有の重さを避けたがる人は少なくないはずだ。いちど家族を名乗れば、あるいは同居すれば、まず身内で助け合え!と暗黙のうちに強要されかねない。家族ごと社会的孤立の可能性さえある。
行政の統計やテレビの視聴率は、いまだに”世帯”で計算されている。さすがに「お茶の間の皆さん~」などと、家族全員が同じ時間にテレビを見ている前提などは消えつつあるが、依然として、家族単位で同一行動をとるのが当然との認識は強い。

もちろん、家族の「絆」にはメリットは多々ある。急に体が動かなくなったり心が失調することもあるだろう。無条件に助け合える相手がいるのは心強い。
自ら「絆」を避ける人はいいが、意図せず「絆」を得られなかった人はどうするのだろうか。
相互依存のベースを、ゆるやかな「縁」に始まるコミュニティとするか、疑似的にでも「絆」を求めるかでは、大きな違いが出てくる。

参考:「絆」の二面性-“つながり”のあり方問う「互助」と「束縛」

ファンは、新たな「絆」の形?

コロナ禍以降の筆者は、配信動画を見る時間が増えた。特に、日本プロ野球全般と、アイドルの一部に関しては、そこそこの評論ができるまでになった。
特にプロ野球ファンに関しては、『○○に住んでいるから、当然○○ファン』の図式が成立しやすく、”絆”的な関係となりやすい。阪神ファンのおひざ元、西宮市の今津とか武庫川の河口あたりや、尼崎の海側で巨人ファンを公言しようものなら、確実に待遇が悪くなる。地域コミュニティを拒絶したような扱いを受けるわけだが、大阪市内とか京都府内までくるとそうでもない。いちおうタイガースファンでもある私でさえ、同チームが大阪府を本拠地としなくて良かったと思っている。

一部のファンが、阪神タイガースを弱らせた?
その阪神タイガースファンの一部には、愚かにも選手のコンディションを妨害する方がいるという。
シーズン中でも若手選手を酒宴に招いては、調整の邪魔をするそうだ。
プロ野球選手は、ファン第一としている以上、一定の実績がなければ後援会などの頼みを断るのは難しい。そこへきて、関西的な『○○選手は、地元のツレみたいなもんや~』と自慢したい、小金持ちのオッサンがいればどうだろう。断るだけでも、神経がすり減らされる。

以上のことが本当なら、阪神タイガースは、40年近く日本一から遠ざかっている原因の一つかもしれない。
ごく一部のベテランを除いては、契約先をくじで決めるドラフト会議を経ており、”縁”でタイガースに入って入っている。後援会のオヤジどもに”絆”と勘違いされ、酒席を強要されてはたまったものではない。
もしそういう実態をみかけたなら、酒席を止められなくとも、強要した親父と疎遠にするなり、何らかの制裁を加えるぐらいがいいだろう。

自助、共助、公助と来るのは正しいけれど・・

菅義偉首相の発言で、話題になったフレーズだが順番は間違っていない。が、自助共助でどうにもならない状態に陥った人なら、不快感を覚えただろう。
ただし、色々試したがどうにもならない人は、もともと公助を受けて当然と当てにしている人を、同列には扱いたくない。様々な補助金の類が、書類にまみれているのは、公助を受けるだけを目的とする輩を出来うる限り排除するための仕掛けと言っていい。平時なら、書類が厳格なぐらいでちょうどいいと私は思っている。

”きずな”を持ち出した新政党

先日行われた参議院選挙。参政党が、新しく議席を得た。
同党は、鬼滅の刃を意識したのか「10の柱」と称する重点政策を出している。その、一の柱に、『人のきずなと生きがいを安心して追求できる”社会づくり”』としている。さらに詳細を読むと、第一項目に『国民と国家(政府、官)との間に、国民自らが喜んで参加する日本型のコミュニティが存在し、各人の様々なニーズに応えてくれる社会へ。』とあった。
なるほど、国家との”絆”をつくろうとしているのだろうか。戦時中の隣組を思い出させるのは、私だけだろうか。

さらに同党は、オーガニック志向をもつ保守勢力という、日本にとっては新しい組み合わせもあって、票を集められたと考えられる。
だが、海外に似た例があったらしい。
国家社会主義ドイツ労働者党いわゆるナチスだ。
ドイツ中心(絶対)主義を掲げる一方、自然保護や動物愛護を心がける。現代人から見ても新しい?組み合わせで、既存の政党が拾えなかった票をかき集め、成長した。

参政党の中心人物は、唯一の議席を得た神谷宗幣氏である。
同氏が以前から主宰するYouTubeチャンネルをみると、オーガニックや環境について語りだしたのは、今年に入ってからだ。それ以前は日本独立志向な話や歴史や伝統について扱うコンテンツばかりが並んでいる。神谷氏本人が、環境志向ではなかったことは想像に難くない。
もしかすると、100年前のドイツに学んで、政策の組み合わせで新しさを出したのだろうか。あくまで想像の域を出ない。

