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特権としての死 —小池昌代の詩「こぼさずに」について—

 今回は、詩人・小池昌代の「こぼさずに」という詩について見ていきます。


   こぼさずに 小池昌代

  もぎとられてきた水滴のように
  なげだされて
  こどもたちはねむっている
  むこうがわの世界を
  からだはこの岸にあずけたまま
  水辺にはでたらめな足跡をいっぱいのこして

  一月のゆめのなかの水祭(みずまつり)

  桃の実のなかで
  いつか「きもち」になろうとしている
  たったひとつのことばを
  きょうはおまえたちに用意しよう

  桃を食べずに手のひらへのせて
  太陽にゆっくり透かしてみよう

  目がさめて
  目があって
  何の意味もなく笑うことがあったら
  それはきょうも
  生きていくことの合図なんだよ

  こどもたち
  音もなく
  いちまいの皿にたまっていた
  きのうからの雨滴
  受容のしずけさよ


 この詩を一読した時点では、第一連の「もぎとられてきた水滴のように/なげだされて/こどもたちはねむっている」という表現と、第六連の「こどもたち/音もなく/いちまいの皿にたまっていた/きのうからの雨滴」という表現に、矛盾があるように感じられるかもしれません。なぜなら、第一連では、「こどもたち」が投げ出されて眠っているところが、「もぎとられてきた水滴」と描写されていますが、これは、「こどもたち」がバラバラの状態にあるというイメージを喚起させる表現です。一方、第六連では、「こどもたち」と「音もなく/いちまいの皿にたまっていた/きのうからの雨滴」の並列により、「雨滴」という表現を「こどもたち」の比喩として読むことが可能になっていますが、ここでは、「こどもたち」は一枚の皿の上に纏まった状態であるように受け取れ、先ほどの、バラバラの状態であるという記述と反対のことを言っているように感じられるからです。
 しかし、この矛盾を解く方法があります。それは、第一連と第六連の間に、時間の経過があると考える方法です。最初はバラバラの状態で存在していた「こどもたち」が、最終連に到ってやっと一つに纏まるという展開が、この詩の中で描かれていると仮定すると、この矛盾はすっきりと解けます。
 この仮定は、作中の表現によって裏付けられます。第六連には、「きのうからの雨滴」という記述があります。この「きのう」という表現は、時間の経過を感じさせる表現です。第一連で描かれる内容は、第六連から比べて前日(「きのう」)の出来事に当たるのだと考えられます。つまり、第一連と第六連の間で、日を跨いでいるのだと推測されるのです。
 第一連において、バラバラの状態であった「こどもたち」は、翌日になると、一つに纏まるのです。この際、重要なのが、「こどもたち」を一つに纏める役割を果たす「いちまいの皿」です。この「皿」が、比喩の上では水滴である「こどもたち」を、全て纏めて受け止める役割をしています。その「皿」の様子は、タイトルの「こぼさずに」という言葉からも窺えます。つまり、この「皿」は、バラバラの状態にある「水滴」(「こどもたち」のこと)を、一粒も漏らさずに受け止める存在として、作中に登場するのです。
 さて、ここまで、時間の経過と、「皿」の存在について見てきました。ここからは、その、作中において、一日を跨ぐ間に起こる出来事について見ていきましょう。

  一月のゆめのなかの水祭(みずまつり)

