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当たり前のことを疑う —谷川俊太郎の詩「誕生」について

 今回は、詩人・谷川俊太郎の「誕生」という詩について見ていきます。


   誕生 谷川俊太郎

  頭が出かかったところで赤ん坊がきく
  「お父さん生命保険いくら掛けてる?」
  あわてておれは答える「死亡三千万だけど」
  すると赤ん坊が言う
  「やっぱり生まれるのやめとこう」
  妻がいきみながら叫ぶ
  「でも子供部屋はテレビ付きよ!」
  赤ん坊は返事をしない
  猫撫で声でおれは言う
  「ディズニーランドへ連れてってやるぜ」
  赤ん坊がしかつめらしくおれを見上げて
  「世界の人口増加率は?」
  知るもんかそんなこと
  赤ん坊が頭をひっこめ始める
  妻が叫ぶ「もうツワリはたくさん!」
  おれは小声でドスをきかせる
  「出てこないとお尻ピンピンだぞ!」
  やっと赤ん坊がおぎゃあと泣いた

  

 この詩は、一見、一対の夫婦が、今まさに生まれかかっている自分たちの子供と会話を交わすというシュールな設定を持つ作品であるかのように思えます。しかし、作品をよく読むと、実はそうではないことが分かります。どうして「シュールな設定」ではないのか、以下に説明したいと思います。
 さて、この詩の中の登場人物の台詞は、そのほとんどが、かぎ括弧で括られています。それなのに、末尾の「やっと赤ん坊がおぎゃあと泣いた」という箇所の、「おぎゃあ」という泣き声にだけは、かぎ括弧が付いていません。この、「おぎゃあ」だけがかぎ括弧で括られていないという事実は、作中において何らかの意味を持っていると考えられます。その「意味」とは何なのかというと、この「おぎゃあ」が、他のかぎ括弧で括られた会話部分とはレベルの異なる表現であることが示唆されている、ということではないでしょうか。一体どのようにレベルが異なるのかというと、それは、「おぎゃあ」が現実に発せられた言葉であるのに対し、他の会話部分は、架空のものである、ということであると考えられます。
 つまり、こういうことです。「おぎゃあ」という泣き声は、普通の赤ん坊が、生まれる際に発する声です。だから、この声についての記述は、リアルな描写であると言えます。それに対して、生まれかかっている赤ん坊と交わしている会話、というのは、フィクションの領域に属するものです。ということは、この詩は、現実的な描写と非現実的な描写の二つのトーンを組み合わせることによって構成されているのだと言えます。
 ここから、この作品は「シュールな設定」を取っていないと考える理由について、さらに迫っていきます。そう考える理由としては、まず、非現実的な描写だけではなく、現実的な描写も、作中には含まれているから、ということが挙げられます。その上で、作品を支配しているのは、実は、非現実的な描写ではなく、この現実的な描写の方である、ということが言えます。
 なぜそう言えるのか、説明しましょう。この作品が題材としているのは、私たちの身近に存在する、ごく一般的な出産の様子であると考えられます。それは、「誕生」というタイトルからも分かります。ここでは、一人の人間が、ごく普通に<誕生>する様子が描かれているのです。その上で、この詩は、その一般的な<誕生>というものに、新たな解釈を加えているのではないでしょうか。この詩をよく読むと、赤ん坊は頭を出したりひっこめたりして、なかなか母親の身体から出て来ません。また、生まれるときには、「おぎゃあ」という泣き声を上げています。これらは、全ての赤ん坊に当てはまることであり、このことからも、この作品の描く<誕生>が、ごく普通のそれであることが分かります。しかし、作品は、そのような、人間の一般的な<誕生>に、フィクションの要素を付け加えています。それは、人間の<誕生>の様子というものを、架空の物語によって「説明」しようとしているのではないでしょうか。それというのも、人間が生まれる際に、なぜ母親の身体から頭を出したりひっこめたりするのか、また、なぜ「おぎゃあ」と泣いて生まれるのか、そのような「疑問」に答えられる人はいないからです。もちろん、科学的な理由というものはあるのでしょうが、それはあくまで仮説にすぎません。この詩は、そのような「疑問」に、フィクションの力で答えようと試みています。赤ん坊が、折角出かかった頭を引っ込めるのは、親の懐具合や社会の状況について懸念して、生まれるのを躊躇しているからである。また、生まれる時に「おぎゃあ」と泣くのは、父親に「お尻ピンピンだぞ」と凄まれたために、恐怖を感じて泣いているのである。このような「説明」を加えることで、この詩は、赤ん坊の<誕生>にまつわる「疑問」を解決しようとしています。
 もちろん、これらの「説明」は、絶対的なものではなく、あくまで一つの想像を書き散らかしたものにすぎません。しかし、この詩の真の価値は、皆が納得していることに対して、改めて疑問を抱くところにあるのではないでしょうか。私たちは、赤ん坊の<誕生>というものに、科学的な説明を加えて、それで疑問を解決した気になっています。それに対し、この詩は、それでは何も解決されていないのだということを見破っています。この、当たり前に感じられる事柄を疑う姿勢、というところに、この詩の価値はあり、この詩を味わうということは、作品を読みながら、そうした姿勢を体得することを意味しているのではないでしょうか。
 このように、この作品は、赤ん坊の<誕生>の様子に疑問を抱き、架空の物語によってその疑問を解決しようとする、そんな作品でした。一般的なヒトの<誕生>を描いているという点で、この詩は、「シュールな設定」を持つ作品ではないと言えます。

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