SPYxFAMILYが受ける理由

ナチス終焉後、東西分立時代のドイツをモチーフに描かれた漫画が、「
SPY×FAMILY」である。
西のスパイが東の要人の意図を確かめるべく、疑似家族を築いて、孤児院で拾った娘を、名門校に送り込むというストーリーだ。

すでに人気が出ているので細かくは触れないが、この漫画には(本当の)家庭風景が描かれていない。
特に登場人物は、家族運の薄い設定ばかりだ。
孤児院出身の娘役”アーニャ”に限らず、主人公のスパイ”黄昏”で父役の(ロイド)は戦災で家族を失っており、暗殺者”いばら姫”で母役の(ヨル)は両親を早くに亡くして弟を育てた設定だ。東の要人で元首相の”ドノバン・デズモンド”と、その次男でアーニャのクラスメイト”ダミアン・デズモンド”も、関係性は極めて希薄で、妻かつ母は、連載65回目でやっと出てきたぐらいだ。
それぞれの登場人物の地元の話なども、出てこない。
徹底して、”絆”の話題が遠ざけられている。

私は、そこが、人気の源だとにらんでいる。
家族、すなわち絆を持たねばならない~圧力を、嫌う人が増えているのではないだろうか。
結婚式、持ち家、マイカーに、教育費。昭和平成の記憶というか、いまだにお金をかけて家族を持つべきという風潮を押し付けられる。そのこともあって、所帯を持ちづらい人々はたくさんいる。そもそも持ちたくない人も多い。

・・・そもそも、お金で「絆」を、える?状況が異常だったのだ。
1960年代から2010年代と、せいぜい五十年ほどの常識とはいえ、経路依存というか、慣習を変えるのは簡単ではない。迷惑千万なことに、経済成長が当然!な親が追いかけてくることさえある。東北の女子高生じゃないけど、「お父さん、お母さん、死んで(だったら子どもを持てる)」みたいな事例は多々あるだろう。

私は、せめても防波堤になっているつもりだが、山本七平の言葉を借りると”未来確定信仰”な方がまだ減らない。
先輩方いや私の同世代を含め、自分たちの頃はこうやって幸せだったとの語りを止めていただきたい。
思い出話や過去の事例としてなら良いが、それでも『今は違うよ』の但し書きをつけることを強くお勧めする。

親ガチャ、絆の有無。

若者が「親ガチャ」といっているのは、絆の面において、全面的に正しい。絆は、持って生まれたものか長年の実績かのいずれかであって、若いうちの努力で築けるものではない。

絆がなければ、まず縁から始めて何らかのコミュニティと繋がっていけばいいのだが、どこか諦めている人が増えた気がする。
冷たい言い方にはなるが、物足りなさなど喪失感から消費喚起をするのが、長年のマーケティングというか大資本の手法だ。少し手が届くところに置いておいて、お金を出させるぐらいならいい。

だが、最近は、絆アリと絆ナシの差が、大きく開いた感がある。
「絆アリ」サイドがテレビなどの既存マスコミで、「絆ナシ」サイドが一代成り上がりのYouTuberや中高生から始められるTikTokerと考えればわかりやすい。利用メディアの面でも分断が進んでいる。
その大きく開いたところに、SNSだけでなくオンラインゲームをふくめたネットコミュニティが参入して、さらに宗教もビジネスチャンスを得たといえる。

絆頼みは神頼み

世襲の政治家、代々の地主などが嫌われるのは、親からの絆で得た有形無形の資産だけで食べていけるからだ。
もちろん、絆を生かして社会の役に立つ方は少なくない。森ビルのように、土地とは切っても切れぬ地主の立場で自ら都市開発を進めた事例もあるし、絆のうえに胡坐をかいている人だけではないのは確かだ。それでも、絆だけで食べていける人が目立ってしまう傾向は避けられない。

裏返せば、絆がなければ生きていけない人々だ。先代・先々代からのルールを守らねば、自分を生かしてくれる装置が壊れるかもしれない可哀そうな人達だったりする。

「絆アリ」な人を羨む時間などもったいない。神頼みでしかない。
それでも人恋しいなら、SPYxFAMILYのように、疑似家族からでいいのでないか。シェアハウスでいいのではないか。
あくまで「縁」だから、当事者の努力や工夫で何とかなる。やがて、ほんとうに「絆」となるかもしれない。

自分でどうにもできないことに賭けるより、よっぽど健全だし、未来がある。

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SDGs的なことを書いていると思いきや、情報社会関連、大学でも教えているボランティア活動などを書き連ねます。斜め視点な政治経済文化評論も書…

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