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エッセイ♯1『免許の更新』

 10月下旬の正午。雨がしとしと降っている。秋とはいえその寒さはさすがに骨身に堪える。
 冬将軍さんよ、出陣がいささか早すぎやしないか?私は10月とは思えない厚着で身を包み、将軍との戦いに備えた。

 なぜそんなに寒い日に外出するのかと疑問に思う読者もおられることだろう。なんてことはない。自動車免許の更新手続きのためである。今日しか時間が作れなかったのだ。

 たかが免許のためだけに、私の貴重な午後の時間を無下にするのは忍びない。普段、車を運転しないのでなおさらだ。
 では、なぜそんなことのために貴重な時間を食わせてしまうのか。
 若い読者ならいたく共感してくれるであろうが、運転免許証は身分証として絶大な威力を発揮する。お酒やタバコを買おうとすれば、店員から「身分確認できるものをお持ちですか」と陳腐な定型文をくらう。そんなときは、水戸黄門の印籠よろしく、運転免許証を突きつけてやる。
 いろんな局面で身分確認がついてまわる昨今、身分証として運転免許証を持っておくのは何かと都合がいいのだ。
 また、大学一回生のころ、自動車学校に足繁く通い、三十万円と六ヶ月を費やしてようやく手にした努力の勲章をみすみす手離せば、当時の自分から悪口雑言のかぎりを尽くして罵倒されるのがオチであるから、嫌々ながらも鉛のように重い足を何とか持ち上げて向かっているのである。

 免許センターは人でごった返していた。
 金曜日の昼であるため人はそんなに多くなかろうと高を括っていた昨晩の自分を蹴り飛ばしてやりたい。影分身の術が使えれば、今にでも分身して自分の尻を蹴り上げるのに。と現実を悔いたがどうしようもない。私は自分の頬を軽く叩くことでやりきれない気持ちをなんとか鎮めた。
 そして「平日の真っ昼間からなぜこんなにも人がいるのか。なんと暇人の多いことよ」と不満の矛先を外に向け自分のことは棚に上げて列に並んだ。

 免許更新のメーンイベントといえば講習である。二時間ほど椅子に縛り付けられ、教官だか、先生だか、肩書きがおよそ不明瞭な人のありがたい話を、耳をかっぽじって拝聴せねばならない。まさに生き地獄。
 しかし幸運なことに、私は人の話を聞くという大人であればできて当然の行為には腕に覚えがあった。

 講習が始まり多くの人が夢の世界へと誘われる中、私は誰だかわからない人の話をうんうんと頷きながらじっと拝聴していた。

 講習の中では、生々しい映像を目にする瞬間もあった。中でも、焼印のごとく脳裏に刻まれているのは、交通事故により「遷延性意識障害」を患った人の姿である。慣習的には「植物状態」というらしい。これには私も耳を塞ぎたくなった。
 しかし、このようなことを知ることの出来る機会は滅多にない。私はご縁に感謝して、己が目ん玉を生々しく痛々しい映像に縛り付けた。

 そうした講習が一通り終了しようやく私は帰路についた。ふと前を見ると、私と苦楽をともにした男が歩いている。
 彼は何を思っているのだろうと思った瞬間の出来事だった。彼が横断歩道を赤信号で渡ったのだ。
 私は衝撃のあまり絶句した。いや、もとから喋ってなどいなかったのだが。そんなことはどうでもいい。つい数十分前に交通ルールなるものを学んでいた者が、こんな浅はかな行動に及ぶと誰が想像できたであろう。あろうことか、免許センターの前で。

 そこから私はいろいろなことに思いを馳せた。「言った側からルールを遵守できないようでは、講習など無意味ではないか」「彼に僅かでもルールを守ろうという気持ちはないのか」など義憤に駆られ、内心で彼を罵倒し尽くした。

 とはいえそんなことを考えていてもしょうがないと思いつつ歩いていると、私の進路の歩行者用信号機が真紅に染め上げられていることに気がついた。
 歩みを止めることが億劫だった私は迂回しようと横断歩道手前で右折した。そして、その道のすぐ先を左折するために車道を斜めに横断した。
 はっと我にかえる。
 「私がやっていることは彼と同じことではないか。いや、待て。私が左折しようとした交差点には横断歩道がない。私がしたことは断じてあの愚公と同等ではない!」と自身を正当化してみるものの罪悪感は拭えない。振り払おうにも陰影のごとく私にぴたりとついてくる。
 私も有象無象のひとりなのか。私の自分に対する自負心が夜空に打ち上がった花火のように綺麗に弾け飛ぶ。同時に、以前見たドラマの「自分も底辺の醜いゴミクズの一匹であることを自覚しろ」というセリフが頭にこだまする。

 私はそこで思考を放棄した。

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