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エッセイ#6『対人恐怖症』
みなさんは誰もを信用することができなくなった時期がおありだろうか。僕にはある。
一度相手が信用できなくなると、
突如としてそれが肉の塊で人の形をかたどった不気味な生き物に見えてくる。
その刹那に拳銃を取り出し僕の胸に突きつけその引き金をひき、
誰もが持つ言葉という銃弾で僕の心を撃ち抜いて殺すのではないかと恐れ慄く。
そして、僕が突っ伏したのを見て歓喜の声を上げるのではないかと想像してしまう。
それほどまでに人が人として見えなくなった時期がある。
よく自分が見ている世界は自分の思考の反映だという人がいる。
つまり。
人が信用できないのは、僕が人を信用しようとしていないからだ、と。
人は見たいように見、聞きたいように聞き、信じたいように信じるのだ、と。
しかし。
世界が危険に満ち満ちていると感じるのは、僕にとって揺るぎない事実なのだ。
その原因が自分の外にあろうと内にあろうと、負った傷に変わりはない。
痛いものは痛いのだ。
大人が膝を擦りむいた子どもに対して
「痛いと思うから痛いのだ」と言うことのどれだけ愚かなことか。
その痛みはその子にとっての真実であり絶対なのだ。
おまえのものさしで他人を測るんじゃない。
話を戻そう。
漱石は言った。
「しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。
そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。
平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。
それが、いざという間際に、急に変るんだから恐ろしいのです。
だから油断ができないのです」
と。
太宰は言った。
「ふだんは、その本性を隠しているようですけれども
何かの機会に、たとえば、牛が草原でおっとりした形で寝ていて、
突如、尻尾でピシッと腹の虻を打ち殺すみたいに、
不意におそろしい人間の正体を、怒りに依って暴露するのを見て、
自分はいつも髪の逆立つほどの戦慄を覚え、
この本性もまた人間の生きて行く資格の一つなのかもしれないと思えば、
ほとんど自分に絶望を感じるのでした」
と。
少なくとも、近代日本の文豪たちも、
人間の本性とやらが見えないことにビクついていたらしい。
彼らの懊悩している姿を見たとき僕は少し安心した。
みんなそうなのだ、と。
僕だけじゃないのだ、と。
そう思ったとき、
危険に満ちたこの世界に一筋の光が差したような気がした。
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