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発想を「ひっくりかえす」 —小池昌代の詩「ねこぼね」について—

 今回は、詩人・小池昌代の「ねこぼね」という詩について見ていきます。


   ねこぼね 小池昌代

  猫を撫でてみた。すると、毛ではなく、肉でもなく、骨のかたちがてのひらへ残る。
  あったかいくぼみやでっぱり。その、でこぼこ。あ、これが猫。こぼれそうにしなやかな、これが、とくべつのさびしさか。
  骨と骨をやわらかくつないで、いきものよ。
  私はてのひらをひっくりかえす
  それから(おやすみ)とねこぼねへいう。ちいさな声で。(届くかしら)

  すると、きしむような音がして、夜に、ちいさく、鍵がかかる。

 

 この詩を一読して、疑問に感じるのは、なぜ、猫の骨に「おやすみ」を言うと、「夜」に鍵がかかるのか、ということです。作中では、語り手が「ねこぼね」(猫の骨)に「おやすみ」を言った場面の次の箇所に、「すると、きしむような音がして、夜に、ちいさく、鍵がかかる。」という文章が登場します。そのため、「おやすみ」という声かけと、「夜」に鍵がかかるという現象は、連動しているのではないかと推測されます。
 つまり、ここで描かれているのは、何の変哲もないただの猫の骨に挨拶をすることにより、「夜」に「鍵」がかかるというファンタジーのような不思議な現象が可能になる、という事実です。作者は一体どのような意図で、猫の骨にそのような不思議な力が宿っているという設定にしたのでしょうか。この詩を読むと、そんな疑問が湧いてきます。
 その疑問は、「すると、きしむような音がして、夜に、ちいさく、鍵がかかる。」という一文の中の、「きしむような音」という表現に注目すると分かります。「きしむような音」という表現は、二つのことを連想させます。一つ目は、鍵がかかる際の音です。「夜」に「鍵」がかかる際は、私たちの家のドアの鍵が閉まる時と同じように、「きしむような音」がするという設定らしいのです。二つ目は、骨がきしむ音です。「ねこぼね」は猫の骨であるため、それに「おやすみ」と声をかけたら、猫そのものが動き、骨の音がしたのだと推測されます。ここで、作中で猫の「骨」と言われているのは、具体的には丸まっている猫の背骨を指すと考えられるため、次からは「背骨」と書くことを断っておきたいと思います。
 このように、「きしむような音」という表現からは、鍵がかかる音と、背骨がきしむ音の二つを連想することができます。これは、次のようなことを意味しています。つまり、語り手が「ねこぼね」に「おやすみ」と声をかけると、その音で猫が動き、猫の背骨がきしむ音がした。その音は、同時に、「夜」に鍵がかかる音でもあった、ということです。
 ということは、「ねこぼね」がきしむ音は、「夜」に鍵がかかる音であると、ここでは主張されているわけです。しかし、なぜ、単なる猫の背骨が、実は「夜の鍵」でもある、などという設定が成り立つのでしょうか。
 それについては、「ねこぼね」という言葉が平仮名で表記されているという事実に注目すると分かります。「ねこぼね」は「猫骨」という漢字の表記ではないため、単なる猫の背骨ではないのだと考えられるのです。ここで、作中のある箇所に注目してほしいと思います。

  私はてのひらをひっくりかえす。

 という箇所です。ここを境に、「骨」と書かれていたものは、「ねこぼね」と平仮名で表記されるようになります。ということは、ここで、語り手の猫の背骨に対する認識が、単なる「猫骨」から「ねこぼね」へと変化したのではないでしょうか。
 しかし、「猫骨」と「ねこぼね」という二つの言葉が指すものは、結局のところ同じであるはずです。どちらも、猫の背骨を指しているからです。ですが、「てのひらをひっくりかえす」とあるため、ここでは語り手の認識が文字通り「ひっくりかえ(る)」という現象が起こっているのではないかと推測されるのです。「ねこぼね」という言葉は、「猫骨」という言葉とは異なる方法で、猫の背骨という物体を理解した際に生まれた表現なのではないでしょうか。
 そうすると、このように考えられます。「猫骨」という表現は、猫の背骨を、文字通り、猫の中に属するものであると捉える認識の仕方を象徴するものです。作品前半では、「これが、とくべつのさびしさか」とか、「骨と骨をやわらかくつないで、いきものよ」などの表現があり、猫の背骨を触ることから生まれた、生というものへの感慨が綴られています。これは、語り手がまだ、猫の背骨を猫の一部として捉えていることを示しています。一方、「ねこぼね」という表現は、その考え方を「ひっくりかえ(した)」考えを象徴しています。ということは、「ねこぼね」は、猫の背骨を猫のパーツの一つと捉えないで、反対に、猫というものをその骨の付属物として捉える、そうした考え方を反映した表現なのではないでしょうか。
 このことを裏付けるのは、語り手が猫そのものではなく「ねこぼね」に「おやすみ」と言っているという事実です。語り手の目には、もはや、「ねこぼね」しか映らず、猫はその付属物にすぎないのでした。それでも、「ねこぼね」に「ねこ」という表現が出てくるのは、そうでないと読み手の私たちに、何のことを指しているのか伝わらないからです。しかし、「ねこぼね」は、猫の背骨を、単なる「猫の中の一パーツ」として捉えず、独立した物体として捉える表現なのだと言えます。
 それでは、「ねこぼね」は、具体的には一体どのような性質を備えた物体なのでしょうか。それは、先ほど見たように、「夜の鍵」としての側面を持った物体です。この、「ねこぼね」がきしむと、「夜の鍵」がかかる、という発想は、あくまで語り手の想像です。しかし、この想像は、「ねこぼね」という物体が単なる「猫骨」ではないという考え方を読者に上手く伝達するために存在しています。つまり、「ねこぼね」は独立した物体として存在していて、猫そのものの方が、その物体の付属物なのである。……このような考え方を、いきなり説明されても、私たちは、少々戸惑ってしまいます。そのため、「夜の鍵」としての役割を持つもの、それが「ねこぼね」なのだ、と説明された方が、たとえそれが虚構の混ざった話でも、読者にとっては分かりやすいと思ったために、語り手は、あえてファンタジーを交えて説明したのでしょう。
 つまり、この作品が成し遂げたかったことは、猫の背骨を、猫のパーツの一つとしてではなく、独立した物体として捉えるということでした。このような発想の転換を含むこの作品は、まさに詩であると言えます。

 

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