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詩らしい詩 —まど・みちおの詩「するめ」について—

 今回は、詩人まど・みちおの「するめ」という詩について見ていきます。


   するめ まど・みちお

  とうとう
  やじるしに なって
  きいている

  うみは
  あちらですかと…


 この詩は、イカを干してできた「するめ」を題材にした作品です。イカという動物には、ご存じのように大きな三角形の部分があります。この詩ではこれを矢印の三角形の部分に見立てているわけです。生きているイカは、足が広がっているため矢印とは言いにくいですが、干したイカ、つまり「するめ」は、硬直しているため、より矢印に見えやすい形をしています。自分が泳いでいた海から陸に引き揚げられ、さらには命を奪われたイカは、矢印の姿を取って、「うみは/あちらですか」と問うているのではないか、というのがこの詩の「意味」になります。人間の手によって、住んでいた場所から離され、あまつさえ殺されてしまったイカの哀れが、この詩のテーマです。
 さて、「するめ」を矢印に見立てることの面白さについては、「それはただの頓知の面白さにすぎない」と批判する人もいるかもしれません。「そんなものは詩の本来の魅力ではない、詩とはもっと深い味わいを湛えたものだ」と考える人もいるでしょう。しかし、詩というものは、些細な入り口をきっかけに、深く大きなものに繋がっていく、そんな形態を持つ芸術様式であると、論者は考えています。
 それは、一つには、テーマそのものを提示するだけでは、読者の心の奥深くには届きにくいから、ということが挙げられます。この場合であれば、「故郷から引き離されたイカの哀れ」というテーマは、それだけでは説得力を持ちません。「するめ」が矢印の形である、という事実を示すことで、初めて、読者の胸に響くものとなるのです。
 また、もう一つには、詩というものは、作品一つ一つが、独自の論理を内包しているから、ということがあります。詩で用いられるのは、既成の論理ではないため、必ずしも、既に重要とされている事柄を論理のジャンプ台にするわけではない、ということです。普通、我々は、具体的な事柄よりも、抽象的な事柄の方を重要視します。というのも、抽象的な事柄の方が、具象の事柄よりも、高度な思考を要すると考えられるからです。しかし、詩というものは、一つ一つが独自の論理を持っているため、予め高尚であると決められた抽象的な事柄ばかりを使って論理を組み立てているわけではありません。だからこそ、詩が展開する論理の入り口は、具象の事柄であることが多いのではないでしょうか。この「するめ」の詩の場合は、まさしく、「するめ」が矢印の形をしている、という、一見、些末にも思える具象の事柄から、「イカの哀れ」という大きなテーマへと、論理を発展させています。
 このような、具象から抽象へという論理展開は、まど・みちおの他の詩「根」にも窺えます。


   根 まど・みちお

  ない

  今が今 これらの草や木を
  草として
  木として
  こんなに栄えさせてくれている
  その肝心なものの姿が

  どうして ないのだろう
  と 気がつくこともできないほどに
  あっけらかんと

  こんなにして消えているのか
  人間の視界からは
  いつも肝心かなめなものが


 この「根」という詩でも、植物の根は、地面の下に生えていて、人間が普段眼にすることはない、という具象の事柄を入り口にした上で、「人間には肝心なものが見えていないのかもしれない」という大きなテーマへと繋げています。この入り口も、「普段は考えないけれど、たしかに根っこは見えないな」と人を頷かせはしますが、しかし同時に、「頓知にすぎない」と切って捨てられるような要素を含む、些末な事柄であるとも言えます。しかし、詩というものは、具象の事柄を、「これは低級だから」と、予め差別しないのです。むしろ、深いものをたぐり寄せるために、目に見える明らかな事実から出発することが多いように思われます。それは、「根」という詩だけではなく、「するめ」という作品においても同じことです。
 このように、「するめ」を、ただ単に頓知を弄しただけの作品であると考える人もいるかもしれませんが、論者はこの作品を、「詩らしい詩」として高く評価したいと思います。


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