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人間の帰るべき場所 —新川和江の詩「土へのオード 10」について—

 今回は、詩人・新川和江の詩「土へのオード 10」について見ていきます。


   土へのオード 10 新川和江

  人間は ついにさびしいのだ
  土に わが身を返済しなければ

  シドミが咲いている
  オギョウが咲いている
  コケリンドウが咲いている
  スギナがぼうぼう伸びている
  ショウジョウバカマが咲いている
  死んだひとびとの思いが
  今やっと 咲いている

  アリが匐っている
  ムカデが匐っている
  アオイロトカゲが匐っている
  ヘビが匐っている 若いヘビが藪から藪へ
  ミイデラゴミムシが匐っている
  ひとびとの怨念が
  目もさめる素早さで

  うららかに日が照っている
  よいお天気だ


 この詩は、「土へのオード」と題された連作の内の十番目の作品です。「オード」というのは何かを讃えるための詩のことであるため、「土へのオード」とは、すなわち土を讃える歌であると分かります。
 さて、この詩は、そのテーマを内包した箇所が、第一連にすぐ配置されています。それは、「人間は ついにさびしいのだ/土に わが身を返済しなければ」という二行です。この二行では、まず、人間と土の関係性を確認しています。「人間と土の関係性」と言うと、農耕などの「土の恵み」を思い浮かべる人もいるかもしれません。しかし、ここでは、人間が土から恩恵を被っているという事実は、些末なものとして退けられています。この詩で描かれている土の姿は、人が耕すそれではなくて、人が還るべき場所としてのそれです。つまり、「人は死んだら土へ還る」という、人と土との関係性においてより根源的なものが、ここでは題材として選ばれているのです。
 この詩は、そのように、人間と土の関係を確認しているのですが、これではまだ、現実を整理しただけにすぎません。ここから、この詩は、詩に相応しい発想を獲得します。その発想は、現実を通常とは異なる見方で眺めることによって得られます。そのように現実を再構成することによって掴んだ詩的真実が、すなわちこの詩のテーマなのです。その、テーマ、言い換えれば「詩的真実」とは、人間の還る場所としての土、という事実を踏まえながら、「人間は、生きている間こそが自分たちの真の姿であると思っているけれど、実はそうではないのではないか」という疑問を提出するものです。人間は、死んで土に還って初めて、人間らしさを獲得するのではないか。——そのような考えの根拠として挙げられるのが、「人間はさびしい」という事実です。人間の生につきまとって離れない孤独というものを、この詩は、人間が本来の姿を取っていないがために生まれるものなのではないか、と説明しています。
 しかし、「人間は ついにさびしいのだ/土に わが身を返済しなければ」といきなり言われても、それだけでは、読み手にとって、何のことを言っているのか理解しにくいものです。そこで、この詩は第二連以下で、そのテーマを、フィクションを交えながら説明しています。

  シドミが咲いている
  オギョウが咲いている
  コケリンドウが咲いている
  スギナがぼうぼう伸びている
  ショウジョウバカマが咲いている
  死んだひとびとの思いが
  今やっと 咲いている

 「シドミ」、「オギョウ」、「コケリンドウ」、「スギナ」、「ショウジョウバカマ」は、全て、春の植物の名前です。ここで、語り手は、春の風景を目の前にして、そこに花を咲かせている植物を列挙しているわけです。その上で、それらの花のことを、語り手は、「死んだひとびとの思い」と言い換えています。この時、重要なのは、これらの植物が、土の上に咲いているのではないかと想像を働かせることです。そうすると、死んで土に還った人の「思い」が、花に姿を変え、地表に顕れているのだという、語り手の主張の「意味」が分かるでしょう。ただし、もちろん、花というものの正体が、実は死んだ人々の「思い」なのだ、という考えは、あくまでフィクションです。ですが、ここでは、人は死んで土に還ってから、やっと「人間らしさ」を獲得するのだというこの詩のテーマを、フィクションを交えることによって、分かりやすく説明しているのだと言えます。
 同じように、第三連では、「アリ」や「ムカデ」などの、あまり美しいとは言えない虫たちの名前が列挙されています。これらの虫たちが皆、土の上を匐っている(這っている)ことに注目しましょう。これらについて、「ひとびとの怨念」が形を顕したものであると、語り手は主張しています。この「ひとびと」が、死んで土に還った人間たちであることは、言うまでもありません。生きている間には表に出せなかった「怨念」を、人は死んでからやっと、形にすることができたのです。第二連、第三連を合わせると、人の美しい感情は、美しい野の花となり、醜い感情は醜い虫の姿を取る、という設定なのだと分かります。いずれにせよ、生きている間は押し殺していたプラス・マイナス両方の感情を、人は死んで土に還った後、やっと露わにすることができるという物語が、ここでは繰り広げられているわけです。これらはあくまでフィクションですが、土に還った状態こそが、人間の真の姿なのではないかという主張を分かりやすく読者に伝える効果を挙げています。

  うららかに日が照っている
  よいお天気だ

 という末尾の二行は、人々の感情が地上に咲き、匐うことを良いこととして肯定する語り手の立場を表しています。これも、「土に還ってから、人間は初めて真の姿を取る」という考えを補強するものです。
 さて、人の生というものについては、通常、「人間は、生きている間にこそ、真の姿を取っている」と考えがちです。しかし、本当は、生きている間の姿と、死んでからの姿の、どちらが本当とも言えないわけです。普通の人々が「生きている間こそが本当」と信じているのならば、その逆を信じることも可能なのではないかというのが、この詩のスタンスです。作品は、このスタンスに対する説明を繰り広げながら、同時に、人間の帰るべき場所としての「土」の存在感を際立たせて、土を讃える歌を謳い上げています。

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