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社会人として当たり前のこと、だけができない


障害の生活への影響、現れ方はその程度や人によって様々ですが、重度の身体障害や会話ができないレベルの知的障害と違い、精神発達障害のみの大人であれば、最低限生きていくのに必要なこと、身の回りのことなどは特に問題なく自分でできる人が多いです。
また知的ギフテッドや、芸術や研究、経営などの特定の分野で、通常の人には無い特殊な才能を発揮する人の割合も高いそうです。(ただ、発達障害者全体ではそうでない場合の方が多く、私も自分がそれであると思えたことは無いですし、周囲の過度な期待による悪影響もあるので、「発達障害=ギフテットのはず」「ギフテッドでなければ障害の程度も大したことがない」との思い込みもまた要注意です。)

発達障害のADHDやASDは身体や知性に関わらない、社会性の障害です。

だから、

「他人と関わらず、食料を入手してご飯を食べ、排泄し、眠くなったら寝る」

もし必要なことがこれだけであれば私自身も、特に何も不都合は感じずに人生を終えることができそうな気がします。
けれども残念なことに、人に生まれた以上は人と関わり、子供は学習し、大人は働かなければならない。そして発達障害に生まれて育ち、「元気そうに見えるのに」「働けばいいのに」それがどうしても困難になってしまった人は多くいます。

社会の中で辛い。ではどう生きるか

23歳から29歳までの間、私はイギリス/ロンドンの美術大学へ留学し、いくつかのファッションデザインスタジオで働きました。

体感として、まず国籍に関わらず、デザインや音楽などのアート分野では一般社会よりも私と同傾向の人の密度が高いです。
始業の時間が決まっていても多くの人が遅刻し、欠席し、タスクを忘れ、突然関係ない話を始める。退学や留年も多く、それ以外にも個人的な習慣や癖のある「何だか変」な人の割合も、普通科だった高校までに比べて高かったように思います。

そして、海外の中でも特にロンドンは多文化、多民族社会で、クラスメイトや同僚、シェアメイトの人種国籍は多岐にわたり、コミュニケーションの前提に共通の文化や常識が存在しません。
それぞれの人にとって許容できないことが違うので軋轢は起きますし、常に自分の要求を言葉で伝え合い、オープンに話し合わなければ存続が不可能な社会です。

そして、ファッションの大学や職場のウィメンズウェア部門は

イギリス人よりも外国人が多く大半を占め、
男女比率は半々、男性の8割がゲイで、
ストレートの男性がレズビアンの女性の次にマイノリティ

という環境でした。

圧倒的なマジョリティが存在しない社会であれば発達障害の一面において精神的には楽ですが、そういう環境であったなりの困難はもちろんあります。

日本語が通じない。
それまでに培った常識が通じない。
積極的でなければ他人に相手にされない。

語学力と、その場なりのルールを理解して適応する高いコミュニケーション能力、もしくはそれを無視して憚らない度胸が要求されます。

それでも、それを克服する努力の方がまだマシと感じる程度には、私の日本社会でのADHDによる生き辛さは深刻でした。

「統制が取れていて生活しやすい代わり、当たり前のことが暗黙のルールとしてあり、それに適応できなければやんわりと阻害され、悪口、陰口、隠れたいじめ、表立った弄りの対象になる社会」

よりも、

「皆が他人に対して何らかの引目を抱え、身分が不安定で不便な代わりに他人への強制や干渉も少なく、お互いに適応する方法を言葉で伝え合い、臨機応変にルールを変更できる社会」

の方が、私にとっては圧倒的に気が楽で、生き易かった。ロンドンで暮らした期間のおかげで私は、英語以上に日本語でも他人とまともに話ができるようになりましたし、今でも何らかの用事で海外へ行く度に「やっと息ができるようになった」ような感覚に陥ります。

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あなたには海外の方が向いてるよ

漠然とこう言われることが、私は昔から何度もありましたし、同じ経験のある人や自分でそう自覚している人も多いと思います。

でも、私は同傾向の発達障害者の誰にでも、安易に海外移住を勧めようとは思いません。これは、海外で暮らした経験のある人にとって共通して、簡単に言えることではなくなるような気がします。

発達に限らず、これは全ての事象に関してですが、複合的に生じた困難の中に、「ここではないどこかへ行けば解消される」ような単純なものはあり得ません。

たとえばロンドンでは、1、2年の語学留学に来て、英会話がほとんどできるようにならないまま帰国する外国人(日本人に限らず)が本当に、ものすごく、多いです。

私自身も渡英する前までは、「英語圏で暮らせば英会話はすぐにできるようになるだろう」のような誤解を持っていましたが、ロンドンでもまた、環境に身をおけばすぐに言語を習得できるような語学センスに優れた人はかなり特殊な存在でした。

ロンドンのように移住者の多い都市では、自国の人同士のコミュニティの中だけで生活してしまうことも可能なので、まずは少なくとも何百時間かはテキストを開いて勉強し、ひたすら単語の暗記とディクテーションを繰り返す日々を経なければ、私を含む多くの人の場合語学力はなかなか身につきません。

一定の目的意識を持った努力や「自習」「自制」を続けることが難しい人は、発達障害でなくとも多くいるようです。(反対に私は特性上、目的と期限がはっきりしている場合(あるいは無駄なこと)にのみ、過集中とも言える集中力を発揮することができます。)

何も目的を持たずに海外へ移住することはビザの関係上難しいですし、目的を達成できないことでより深刻な精神状態に陥ってしまったり、外国人なので行政の保護を受けられず経済的に困窮したり、最悪は薬物や犯罪に手を染めてしまう人も多くいます。

学校をやめる、仕事をやめる、仕事を変える、移住する

そこに居て辛ければ、環境を変える選択肢は誰にでも開かれているべきですが、同時にその特性を新しい環境での生活と照らし合わせて、人生について、真剣に考える必要があります。

自分自身が(当事者でなければ、そのパートナーや子供が)どの社会にどう適応するか。国内なり、海外であればどの国の、どの街の、どんな環境で、どんな目的を持って生活するか。
どの程度の障害で、どんな家庭環境で、何に優れ、何が困難か。
同傾向の発達障害の中でも軽重はグラデーションのように差があり、人としての個性も一人一人違います。

ロンドンで暮らした方が圧倒的に気楽だとわかっていた私も、Post Studiesの労働ビザが切れてそれ以降の方針を決めなければならなくなったタイミングで、現地での永住権やビザの取得、他国での就職への努力よりも、日本への帰国を選びました。
両親の高齢化など家族の問題もありましたし、私にとって必要かつイギリスに居てはできないことも多く、発達障害だけが私の人生ではないからです。

その気になればいつでも何でもできて、どこでも誰とでも暮らしていけるような万能感と、どこにも行けない、仲間がいない、居場所が無いような絶望感はいつも常に、隣合わせに自分の中にあります。

これからもずっと、こんなようなことを考え続けながら、生きていくのだろうなと思います。


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