  桃の実のなかで
  いつか「きもち」になろうとしている
  たったひとつのことばを
  きょうはおまえたちに用意しよう

  桃を食べずに手のひらへのせて
  太陽にゆっくり透かしてみよう

  目がさめて
  目があって
  何の意味もなく笑うことがあったら
  それはきょうも
  生きていくことの合図なんだよ

 この引用部分において注目したいのは、まず、「一月のゆめのなかの水祭(みずまつり)」の中の、「ゆめ」という表現です。第一連において、「こどもたち」は眠り、「むこうがわの世界」へと旅立ちます。この「むこうがわの世界」が、すなわち「ゆめ」の世界なのではないかと考えられます。
 そして、その「ゆめ」の中の「水祭」という表現。「水祭」とは、九州で、仕立ておろしの着物を着るときのまじないで、新しい茶碗に汲みたての水を盛り、ひとつまみの塩をいれて床に供えるというものだそうです(『広辞苑』)。しかし、この詩では、実在する水祭の語感を借りてきてはいますが、その意味まで借用しているわけではないのではないかと推測されます。作中の「水祭」は、作者の創作による虚構の儀式として登場しているのではないでしょうか。
 なぜそう言えるのかというと、引用部分における、「水祭」の様子の描写は、実在の水祭とは全く異なるものだからです。作中の「水祭」は、「いつか『きもち』になろうとしている/たったひとつのことば」が隠された「桃の実」を、「こどもたち」が手にする、というものです。これは、着初めの儀式とは関係が無く、ただ何らかの儀式を思わせる点、あるいは通過儀礼めいた点が似通っているだけです。したがって、作中の「水祭」は、実在の水祭をそれほど踏まえてはいないと言えます。では、なぜ、作中の儀式が「水祭」と呼ばれるのかというと、「こどもたち」を一枚の皿に集められた「水」のように、一人も「こぼさずに」通過させる儀礼であるからではないかと推測されます。
 さて、この「水祭」ですが、作中には、この祭りを司っていると考えられる人物の会話があります。それが、「桃の実のなかで/いつか「きもち」になろうとしている/たったひとつのことばを/きょうはおまえたちに用意しよう/桃を食べずに手のひらへのせて/太陽にゆっくり透かしてみよう/目がさめて/目があって/何の意味もなく笑うことがあったら/それはきょうも/生きていくことの合図なんだよ」という箇所です。この人物には、何か造物主を思わせるところもあり、そのことから、人間の生死を司る存在なのだと判断できます。
 ところで、桃の実の中には、いつか「きもち」として結実する「たったひとつのことば」が隠されているのだと言います。その桃を、この人物は、太陽に透かしてみろ、と言うのですが、桃は太陽に透かしたところで透けては見えないため、「こどもたち」に、「たったひとつのことば」が一体何なのかは分かりません。ですが、それこそが、この人物の狙いなのです。「目がさめて/目があって/何の意味もなく笑うことがあったら/それはきょうも/生きていくことの合図なんだよ」とあります。仮に、ここに書かれていることとは反対に、「ゆめ」から覚めた後に、隣の子供と目が合って、意味ありげに笑うという状況が存在したら、その子は「たったひとつのことば」が何なのかを知ってしまったことになります。そうすると、その子は、もう死んでしまうことになるのです。つまり、桃の実に隠された「たったひとつのことば」とは、人間を死へ導くための秘密の言葉なのではないかと推測されるのです。
 では、「水祭」を司る人物は、「こどもたち」になぜ、桃の実を与えたのでしょうか。それは、「こどもたち」に、<人間としての生>を授けるためではないでしょうか。
 桃の実には、いつか「きもち」になろうとしている「たったひとつのことば」が隠されているのでした。この「ことば」は人間を死に導くための言葉でした。具体的には、その「ことば」が「きもち」として結実した時に、人間は死ぬのだと考えられます。このことについて、より深く考えると、次のようになります。私たちは、人生を生きる上で、色々な気持を知っていきます。それがすなわち、人生経験を蓄えるということでもあり、そのような経験をたくさんすることにより、人間として成熟していきます。ここでは、そうした人生経験の一つとして、「死」を捉えているのではないでしょうか。つまり、人間が最後にする大きな経験が、すなわち「死」であるのです。「水祭」とは、死というものを、人生経験の一つとして迎えるというシステムを、「こどもたち」に導入するための儀式なのではないでしょうか。つまり、「こどもたち」の生に、死という一つの「きもち」を育むものとしての意味を持たせることこそが、「水祭」の意図であると考えられるのです。そして、そのようなシステムが組み込まれた生が、<人間としての生>なのではないでしょうか。
 しかし、ここで一つ、疑問が生じます。「こどもたち」がこの世に誕生したのは、作中の「きょう」ではなく、もっと昔のはずです。人間は生命を持ったその瞬間から、死の危機にさらされているため、死と裏表に位置する生というものは、もっと昔に授けられているはずではないか、という疑問です。
 ですが、そうした疑問はこのように考えると解けます。すなわち、物心つく前の「こどもたち」は、まだ<人間としての生>を獲得していないのだと。物心がつく前に死んでしまった子供は、人生経験の一つとして死を捉えることはできません。そのために、「こどもたち」に、そのようなシステムを導入する儀式である「水祭」が存在しているのではないでしょうか。
 このように、「水祭」を司る人物は、「こどもたち」全員に、このようなシステムを導入することを目的として、この儀式を催しています。これが、「こぼさずに」というタイトルの意味です。この儀式を経て、ただ生きているだけだった「こどもたち」は、<人間としての生>を獲得するのです。その、てんでの方向を向いていた「こどもたち」が見事に同じ方向に統率される様子は、「でたらめな足跡」を付けていた彼らが「受容のしずけさ」を湛えるようになるという記述からも窺えます。「受容のしずけさ」とは、死に向かって「きもち」を育てていくという、このシステムを受け入れることを表しています。
 さて、「たったひとつのことば」が「きもち」へと実を結ぶことにより、死がやってくるという考えからは、死とは、ある「きもち」を悟った者だけに訪れる特権的な経験であるという考えが反映されています。人間は、その「きもち」を結実させるために、日々生きているのです。 
 このように、この詩は、「水祭」という架空の儀式を描くことを通して、死とは、必ずしも、忌むべきである暗い性質のものではなく、自分の中で育てることによって、いつか手に入れられる特権なのだと、主張しています。


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