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【NODA・MAP/フェイクスピア】虚構と現実が手を取り合うために

※核となる部分のネタバレはありませんが、予備知識ゼロで観たい方には推奨しません。

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「ノンフィクションには勝てない」

これは、フィクションを生み出すことを仕事にしている私の知人が時折口にする言葉です。その人はNHK等で放送されるドキュメンタリーや、ノンフィクション映画を観ては、そこにある本当の人の言葉や感情に動かされている様子でした。

現在、東京芸術劇場で上演中の高橋一生さん主演、NODA・MAP『フェイクスピア』
本作を観劇している最中、私はこの知人の言葉を思い出していました。

『フェイクスピア』とは、そのまま、「フェイク×シェイクスピア」の意。
作中では、シェイクスピアをモチーフにしながら、フェイクやフィクションといった虚構存在を強調して描き、本当の言葉とは、声とは――というものを探っていきます。
と、下手な説明を書いてしまうと、全然面白そうに見えないので、パンフレットに書いてあった野田秀樹さんの言葉を引用させてもらうと、

>今の言葉の軽さに対峙するものは、シェイクスピア劇のような洗礼や様式をまとった言葉ではない気がする

これこそが、私の知人の言っていた「ノンフィクションには勝てない」ということであり、まさしくこの作品の核にノンフィクション(=パンフレットを引用すると、野田秀樹さんが出会ったある〝コトバの一群〟)があることの意味でしょう。
こう話すと、「なるほど、ノンフィクション作品なのか」と思われるかもしれません。でも実際はそう簡単ではなく、私は本作は「現実(=ノンフィクション)を作品(=フィクション)として扱うことの意味」を示唆しているものだと考えました。


■フィクションの意味とは何か?

・現実と対峙するための「普遍性」
「言葉が現実をつくる」というのはよく聞く話だと思います。
私たちは「快晴」という言葉を知っているから、雲一つない青空を「快晴」だと認識できるように、言葉を通じて、世界の解像度を上げてきました。
一方、世界をつくることのできる力があるからこそ、「言葉」には危険も潜んでいます。その一つが、野田さんがパンフレットの中でも書かれている「虚構化」なのだと思います。
本来重大なことでも、軽く扱われてしまう、軽い言葉で表現されることで空虚になっていく。
ですが「言葉」は「言葉」であって本質ではない。
そのことを意識していないと、この現代に氾濫する「虚構」に私たちは流されてしまう気がするのです。

これまでは、「文学・文芸」といった言葉の芸術が、言葉の良い効果を高めるのに役立っていたのだと思います(それは勿論いまでも)。シェイクスピア作品などの古典は、様式をまとった中に、普遍的な人間関係や感情を描いてくれていました。その「普遍化」は、私たちが「現実」に対峙するときに、強い武器となっていたことでしょう。

ですが、今の「虚構の氾濫」にはそれだけでは太刀打ちできない。
もっと強烈なインパクトがあるもの、心に直接響くもの。
それが、本作で描かれるような〝コトバの群れ〟=ノンフィクションなのではないでしょうか。

・物語は優しさである

前段でも書きましたが、じゃあノンフィクションをそのまま流せばいいのかといったら、そうではないのだと思います。
それが感じ取れるのが、『フェイクスピア』の中に登場する、イタコと星の王子さまの存在です。

イタコといえば「死者の口寄せをする者」ですね。作中では噓発見器が現れて、「イタコの交霊は嘘・お芝居なのか」というのを判定しようとするシーンがあるのですが、結局、実はこの嘘発見器は「どちらにも反応しない」のです。
私の大好きな京極夏彦先生の『魍魎の匣』では、「真実ではない」「インチキだ」とされるものに対して「実際に人は救われているのだからいい」という見解が書かれています(あまりに乱暴な要約なので、ぜひ読んでください)。
何が言いたいかというと、「嘘=物語」は、人の心を癒す優しさでもありうるということです。

そのさらに具体的な存在が、前田敦子さん演じる「星の王子さま」
もちろん、『星の王子さま』も物語でありフィクションですが、王子さまは有名な「大切なものは目に見えない」という言葉で、一生さん演じるmonoに大切なことを気づかせてくれる役割を果たしています。

今挙げた2つは、物語の内部での「フィクション」のもつ優しさの話ですが、それは同時に、この『フェイクスピア』という作品がもつ「ノンフィクション性」に照らし合わせた時、この「ノンフィクション」に『フェイクスピア』が口寄せのように、王子さまのように寄り添ってくれる存在でもあることがわかります。

具体的なネタバレなしでこの点を語るのは難しいのですが、最後に楽(橋爪功さん)のモノローグのなかに「届けたい言葉があったはずだ」という意味の一文がありました(うろ覚えで悔しいのですが)。
その「届けたかったはずの言葉」を想像し、こうして作品=物語として昇華すること。それは、ひとつの優しさであり、フィクションがノンフィクションを扱うことの意味なのではないでしょうか。
(当事者の方がどう思われるかはわかりません。こうして扱われることや外部である私たちがこう感じることに対してもっと複雑な心境があるかもしれませんが)

■伝え、届ける、想像力を

以上をふまえた上で、ここからは私の主観的な日記のようなものです。

私は仕事で、人や企業の取り組みや考えをレポートすることを行っています。
取材をし、直接聞いた話であったとしても、執筆し編集することによってそれは「記事」というものになり、「事実」そのものではなくなります。恣意的なものや感情を完全に排除することは不可能だからです。
ただ、誰かに何かを伝えるために届ける、という「言葉を繰る」ことの末席に関わる者として、本作から感じたような、想像力と優しさを持つことは忘れないようにしたい。

ちょうど先日、山口周さんの『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか』を読んだのですが、まさにこの「美意識」のことですね。
本書では、言語化しうる合理的な解には訓練すれば誰でも行き着くことができる一方で、正解のない現代では「真・善・美」という軸を置いた「美意識」からの判断が重要であることが説かれています。
当然、人の心には正解がありません。特にセンシティブなテーマを取り扱うとき、合理的に判断するなら「取り扱わないこと」「事実をただ述べる」ことがベストとなるでしょう。
でも私たちは言葉の「虚構化」を打破し、変えていきたい。
きっと野田秀樹さんも、どのような形にするか相当悩んだことでしょう。実際、構想期間が長かったと書かれています。

フィクションとノンフィクションは時に対峙し、相対する存在にもなりえます。
ですが『フェイクスピア』では、手を取り合うような、静かに寄り添うような関係性を構築しようと試みているように見えました。そうした寄り添いを考えること、想像力を働かせることを、私たちはもっと考えていく必要があるのではないでしょうか。

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