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異形としての人間 —松下育男の詩「顔」について—

 今回は、詩人・松下育男の「顔」という詩について見ていきます。


   顔 松下育男

  こいびとの顔を見た

  ひふがあって
  裂けたり
  でっぱったりで
  にんげんとしては美しいが
  いきものとしてはきもちわるい

  こいびとの顔を見た
  これと
  結婚する

  帰り
  すれ違う人たちの顔を
  つぎつぎ見た

  どれもひふがあって
  みんなきちんと裂けたり
  でっぱったりで

  これらと
  世の中 やってゆく

  帰って
  泣いた


 この「顔」という詩は、その全体を通して、「人間の顔が気持ち悪く見えてしまう」という語り手の訴えを伝えています。そんなこの詩を、茨木のり子は『詩のこころを読む』という著書の中で引用しています。茨木は、語り手の切々とした訴えを、「泣き」と表現した上で、次のように述べています。

  こういう「泣き」は女性にはなく、男性特有のものでしょう。(茨木のり子『詩のこころを読む』、岩波書店、p,58)

 茨木のり子は、自らのこの発言を通して、「泣く」男性像、という一つのイメージを創り上げています。男性という対象に対して、架空のイメージを生み出すという抽象的な方法によって、その存在を理解しようと努める態度からは、彼女の知性が窺えます。しかし、私はそれに対して、この詩を、そんな風に抽象的に解釈してしまって良いものなのか、と疑問を感じます。なぜなら、実際には、この詩の内容のようなことを考える男性は、この語り手以外にはいないと思われるからです。もちろん、女性にも、「人間の顔は気持ち悪い」と考える人はいません。その事実を無視して、「この詩は男性の、ある性質を反映している」とするのは、正確性に欠けると思います。
 ともあれ、そのように、「人間の顔は気持ち悪い」と感じているこの詩の語り手の精神の在処は、私たちのそれとは遠く離れています。しかし、語り手は、その離れたところから、私たちに向かって語りかけているのです。そのため、私たちは、この語り手のことを「理解」しようと努めることができるわけです。
 では、具体的にはどのように、この語り手のことを「理解」すれば良いのでしょうか。それについては、この人物の言っていることに、よく耳を傾ける方法を取る必要があると思われます。

  ひふがあって
  裂けたり
  でっぱったりで
  にんげんとしては美しいが
  いきものとしてはきもちわるい

 という語りに注目してみましょう。まず、この語り手が、自分の恋人の、「美しい」はずの顔を見て、「きもちわるい」と感じているという事実が確認されます。私たちは、普段、人の顔を見て、「この人の顔は美しい」、あるいは「この人の顔は不細工だ」などと判断しています。しかし、この語り手は、どのような人の顔を見ても、「きもちわるい」と感じてしまうらしいのです(そのことは、「帰り/すれ違う人たちの顔を/つぎつぎ見た」という箇所以降の内容から分かります)。これは一体どうしてでしょうか。
 私たちが、人の顔を「美しい」、あるいは「不細工だ」と判断するのは、一つ一つの顔の“差異”に注目しているからです。顔の美醜の根拠というものは、一つ一つの“差異”にこそある。しかし、この語り手は、人間の顔を、もはやそうした従来の美醜の基準で見ることができなくなっているのです。それは、語り手が、あらゆる人間の顔というものに、“差異”を見出さなくなったからでした。そのことは、

  帰り
  すれ違う人たちの顔を
  つぎつぎ見た

  どれもひふがあって
  みんなきちんと裂けたり
  でっぱったりで

 の中の、「きちんと」という言葉から、読み取れます。この場合の「きちんと」は、「皆、一様に」、あるいは「一人も洩れることなく」、という意味で使われています。このように、語り手は、人間の顔の一つ一つに、“差異”というものを見出さなくなったため、美醜についての判断を下すための根拠を失ったのでした。
 しかし、語り手は、通常の美醜の基準とは異なる基準で、人間の顔に、「きもちわるい」という価値判断を下しています。この判断の材料となっている、新たな基準は、一体どこから生まれたのでしょうか。それについては、作品に、「にんげん」という言葉と「いきもの」という言葉が登場することに注目すれば、分かります。語り手は、人間の、一つ一つの顔の間に、“差異”を見出さなくなりました。その代わり、彼は、生き物の種ごとの顔の間に、“差異”があることに気づいたのです。 
 人間の顔一般というものは、他の生き物の顔と比べると、いかにも独特であると言えます。つるっとした剥き出しの皮膚というものが、「裂けたり」、「でっぱったり」していて、そんな顔を持つ生き物は、他にはいないと言えます。だから、人間という存在は、その顔一般の持つ特徴に注目すると、生き物の中の“異形”であると言えるのです。人間の顔の一つ一つに“差異”を見出さずに、生き物の種ごとの顔の間の“差異”に注目すると、このような考えに行き着きます。つまり、ミクロではなくマクロの視点を採用することによって、このような考えが生まれるのです。そして、“顔”を持っているのは人間だけでなく、全ての生き物であることを考えると、人間の顔の一つ一つに“差異”を見出すミクロな視点よりも、その細かい差を無いものとし、代わりに生き物の種一つ一つの顔に“差異”を見出すマクロな視点の方が、より適切であると言えます。だから、「人間は生き物の中の異形である」という語り手の考えは真実を語っている、と言うことができます。
 さて、ここまでで、次のようなことが分かりました。語り手の語りを要約すると、「人間は生き物の中の“異形”である」となるのでした。そして、そのような考えは、人間の顔の一つ一つの“差異”に注目せず、生き物の種ごとの顔の“差異”に注目する、そのようなプロセスを経て生まれるのでした。“異形”としての人間——、これは、人間という存在への新たな理解であると言えます。

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