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ケヤキという名のモノ —まど・みちおの詩「ケヤキ」について—

 今回は、詩人、まど・みちおの「ケヤキ」という詩について見ていきます。


   ケヤキ まど・みちお

  冬がれの いなかに行くと
  いつも 地平線に
  ケヤキが 立っている
  私に むかって
  高々と 手を あげて

  あれこそ 地球の手だ!
  あれに 迎えられるたびに
  私は なつかしさに ふるえる

  帰れるはずも なかった
  とおい 星から
  ぐうぜんに この地球に
  帰りついたばかりの人のように

  なんびゃく年ぶりに
  母の むねに
  だきかかえられた人のように


 まど・みちおの詩は、そのほとんどが、自然を愛情の籠もった眼差しで見つめるという内容の作品です。しかし、まど・みちおの自然の愛で方(めでかた)は、決してありふれたものではありません。ただ単に自然の風物を愛でる(めでる)だけではなく、その風物を取り巻く現実を再構成しようとする姿勢が、そこにはあります。つまり、彼は、「ものを創る眼」を働かせながら、自然の風物の本質に迫ろうと試みているのです。だから、彼の詩は、自然を愛情の籠もった眼差しで「見つめる」作品と形容するよりも、むしろ「見つめ直す」作品であるといった方が適切かもしれません。その、自然を見つめ直す際に働く「ものを創る眼」が、詩人としての眼であることは言うまでもありません。
 さて、今回取り上げた「ケヤキ」という詩ですが、この作品にも、まど・みちおの「ものを創る眼」が顕れています。詩は、語り手の故郷に生えている、一本のケヤキの木について語るものです。このケヤキの木は、語り手が故郷へと向かう際に、ちょうど地平線上に姿を現すのだそうです。それを見ると、語り手の心には、いつも、「あれこそ 地球の手だ!」という考えが閃くのだと言います。だから、語り手は、そのケヤキの木に迎えられると、他の星から地球に帰り着いた人のように、また何百年ぶりに母の胸に抱かれた人のように「なつかしさに ふるえる」のだと言うのです。
 ここで注意したいのは、ケヤキの木が「地球の手」であるという表現は、決して比喩として登場してはいないということです。「地球の手」がケヤキの木の比喩として機能するということは、「ケヤキの木は何かに似ているようだ。ああ、そうだ、もし仮に<地球の手>というものが存在するならば、ケヤキの木はそれに似ているに違いない」と考えるということです。この考えには、ケヤキの木は「地球の手」そのものではない、ただ「地球の手」に似ているように感じられるだけだ、という前提があります。しかし、作品をこのように読むと、いっきにつまらない詩になります。
 そうではなくて、ここで、語り手は、「<ケヤキの木>は、まさに地球から生えている<手>であるのだ」と考えていると読んではどうでしょうか。そうすると、「あれこそ 地球の手だ!」という言葉の意味がよりはっきりします。このように捉える読みについて、詳しく説明しましょう。
 語り手は、まず、地球上に一本のケヤキが生えている、という事実を認識することから、この詩を始めています。ただし、この時点で既に、彼はそれを「ケヤキ」であるとは思っていません。人が皆、「ケヤキ」と呼んでいる、地平線上にあるあの出っ張り、と認識しています。それでも、作中に「ケヤキ」という言葉が登場するのは、語り手と読者の間で、世間で一般的に「ケヤキ」と呼ばれているあれを指しているということを共有するためです。つまり、一本のケヤキというモノそのものが、地平線上に生えているという、それがこの詩の出発点なのです。
 ここから、語り手は、ケヤキというモノについて、「人々は、あれを地球に生えた一本の植物として認識しているけれど、実は、<地球の手>なのではないか」と考えます。このモノを、ただのケヤキの木と捉えるのではなく、地球に生えた手なのだ、と捉えること。ここに、作者であるまど・みちおの、「ものを創る眼」が機能しています。「ものを創る眼」とは、つまり、現実というものを再構築しようとする働きを指します。地平線上にあるモノを、ケヤキの木と捉えるのは、ありふれた認識です。それに対し、そのモノを「地球に生えた手」と捉えることは、ありきたりな把握の仕方を、新しい現実認識によって塗り替えようとするものであると言えます。ここに、この作品の詩たる所以があると言えますし、同時に、自然の風物の表層を剥ぎ取り、その本質に迫ろうとするまど・みちおの特質が顕れていると指摘することもできます。
 さて、ケヤキと呼ばれるモノが、実は「地球の手」なのではないか、と考えた語り手でした。語り手は、そう考えると、ふいに胸の内に懐かしさがこみ上げてくるのを感じます。それは、地平線上に現れる「地球の手」が、自分を迎えてくれているのだと思えたからでした。このケヤキの木が生えている場所が、語り手の「いなか」(故郷)であるというのは、やや皮肉です。語り手は、故郷に帰ったから懐かしいのではなくて、「地球の手」に迎えられたために「なつかしさ」を感じているからです。語り手の、いや私たちの本当の故郷とは、自分の「いなか」ではなく、この地球なのだという主張が感じられます。
 このように、「ケヤキ」という詩には、ケヤキの存在を見つめ直す姿勢が顕れています。そこには、作者のケヤキに対する愛情が感じられますが、それは通り一遍の愛で方(めでかた)ではなくて、ケヤキというモノの本質に肉迫しようとする、彼の詩人としての眼を反映したそれであると言えます。


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